人は、精巧な肉体があるだけでは人間とは呼ばれない。
記憶があるからでも、思考する心があるからでもない。人を真に人たらしめるものは、「誰かに一人の人間として認識され、扱われること」なのかもしれない。
だからこそ、人には名前がある。
名前とは、ただ個体を識別するための無機質な記号ではない。
「私はここにいる一人の人間だ」と世界へ示す、最初で最大の証明なのだ。
◆
「――治療は完了しました」
研究員からそう告げられた日の情景を、私は今でも鮮明に覚えている。
「人工トリオン器官との適合率、九八・七%。各部人工神経接続の安定を確認。欠損部位の再生・補正処置、すべて完了」
モニターを眺めながら、担当医は淡々と数値を読み上げていた。その声音には、ひとつの困難な症例を克服したという確かな達成感が滲んでいる。
私も胸の奥が熱くなり、自然と笑みがこぼれた。
「……ありがとうございます」
失われた元の肉体は二度と戻らない。けれど、こうして生きていられる。自分の足で歩き、息をし、身体を動かせる。
戦線へ戻れるかどうかはまだ分からない。それでも、命のバトンは繋がったのだ。
それだけで十分だった。ただ生かされたことに、心から感謝していた。
「本日をもって、貴方の『医療プログラム』はすべて終了となります」
「はい。本当にお世話になりました」
深く頭を下げる。これで長かった闘病とリハビリの日々に区切りがつく。
そう、信じていた。
◆
翌朝。
呼び出されて足を運んだ部屋は、昨日までの見慣れた場所とはまるで雰囲気が異なっていた。
清潔な診察室でも、温かな陽の差すリハビリ室でもない。
壁一面に巨大なモニター群が立ち並び、白衣の男たちが無表情にキーボードを叩き交わす部屋。
医療棟の最深部――普段なら患者の立ち入りが固く禁じられている特殊研究区域だった。
「こちらへどうぞ」
促されるまま、中央に置かれた無機質な金属の椅子へ腰を下ろす。
向かいに座った五十代ほどの研究者が、机の上に厚みのある資料をずらりと並べた。視界に入った紙面には、私の体データが緻密なグラフと専門用語で埋め尽くされている。
適合率。神経伝達速度。人工器官との同期レート。
「屍山血河さん」
「……はい」
「ひとつ、極めて重要なお話があります」
担当医ではない。初めて見る研究者だった。
眼鏡の奥で光る彼の瞳には、医療者特有の慈悲ではなく、未知の成果を前にした科学者特有の異常な熱っぽさが宿っていた。
「貴方の『治療』は昨日で完全に終了しました」
「ええ」
「ですが――これほどの異常な適応率は、我が技研の歴史においても前例がありません」
研究者は手元の資料を一枚めくり、ペン先で数字をトントンと叩いた。
「本来、異物である人工トリオン器官の生体移植には激しい拒絶反応が伴います。しかし貴方は違う。貴方の肉体は技術を拒絶しないどころか、貪欲に受け入れ、統合している」
彼は身を乗り出し、興奮を隠しきれない様子で数字を読み上げていく。
「適合率九八・七%。神経伝達速度一〇七%。身体能力の上昇予測値……なんと一六四%。これはまさに奇跡的なデータです」
ズラリと並ぶ無機質な数値。完全には意味を理解しきれない。だが、自分が医療の枠組みを逸脱した「規格外のサンプル」として見られていることだけは、はっきりと理解できた。
「そこで、我々から『提案』があります」
提案。その響きに、胸の奥で小さな警鐘が鳴った。
「貴方には、明日から『第二段階の研究』へ移行していただきたい」
「第二段階、ですか」
「ええ。医療の段階は終わりました」
研究者は満足げに細く口元を歪めた。
「次は――運用のための『応用』です」
淡々と、しかし淡白な情熱を込めて説明は続けられた。
人工器官の過負荷稼働。トリオン循環の強制増幅。感覚の遮断と増幅。戦闘適性の数値化。
聞き慣れない技術用語が次々と紡がれていく。私はそれらの意味をひとつずつ脳内で整理し、言葉の裏にある本質へと削ぎ落としていった。
「……つまり」
私が呟くと、研究者は満足そうに頷いた。
「ええ。簡単に言えば『人体性能強化実験』です」
隠す様子もなく、その言葉は放たれた。
治すための研究ではない。人を人として生かすための医療でもない。
「貴方ほどの適合率があれば……単なる復職どころか、圧倒的な『戦力』として運用が可能になりますから」
その瞬間。
胸の奥に、冷たく重い違和感が落ちてきた。
戦力――その言葉自体に嫌悪感があるわけではない。
ボーダーに入隊し、近界民から人を守るために戦いたいという夢は今も胸の奥で燃えている。その意思に嘘はない。
だが。
今、この無機質な部屋で提示された「戦力」という言葉には、私が思い描いていた「誰かを守るための意志」が微塵も含まれていないように聞こえた。それは人を人間としてではなく、兵器のパーツとして数える言葉だった。
部屋を出て重い足取りで廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから那須さんが歩いてきた。
「あ……屍山さん」
彼女は私に気づくと、パッと表情を明るくした。
「検査、終わられたんですか?」
「うん、いま終わったところだ。那須さんは?」
「私も今日の経過観察が終わりました。先生に『順調だからもう少し様子を見ましょうね』って笑われちゃいました」
「そうか。順調なら何より」
いつものように口元を緩め、返事をする。
けれど、先ほど脳裏に刻み込まれた言葉が、呪具のように頭から離れなかった。
――医療は終わりました。
――次は応用です。
――『戦力』として運用できます。
目の前で無邪気に微笑む彼女と、自分との間に、目に見えない巨大な亀裂が入り始めているのを感じる。私はもう「患者」ではなくなったのだろうか。
まだ確かな答えは出ない。だが、自分という存在の輪郭が少しずつ変質し始めているという予感だけが、冷たく胸に立ち込めていた。
◆
その日の夕刻。
研究員から、明日以降の新しいスケジュール表が手渡された。
チラリと見えた那須さんの予定表には、これまで通り「診察」「リハビリ」「経過観察」と、生きていくための丁寧な言葉が並んでいる。だが、私の手元にある紙片は違っていた。
【午前:人工器官過負荷増幅試験】
【午後:戦闘適性および反射速度測定】
【夕方:対トリオン兵器統合連携実験】
私は無言で、その紙片をじっと見つめていた。
そこには、「治療」や「回復」という温かな言葉はどこにも見当たらなかった。代わりに並んでいるのは、ただ機械としての性能や限界値を測るための項目ばかり。
人を救うために始まったはずの技術は、いつの間にか「人を効率よく戦わせるための技術」へと姿を変えていた。そして私は、その歪んだ実験の中心に、一人の『検体』として立たされようとしていた。