『全て黒く焼き尽くす鳥』と『鳥籠』   作:あばなたらたやた

8 / 10
第八話:患者番号 NB9

 

 

 

 人は、少しずつ変化していく。

だからこそ、その小さな変化の兆しには気づきにくい。

 

 ある日突然、劇的に人ではなくなるわけではないのだ。昨日と同じように朝の目を覚まし、昨日と同じ足取りで廊下を歩き、昨日と同じ顔ぶれと穏やかな挨拶を交わす。

 

 だが、その平穏な積み重ねの裏側で、ほんの僅かずつ「周囲からの見られ方」だけが変質していく。

 

 そしてふと立ち止まった時には、自分の居場所はもう、昨日の場所とは決定的に違ってしまっているのだ。

 

     ◆

 

 新しい実験プログラムは、翌朝から早速スタートした。

案内されたのは医療棟ではなく、地下深くに位置する特殊実験区画。

 

 扉の無機質な色も、壁の重厚な材質もこれまでと違う。漂う空気も、病院特有の消毒液の匂いより、冷たい金属と機械油の匂いが強く鼻をついた。

 

 広い部屋の中央には無数の高精度計測機器と、訓練用に設置された人型のトリオン兵が並んでいる。

 

「これより身体強化試験を開始する」

 

 担当の研究員が告げる。その声には感情の波がなく、ひたすら事務的だった。

 

「まずは基本走行速度の測定。続いて人工神経の反応速度。最後に模擬戦闘データを取得する」

「わかりました」

 

 私は短く頷いた。

 やり方が変わっても、やるべき思考の手順は変わらない。

 

 説明を聞き、内容を理解し、試し、得られた結果を観察・記録する。それ自体は今までの医療検査と同じプロセスだ。

 

 違っていたのは、その「目的」だけだった。

以前は、一人の人間を救い、治すため。

 今はただ、ひとつの生体兵器としての性能を評価するため。

 

     ◆

 数日後。

 その決定的な目的の違いは、より露骨な形となって目の前に現れた。

 

「――NB9、こちらへ」

 

 白衣の研究員が、手元の端末を見つめたまま私を呼ぶ。私は一歩踏み出しかけて、ふと違和感に足を止めた。

 今、なんと呼ばれた?

 返がないのを不審に思ったのか、研究員は視線を向けずにもう一度口にした。

 

「NB9」

 

一瞬だけ思考を巡らせ、周囲を見回す。広々とした実験室に患者の姿は他にない。

 

「……私のことでしょうか」

「そうだ」

 

 研究員は心底不思議そうな顔をして、眼鏡の奥の目を瞬かせた。

 

「貴方の新しい管理番号だ」

 

 そう言って、慣れた手つきで端末の画面を操作する。

 

「正式プロジェクト名称は『New Body Project No.9』。管理上の理由から、現場では今後この呼称を使用する」

 

 淡々とした、一切の悪意を含まない説明だった。彼らに攻撃性はない。ただ、決められた運用手順を正確に伝えているだけなのだ。

 それなのに。

 胸の奥の人工パーツの接合部が、冷たく軋むような感覚があった。

 実験は間髪入れずに進んでいく。

 

「NB9、反応速度良好」

「NB9、トリオン循環値正常」

「NB9、筋出力の一二パーセント向上を確認」

「NB9、次のメニューへ移行」

 

 誰も「屍山さん」とは呼ばない。

 誰も「血河」という私の名に触れようとしない。

 

 研究員たちにとって重要なのは、私という人間の背景や心ではないのだ。この補強された身体。はじき出される膨大なデータ。そして、九八・七%という異常な適応率。

 

 理屈は重々理解できる。研究には客観性と再現性が必要だ。個人名ではなく共通の管理番号で統一した方が、記録やデータ処理の効率も格段に上がる。

 ロジックとしては完璧に正しい。だからこそ、私はそれを拒絶することも否定することもできなかった。

 

