夜の冥王教会。
石造りの尖塔が月光に鈍く白く浮かび、中庭は黒い影に沈んでいた。
礼拝堂のステンドグラスから漏れる燭光が、風に揺れて淡く瞬く。
冷えた夜気は乾き、吸い込むたびに肺の奥がわずかに痛む。
草木の匂いと昼の熱を残した石畳が混ざり合い、澄んだ空気を形作っていた。
その静寂を破るように、乾いた破裂音が一定の間隔で響く。
パンッ。
パンッ。
夜に吸い込まれながらも、確かな輪郭を持って残響する。
放たれた小さな光弾が淡い尾を引き、一直線に木製の的の中心を撃ち抜いた。
命中の瞬間、乾いた木がわずかに軋み、微細な破片が夜風に散る。
最後の一枚が揺れながら倒れた。
「……ふぅ」
ティアナは小さく息を吐く。
白くはならない吐息は夜気に溶け、すぐに消えた。
六課の訓練に比べれば児戯のような内容だ。動く標的も時間制限もない。ただ静止した的を撃つだけ。
それでも、なぜか止める気にはなれなかった。
石畳に響く自分の呼吸がやけに大きい。遠くで夜鳥が一度鳴き、すぐに沈黙へ戻る。
六課のことか、昼間エレンに振り回された腹いせか。理由は分からない。
ティアナは夜空を見上げた。
雲間の月が冷たく尖塔を銀色に縁取る。
その時、裏門がギィと軋んで開いた。
「お疲れ様ー」
軽い声が夜風に乗る。静けさを乱さずに溶け込む声だった。
「お疲れ様です」
振り向くと、額に汗を浮かべた行人が立っていた。
走り込んできた熱がまだ残り、白い息が短く散る。
「行人さん、今日も走り込みですか?」
「ははっ。教会の雑務ばっかりだと体が鈍るからな」
行人は苦笑しながら頭を掻く。
「神父なんだから、別に気にしなくてもいいと思いますけど」
「それはそれ、これはこれ」
軽く笑い、行人は地面に腰かけた。
彼は呼吸を整えながら柔軟を始める。
ティアナはその様子を眺める。
修道服越しでも分かる鍛えられた体。
無駄のない動きと、しなやかな芯の強さ。
汗が月光を一瞬だけ反射して消える。
見慣れた武装隊員の身体とは違う。
鋼のようでありながら、風のように柔らかい。
「……
「ん?」
行人が顔を上げる。
「エレンさんに聞きました。行人さんは
聖王教会でいうところの教会騎士のようなものだろうか。
昼間の穏やかな姿が脳裏をよぎる。
子ども達と笑い合う声、柔らかな表情。
どう見ても戦士には見えない。
「何でそんなものになったんです?」
沈黙の後、行人は口元を緩めた。
「へぇ、俺に興味が出てきた?」
ティアナは一瞬だけ顔をしかめる。
「……やっぱりいいです」
踵を返し、歩き出す。
「おやすみなさい」
「えっ、ちょっ……!」
行人が慌てて立ち上がる。パラパラと砂と土が零れ落ちた。
「待って待って!」
ティアナは振り返らない。
「分かった、分かったから!」
行人は両手を上げて苦笑した。
「教えるよ」
その言葉に、ティアナはゆっくり振り返る。
月光が横顔を照らし、瞳に微かな光を宿す。
夜風が二人の間を静かに吹き抜けていった。
◇
行人は少しだけ夜空を見上げた。
さっきまでの軽い笑みは消え、静かな表情になる。
「俺には家族がいてな」
ぽつりと語り始める。
「父さんと母さん、それに兄と俺。四人家族だった」
ティアナは黙って耳を傾ける。
「父さんは医者で、母さんは専業主婦。外から見れば、そこそこ裕福で幸せな家庭だったと思う」
一拍置く。
「……外から見れば、だけどな」
その声には乾いた響きがあった。
「父さんは典型的な学歴至上主義だった」
行人は苦笑する。
「自分より学歴の低い人間は、人格まで劣っていると本気で信じてた」
「……」
「母さんは優秀な人だった。でも親の勧めでお見合いして、就職せずに結婚した」
夜風が木々を揺らす。
「だから父さんには頭が上がらなかった」
静かに、淡々と続ける。
「そんな父さんにとって、子どもは家族じゃない。自分の後を継がせるための道具だった」
ティアナの瞳がわずかに揺れる。
「兄は凄かった」
その言葉だけは、わずかに誇らしげだった。
「頭も良くて人望もある。生徒会にも入って、誰かのために動くのを苦にしない奴だった」
自然と笑みが浮かぶ。
「自慢の兄貴だったよ」
だが、その笑みはすぐに消えた。
「それに比べて俺は捻くれててな」
「勉強は駄目、運動も底辺。学校ではいじめにも遭った」
淡々とした口調が、かえって重い。
「当然、父さんは兄の方を可愛がる」
「兄が本命で、俺は予備」
「いつの間にか、家の中ではそれが当たり前になってた」
ティアナは何も言わず、ただ聞いている。
「出来の悪い俺は塾に放り込まれた」
「でも成績は上がらない」
行人は自嘲気味に笑う。
「家に帰ればテスト用紙を取り上げられて、殴られたり、怒鳴られたりした」
少しだけ目を伏せる。
その一言で十分だった。
ティアナは思わず拳を握る。
「夜の街は綺麗だった」
行人は教会の外へ視線を向ける。
「駅前には笑ってる人がいて、恋人がいて、家族連れがいて、コンビニやゲーセンでは友達同士で集まって……みんな楽しそうだった」
静かな声が続く。
「でも俺は、家に帰るのが嫌で仕方なかった。まだ子どもなのにバスも使わず、歩いて帰っていたよ」
学校に居場所はない。
塾では劣等生。
家では暴力。
どこにも自分の居場所はなかった。
「学校、塾、家」
指を折るように数えながら苦笑する。
「どこに行っても思うんだ」
『俺の居場所って、どこなんだろう』
その問いに答える者はいなかった。
だから。
「いつしか思うようになった」
行人は夜空を見上げる。
「……人間って、
怒りも憎しみもない。
長い年月の果てに沈殿した、静かな諦めだけが滲んでいた。
ティアナは何も言えなかった。
穏やかに笑う神父にも、自分と同じように誰にも言えない傷があったのだと、初めて知ったからだった。