人は道具を作る。
道具は人を脅威から守り、高度な技術は失われかけた命すら救い出す。そこまでは間違っていない。
だが、絶対に越えてはならない境界線がある。
技術を生み出し、使う側であるはずの「人」そのものを道具として扱い始めた時、技術はもはや人を救うためのものではなくなるのだ。
その一線を越える瞬間、世界が音を立てて崩れ去るわけではない。ただ静かに、何事もなかったかのように日常の中へ溶け込んでいく。
◆
「――NB9、次回試験の準備を」
「――NB9、これより第三区画へ移動」
「――NB9、戦闘データの記録を開始する」
地下実験区画の冷たい空気のなか、白衣の男たちが無表情にその記号を口にする。
もう誰も、その呼び名に違和感すら抱いていないようだった。研究員たちが管理番号を呼び、私が淡々とそれに応じる。
不自然だったはずのやり取りは、繰り返されるうちに機械的な習慣へと成り下がっていた。最初は胸の奥に冷たく引っかかっていた棘のような違和感も、日を追うごとに摩耗し、薄れていく。
人は環境に慣れていく生き物だ。
身体の痛みに。無機質な環境に。己を呼ぶ記号の無機質さに。だからこそ、私は胸の奥で密かな恐怖を覚えていた。
この無機質な記号に、私自身の心が何とも思わなくなっていくことが。
地下で行われる模擬戦闘試験は、日に日に苛烈さを増していった。
対峙する相手は、訓練用の人型トリオン兵。
最初は一機。
次は三機。五機。八機。
私の適応率の上昇に合わせて、立ちはだかる敵の数だけが無感情に増やされていく。
「――試験、開始」
スピーカーからの合図と同時に、人工筋肉にトリオンを巡らせて床を強く蹴る。
右へ素早く回り込んで敵の射線を切り、標準装備のライフルを二発。牽制と同時に 死角へ滑り込んできた別個体へ、最短距離でレーザーブレードを打ち込む。
背後からの急襲には、左肩に増設された追従ドローンが正確な自動迎撃で応えた。
鈍い爆発音。視界が一瞬激しく揺れる。
その爆風の隙を利用して距離を取り、素早く呼吸を整えながら残った敵の挙動を静かに観察する。
変わらない、いつもの戦い方だ。派手な大技も、無駄な動きもない。相手の癖を見る。状況の変化を見る。勝てる手順を組み立てる。それだけだ。
「――試験、終了」
無機質なアナウンスが響き渡る。
「戦闘完了時間、三分四十二秒。被弾率二パーセント」
「戦闘中の判断速度、基準値より一九パーセント向上」
肩で呼吸をしながら、モニター前の研究員たちの会話に耳を傾ける。だが、彼らは誰一人としてこちらを見ようとはしなかった。彼らが目線を注いでいるのは、モニターに踊るグラフィカルな数値だけだ。
「反応速度が順調に伸びていますね」
「トリオンの循環経路も安定しています。予定通り、明日は第二段階の過負荷実験へ進めましょう」
そこに「屍山血河」という人間の存在はなかった。並んでいるのはただ、兵器としての性能を示すデータと数値だけだった。
昼の休憩時間。
私は吸い寄せられるように、いつもの地上ラウンジへと足を向けていた。
地下の実験区画から医療棟へと戻るだけで、世界を包む空気の質感が劇的に変わる。
機械の稼働音ではなく、人間の柔らかな話し声。性能の評価ではなく、体調を気遣う優しさ。
ここにはまだ、人を「人」として扱う温かな日常が残されていた。
「あ……ちぃかわさん……」
「…………」
「あれ、あれ? 屍山さん? 屍山血河さん?」
聞き慣れた涼やかな声に顔を上げる。那須さんだった。
彼女はいつも通り、当たり前のように私の人として扱ってくれる。
その四文字の響きが、砂漠に染み込む水のように胸の奥へ深く温かく染み渡っていった。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様」
彼女の向かいの席に腰を下ろす。
那須さんは私の顔をじっと観察するように見つめると、小さく首を傾げた。
「……少し、お疲れですか?」
「ん……ええ、少しだけ」
「地下での実験、大変なんですね」
「まぁ、そうですね」
それ以上は言えなかった。
どう説明すればいいのか、自分でも言葉が見つからなかったからだ。
「今日はどんな検査だったんですか?」
紙パックの紅茶を手に、那須さんが優しく尋ねてくる。
「基本身体能力の測定と……そのあとは模擬戦闘の試験だ」
「戦闘……」
彼女の長い睫毛が揺れ、少しだけ驚いたような表情を浮かべた。
「もう、そんな段階まで進んでいるんですね」
「そうみたいです」
私は曖昧に微笑んで、紙カップのコーヒーに視線を落とした。
本当は違う。“そんな段階”などという生易しいものではない。これはもう、身体を治すための医療などではないのだ。けれど、その冷酷な事実を言葉にして口に渡してしまったら、何かが決定的に壊れてしまう気がした。
その時だった。
自動ドアが開き、地下の白衣を着た研究員が一人、ラウンジの中へと入ってきた。周囲を見回し、私を見つけると一直線にこちらへ歩いてくる。
「ああ、ここにいましたか」
悪びれもせず、彼は私の目の前で口を開いた。
「NB9」
反射的に、身体が背筋を伸ばして立ち上がっていた。長年の訓練と、この数日で叩き込まれた習性による動作だった。
「午後の適合試験のスケジュールが繰り上げになりました。至急、地下第三実験室へ入室してください」
「……わかりました。すぐ向かいます」
短く返事を刻む。
研究員は「よろしい」とだけ言って、私の返答の質すら確認せずにすぐさま背を向けて去っていった。
ラウンジに、再び静寂が戻る。
私は少し気まずさを覚えながら、もう一度席に腰を下ろそうとして――
「……ちぃかわさん」
呼び止める声に、動きがピタリと止まった。
那須さんはいつもの穏やかな表情のまま、まっすぐ私を見つめていた。
「今の……」
彼女は言葉を少しだけ吟味するように間を置き、静かに口を開いた。
「『NB9』って……?」
私は一瞬だけ言葉に詰まり、努めて軽やかな自嘲の笑みを浮かべてみせた。
「ああ……管理番号だよ。あっちでは、効率が良いからって最近そう呼ばれているんです」
大したことではない、と自分にも言い聞かせるように、なるべく気にしていないトーンで吐き出す。けれど、自分の声が自分でも引くほど乾いていることに気づいていた。
そして、私の微かな変化を見逃さない彼女の繊細な観察眼が、その乾いた嘘を見抜けないはずはなかった。