 昼の休憩時間。私は重い足取りで地上階のラウンジへと向かった。医療棟へ戻ると、そこには見慣れた温かな空気が流れていた。

 

 患者たちの他愛のない話し声、看護師たちの忙しないが優しい足音、窓から柔らかく差し込む陽の光。張り詰めていた肩の力が、自然と抜けていく。

 

「あ、屍山さん」

 

 窓際の席から、那須さんがパッと顔を輝かせて手を振ってくれた。

 

「今日は少し早かったんですね」

「ええ、午前のメニューがスムーズに終わって」

 

 向かいの席に腰を下ろす。

 

「那須さんの調子は?」

「私はいつも通りですよ」

 

 彼女は紙パックのストレートティーを手に、穏やかに微笑んだ。

 

「呼吸機能の精密測定と、軽い歩行リハビリだけでした」

「そうですか、無理のないスケジュールで何よりでした」

「屍山さんは……どうでしたか?」

 

 その問いかけに含まれた響きに、私は胸の奥で密かに深い息を吐いた。

 ちぃかわさん。

 いつもの、私という人間を指す呼び名だった。

 

「今日から少し、実験の内容が変わってな」

「そうなんですか?」

「ああ。身体能力の限界値測定や、模擬戦のデータ取りなんかをやっている」

「……では、治療の方は?」

「完了した、と言われたよ」

 

 彼女は自分のことのようにパッと表情を明るくした。

 

「本当ですか! それは良かったです……!」

 

 その心からの笑顔を見て、私は少しだけ口を閉ざした。地下で自分が「NB9」という無機質な番号で呼ばれ始めていること。人間ではなく「検体」として扱われつつあること。

それを伝えて、彼女に余計な心配や影を落とす必要はない。

 

「……うん、順調だよ」

 

 私はそう言って静かに話題を変え、彼女の今日のリハビリの感想に耳を傾けた。

 

     

 午後。再び地下の実験区画へと足を踏み入れる。入室するなり、資料に目を走らせていた研究員が言った。

 

「NB9、午後の適合試験を開始する」

 

 また、その番号だった。

私は少しの躊躇もなく、ごく自然に応答してい た。

 

「はい」

 

 返事をした瞬間、自分自身の反応の速さに密かな衝撃を受けた。たった数前まで強烈な違和感を抱いていたはずの記号に、私の思考と身体がもう適応し始めている。

 

 人は環境に適応する生き物であり、それこそが生存のための強さだと自分自身も信じてきた。だから適応すること自体は決して悪いことではない。けれど――環境への完璧な「適応」の果てに、人は何を削ぎ落とし、失っていくのだろうか。

 

     ◆

 

 その日の帰り道。

 静まり返った廊下を歩いていると、ある研究室の半開きの扉の隙間から、男たちの話し声が漏れ聞こえてきた。

 

「――NB9の適合速度は、我々の予想以上だ」

「ええ。このペースなら、実戦力としての現場投入まで想定より半年は前倒しできますね」

「素晴らしい。兵器開発部の方にも最新データを共有しておいてくれ」

「了解しました」

 

 立ち止まり、その会話を静かに聞く。

 そこには、「屍山血河」という一人の人間の名前は一度たりとも現れなかった。

 その名はきっと、古いカルテの奥底に格納されたのだろう。

 今、白衣の男たちが見つめているのは、一人の青年の意思や人生ではない。

 適応率九八・七%の優良な実験体。

 早期投入が期待される戦力候補。

 最新技術の成果物。

 管理番号――NB9。

 私は怒ることも、彼らを恨むこともなく、静かにその場を立ち去った。ただひとつだけ、冷たい問いが静かに胸の奥へ沈んでいく。

 

 ――もしもこの場所で、誰も私の名前を呼ばなくなった時、私はまだ、「私」という一人の人間でいられるのだろうか。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。