薄暗い部屋に、コツン、と乾いた音が響いた。
静寂を破ったのは、一つの棺桶。
蓋がゆっくりと押し上げられ、中から一人の青年が身を起こす。
「……ん」
長い黒髪を首の後ろで束ねた青年――行人は、ぼんやりと辺りを見回した。
鼻をくすぐる薬品の匂い。
壁際には整然と並ぶ無数の棺。
天井から吊るされた淡い燭台の光が、部屋全体を青白く照らしている。
「ここは……」
記憶はある。
同胞であるアタバクとの戦い。
その後、裁きの場に立たされたことも覚えている。
だが、その先が思い出せない。
ふと視線を落とすと、棺の縁に一枚の紙が置かれていた。
行人は拾い上げる。
そこには、たった一行。
『あるべきものを、あるべき場所へ』
「……何のことだ?」
何度読み返しても意味が分からない。
誰が書いたのかも分からない。
師匠の嫌がらせか、と一瞬だけ思ったが、あの男ならもっと人を食った文面にするだろう。
首をひねりながら紙を懐へしまい――
「……ん?」
違和感に気付く。
妙に肌寒い。
自分の体を見下ろした。
「…………」
何も着ていない。
頭の先からつま先まで、見事なまでに何も。
「まずい」
行人の顔から血の気が引いた。
敵を前にした時よりも真剣な表情で周囲を見回す。
「これは社会的にまずい」
二十歳の成人男性が全裸。
しかも死体安置所らしき場所で目覚めた。
状況だけ切り取れば完全に変質者である。
「落ち着け……。まずは服だ」
棚を開ける。
空。
箱を開ける。
空。
棺を覗く。
もちろん空。
「布切れ一枚ないのか、この教会は!」
小声で抗議するが、返事はない。
数分後。
行人は現実を受け入れた。
「……探しても無いものは無い」
覚悟を決める。
扉をほんの数センチだけ開け、左右を確認。
「よし……誰もいない」
こっそりと廊下へ滑り出る。
(とにかく人を探そう。いや、待て。見つけたとして、何て説明する?)
『すみません、目が覚めたら裸でした』
……不審者だ。
『実は異世界へ飛ばされまして。』
もっと不審者だ。
『服を貸してください。』
……これはギリギリいけるか?
「いや、無理だろ……」
行人は額を押さえ、小さくため息をついた。
アタバクとの死闘よりも難しい問題が、彼の目の前に立ちはだかっていた。
◇
地下から続く石造りの階段を上り切ると、眩い陽光が行人の全身を包んだ。
「……眩しい」
思わず目を細める。
廊下の窓から見える景色は、見慣れた冥界とは似ても似つかないものだった。
ガラス張りの高層ビルが幾重にも立ち並び、整備された道路には無数の車両が行き交う。
「都会……か」
ここがどこなのかは分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
「……まず服だ」
現在の行人は、生まれたままの姿だった。
魂を異世界に流刑。
そのため衣服はおろか、半身である
成人男性が全裸で街を歩けばどうなるか。
答えは考えるまでもない。
社会的に終わる。
「早く何か見つけないと…」
慎重に廊下を歩き始めた、その時だった。
遠くから子ども達の楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「中庭か…」
反射的にそちらへ視線を向けるが、すぐに首を横へ振った。
「駄目だ」
この姿で近付いた瞬間、人生が終わる。
戦場ならまだしも、ここで不審者扱いされるなど御免だった。
人の気配を避けながら歩き続けると、一つの部屋が目に入る。
扉は半開き。
気配はない。
「失礼します」
小さく呟き、中へ入る。
寝台、机、本棚。
生活感のある部屋だった。
しかし今の彼に必要なのは生活用品ではない。
服だ。
視線を巡らせた瞬間、窓際で揺れる白いカーテンが目に入る。
「……器物損壊だが、背に腹は代えられない」
右手を軽く振る。
鋭い手刀が布を綺麗に切り裂いた。
行人はそれを腰へ巻き付ける。
即席の腰布ではあるが、何も着ていないより遥かにましだ。
「ふぅ、助かった」
ようやく一息ついた、その瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。
