カーテンの隙間から、柔らかな朝日が差し込む。
礼拝堂の高い窓から降り注ぐ光は、ステンドグラスを透かして淡く砕け、床の大理石の上に色とりどりの影を落としていた。ひんやりとした空気には、古い木材と蝋の残り香が混じり、わずかに埃の匂いが鼻をくすぐる。
銀色に輝く髪が光を受けて揺れ、
天沌星キマイラのエレンは欠伸を一つ噛み殺しながら修道服へ袖を通した。
「さて……今日も新人をいびり倒しましょうか」
誰に聞かせるでもない独り言。
気合いを入れるように小さく肩を回した、その時だった。
ふと、エレンの視線が机の上で止まる。
そこには一枚の写真が飾られていた。
差し込む朝の光が写真立ての縁を淡く照らし、ガラス面に小さな反射を生んでいる。
静かな礼拝堂の遠くでは、誰かが燭台を磨く金属音がかすかに響き、規則正しい擦過音が空間の静けさを際立たせていた。
写真立てを見つめるエレンの表情が、ほんのわずかだけ和らぐ。
普段なら絶対に見せない、小さな笑み。
それも一瞬だけだった。
「……そんな顔をしないでください」
写真の中の人物へ語りかけるように呟く。
その声は礼拝堂の高い天井へ吸い込まれ、蝋の匂いと混ざりながら静かに消えていく。
「似合わないことは、分かっているんですから」
そう言うと、エレンはいつもの皮肉げな笑みを浮かべて部屋を後にした。
◇
礼拝堂の中央では燭台が整然と並び、日光を受けて鈍い銀色の輝きを放っていた。
磨かれるたびに金属が擦れる乾いた音が響き、時折、布が表面を滑る柔らかな音がそれに重なる。
空気には蝋と埃の混じった匂いが漂い、長く使われてきた聖堂の時間の重みを感じさせていた。
「ほら、キリキリ働きなさい」
「は〜い」
気の抜けた返事をしながら、行人は銀製の燭台を布で磨いていた。
指先に伝わる金属の冷たさと、磨くたびに少しずつ増していく光沢。
拭き上げるたびに、燭台は陽の光を受けて柔らかく反射し、礼拝堂の床に淡い光の筋を落としていく。
礼拝堂に並ぶ食器や燭台はどれも装飾が細かく、磨き上げるだけでも一苦労だ。
彫り込まれた模様の隙間には古い埃が溜まり、布を当てるたびにかすかな粉塵が舞い上がる。
もっとも、行人はこうした作業自体は苦ではない。
かつてパンドラの城で執事見習いとして働いていた経験があるため、手際はむしろ良いくらいだった。
問題はやる気である。
「そんなにショックですか? 元の世界へ帰れないことが」
エレンが横目で見る。
彼女の声は、礼拝堂に響く金属音の合間を縫うように落ちてくる。
「そりゃそうだろ」
行人は布を動かしながらため息をついた。
その息は冷えた空気に白くはならず、代わりに燭台の表面へかすかな曇りを残す。
「聖戦なんて聞こえはいいけど、結局は人類の存亡を懸けた戦争だぞ。参加した
それでも。
「俺は、その戦いの為に師匠のシゴキに耐えてきたんだ」
燭台を机へ置くと、金属が石の台に当たって澄んだ音を立てた。その音は礼拝堂の奥へと反響し、しばらく消えかった。
「ハーデス様の為になるとはいえ、小間使いになるために
「それなら、ティアナを説得すれば良かったじゃないですか」
エレンは腕を組み、淡々と言った。
彼女の足元では磨かれた床が朝の光を受けて静かに輝いている。
その言葉に行人は即座に首を横へ振る。
「馬鹿言え」
「六課では『戻って来い』と言われる」
「教会でも『戻るべきだ』なんて言われたら、あの子はどこで気を休めるんだ?」
少しだけ声が低くなる。
礼拝堂の静寂が、その重さをそのまま受け止めた。
「あの子に今必要なのは、心の静養だ」
「俺の都合に付き合わせるなんて真似…できるか」
一瞬だけ、エレンは黙った。
遠くで燭台を磨く音だけが、規則正しく響いている。
やがて鼻で笑う。
「……不器用ですね」
「何がだ」
「私はてっきり…」
口元を意地悪く吊り上げる。
「あの子を籠絡して、この世界へ永住する気かと思っていましたよ」
「失礼な女だな」
行人は呆れ顔になる。
燭台を再び手に取り、布で拭うと金属が朝の光を鋭く跳ね返した。
「性格悪いって言われないか?」
「言われてるに決まってるでしょう」
エレンは悪びれもしない。
礼拝堂の蝋の匂いの中で、その言葉だけが妙に乾いて響く。
「皆、諦めて忠告すらしなくなりましたよ」
「だったら改めろよ」
「嫌です」
即答だった。
燭台の金属音が一瞬止まり、再び静かに再開される。
「他人の機嫌を窺った結果、舐められ、仕事を押し付けられ、最後には潰れた人を知っているでしょうに」
「……」
その言葉に行人は口を閉ざした。
反論できない。
礼拝堂の空気は冷たく、しかしどこか澄んでいて、二人の沈黙をそのまま包み込んでいた。
やがて行人は苦笑しながら肩を竦めた。
「でもさ」
「何です?」
「ティアナがあんたみたいな女になるのだけは勘弁だな」
エレンの眉がぴくりと動く。
燭台を磨く手が止まり、金属が小さく鳴った。
「それだけは全力で阻止する」
「どうぞご勝手に」
エレンは鼻を鳴らし、燭台を指差した。
その先では朝陽を受けた銀が静かに輝き、礼拝堂の床に細い光の帯を落としている。
「ほら、手が止まってますよ」
「はいはい」
再び布を動かし始める行人。
礼拝堂には、銀を磨く乾いた音と、遠くで揺れる光のきらめき、そして埃と蝋の匂いに満ちた静けさの中で、二人の他愛ないやり取りだけが静かに響いていた。