「なっ!?」
入ってきたのは若いシスターだった。
彼女はカーテンを腰に巻いた見知らぬ青年を見て硬直する。
そして次の瞬間には顔を真っ赤に染めた。
「ア、アンタ何してるのよっ!!」
右手を突き出す。
指先から放たれた光弾が一直線に飛来した。
「っ!」
紙一重で身体を捻り、光弾をかわす。
壁に着弾した光は小さな爆発を起こした。
(まずい。次が来る)
騒ぎが大きくなれば、それこそ逃げ場はない。
行人は床を蹴る。
一瞬で間合いを詰めると、指拳をシスターの額へ軽く打ち込んだ。
「え……?」
そのまま力なく膝が崩れる。
行人は慌てて身体を支えた。
「すまない。少し眠っていてくれよ」
床へ倒れないよう抱き止めた、その時だった。
「おや?」
聞き覚えのない女性の声が廊下から響く。
「何処へ消えたかと思えば、こんな所にいましたか」
行人はゆっくり振り返る。
そこには銀髪を肩まで伸ばした、一人のシスターが立っていた。
黄金の瞳が静かに行人を見つめている。
そして彼女は、腕の中で眠るシスターへ視線を移すと、小さく肩を竦めた。
「早速、部屋へ女性を連れ込むとは……中々お盛んですね」
「違う! これは誤解だ!」
思わず叫ぶ。
「ええ、皆さん最初はそう仰います」
「本当に違うんだ!」
頭を抱える行人。
アタバクとの死闘ですら、ここまで追い詰められた記憶はない。
そんな彼を見て、銀髪のシスターはくすりと笑った。
「安心してください。事情は大体察しています」
彼女は優雅に一礼する。
「ようこそ、冥王教会ミッドチルダ支部へ」
その黄金の瞳が、真っ直ぐ行人を見据えた。
「私は天沌星キマイラのエレン。以後、お見知りおきを…」
ようやく話の通じそうな相手が現れた。
そう安堵した行人だったが――。
(……まず、この誤解を解かないと)
異世界で最初に待っていた試練は、世界を救うことでも、強敵との戦いでもなかった。
変質者疑惑の払拭。
それが、天虚星レヴィアタンの行人に与えられた最初の任務だった。
◇
死体安置所から地上へ出た行人は、渡された法衣に袖を通し、小さく息を吐いた。
「助かった」
先ほどまで社会的に完全アウトな状態だったのだ。
いくら異世界だろうと、成人男性が裸で歩き回れば言い訳などできない。
「なかなか似合っていますよ」
「どうも……」
エレンの言葉に、行人は適当に返事をする。
褒めているように聞こえるが、絶対に心からではない。
そんなことは分かっていた。
「さて。お互いに現状を確認しましょうか」
エレンは椅子に腰掛け、淡々と告げる。
「あなたは罪人として、この地、この世界へ送られました」
「……」
「罪状は、独断による同胞殺し。異論は?」
「ありません」
即答だった。
エレンは少しだけ目を細める。
「潔いですね」
「言い訳をしても、やったことは変わらない」
行人の表情に迷いはない。
「あなたが来る少し前、双子神よりお達しがありました」
そう言ってエレンは、行人の持つ紙切れを見る。
「それです」
「これ?」
行人は紙を広げる。
そこに書かれているのは、ただ一文。
――あるべきものを、あるべき場所へ。
「……いや、抽象的すぎないか?」
行人は眉をひそめる。
「つまり、本来あるべきものを元の場所へ戻せということです」
「いや……だから、それが分からないんだけど」
珍しく行人が困った顔をする。
その瞬間だった。
「シスター・エレン!」
扉が勢いよく開く。
「大変です!」
入ってきた少女は、行人を見るなり硬直した。
「アンタ……さっきの!?」
行人も固まる。
「変質者!?」
「違う!」
反射的に否定する行人。
しかしエレンは淡々と続けた。
「ちょうどいいですね。紹介しましょう」
「え?」
嫌な予感しかしない。
「こちらは、上からの指示でこのたび教会に住むことになった――」
エレンは行人を見る。
「行人・イ・ソーロー神父です」
「……は?」
行人は思考が止まった。
「早漏神父。こちらはあなたの先輩になるシスター・ティアナです」
「は? こんな変質者が?」
エレンは微笑む。
「二人とも、仲良くしてください」
「「無理です」」
二人の声が重なった。