こちら冥王教会ミッドチルダ支部   作:マルク

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19.闇の呪縛

 

 

行人は静かに息を吐いた。

夜風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが中庭に落ちている。

 

「毎日、死ぬことばかり考えていた」

 

言葉を落としたあと、行人は視線を足元へと落としたまま動かない。

ティアナは瞬きを一度だけして、そのまま口を閉じた。

 

「生まれた時から将来は決まっていて、どこへ行っても罵られて、見下される」

 

行人の口元がわずかに歪むが、その表情はすぐに消えた。

 

「今思えば……うつ病だったのかもしれないな」

 

吐き出す息は軽く、肩の力も抜けている。過去を遠くに置いたまま語る声だった。

 

「そんな俺とは正反対に、兄さんは本当に優秀だった」

 

その言葉と同時に、行人の目元がわずかに緩む。

 

「勉強も運動も申し分ない。父さんも『こいつこそ自分の息子だ』って、本気で思ってた」

 

ティアナは視線を逸らさず、ただ静かに聞いている。

行人の声に棘はなく、事実だけを淡々と並べていた。

 

「そして、ある日――終わりが来た」

 

行人は夜空へ目を向ける。雲の切れ間を探すように、しばらく動かない。

 

「兄さんの医学部合格が決まったんだ」

 

言葉のあと、短い間が落ちる。

 

「父さんは大喜びだった。ようやく後継者が決まったってな」

 

その場面を思い出すように、行人のまぶたが一度だけ伏せられる。

 

「母さんも安心してた。やっと家族が平和になるって」

 

口の端がほんの少しだけ上がるが、すぐに消える。

 

「……みんな、そう思ってた」

 

一拍、風の音だけが強くなる。

 

「でも兄さんは、医学部へは行かなかった」

 

ティアナの指先がわずかに動き、すぐに止まる。

 

「合格祝いの席で、兄さんは父さんにこう言ったんだ」

 

行人は目を閉じ、呼吸を一度深くする。

 

『義理は果たした』

 

『後は好きなように生きさせてもらう』

 

その言葉をなぞるとき、行人の喉がかすかに上下した。

夜の静けさの中で、その声だけが残響のように浮かぶ。

 

「父さんは激怒した」

 

行人の視線が再び戻るが、どこにも焦点を結ばない。

 

「怒鳴って、机を叩いて、拳を振り上げた」

 

しかし。

 

「その拳は、兄さんには届かなかった」

 

行人は小さく首を振る。

 

「兄さんは、ずっと待っていたんだ」

 

声がわずかに低くなる。

 

「自分が父さんを超える、その日を…」

 

ティアナの喉が小さく動く。

 

「ただ耐えていたんじゃない」

 

行人は言葉を区切り、指先を軽く握る。

 

「心を折られずに、自分を磨き続けていた」

 

殴られても。

否定されても。

視線を逸らされても。

行人の呼吸がわずかに浅くなる。

 

「……あの人は強かった」

 

吐き出すように言い、行人は短く笑う。

 

「腕っぷしじゃない」

 

視線が夜空へ戻る。

 

「心が、誰よりも強かったんだ」

 

その笑みはすぐには消えず、しばらく口元に残っていた。

 

行人は苦く笑った。

 

「兄さんが家を出て、父さんの当ては外れた」

 

静かな夜に、その笑いだけが妙に乾いて響く。

 

「だから急遽予定変更だ」

 

肩をすくめる。

 

「『予備はこういう時のためにいるんだからな』ってさ」

 

まるで使い捨ての道具でも語るような口調だった。

ティアナは思わず眉をひそめる。

 

「……それからは凄かったよ」

 

行人は遠い記憶を思い返すように夜空を見上げる。

 

「父さんは俺の成績を上げるためなら、考えられることを全部やった」

 

「自分で試験問題を作る」

 

「病院の優秀な部下を家庭教師につける」

 

「勉強法を片っ端から調べる」

 

「時間の使い方まで細かく管理する」

 

一つ一つは、教育熱心な親にも聞こえる。

だが、その根底にあったのは息子を思う愛情ではない。

跡継ぎを育てるという執着だった。

 

「母さんも母さんで必死だった」

 

行人は苦笑する。

 

「怪しい宗教にまで手を出してな」

 

「神様の力で、俺の頭が良くなるようにって」

 

ティアナは小さく目を見開く。

 

「……本気だったんですか?」

 

「本気だったよ」

 

即答だった。

 

「だから笑えない」

 

少しだけ目を伏せる。

 

「俺の方は逆に頭がおかしくなりそうだった」

 

静かな声。

 

「何のために生きているのか、分からなくなってさ」

 

夜風が吹き抜ける。

 

「毎日泣いてた」

 

その言葉に大げさな感情は乗っていない。

だからこそ重い。

 

「学年が上がるたびに覚えることは増えていく」

 

「当然、俺の成績は落ちる一方だった」

 

「心も、もう限界だったよ」

 

行人は小さく笑う。

 

「今思えば、あの頃が一番危なかったな」

 

ティアナは何も言えなかった。

慰めの言葉など、とても口にできない。

行人は続ける。

 

「不思議だったよ」

 

「受験するのは俺なのに」

 

一拍置く。

 

「子どもより、大人の方が必死なんだ」

 

その声には、皮肉だけが滲んでいた。

 

「そんなに学歴が欲しいなら、自分が受験して、人生をやり直せばいいのに」

 

行人は自嘲するように笑う。

静寂が落ちる。

 

「子どもに、自分たちの代理受験なんてさせるなよ」

 

ぽつりと漏れた本音。

誰にも届かなかった叫び。

 

「……あの頃、それが言えたらどんなに楽だっただろうな」

 

行人はゆっくりと目を閉じる。

夜空には月が浮かんでいた。

その光だけが、長い間押し殺してきた過去を、静かに照らしていた。

 

 

雲の隙間から、柔らかな月光が差し込んでいた。

教会の中庭が齎す静かな時間。長椅子に並んで座る行人とティアナの間に、穏やかな沈黙が流れる。

その沈黙を破ったのは行人だった。

 

「……そして、運命の日が来た」

 

遠くを見るような目で呟く。

ティアナは黙って耳を傾けた。

 

「父さんが友人に騙されてさ」

 

声に怒りも恨みもない。ただ昔話のような静けさだけがあった。

 

「病院の経営が破綻した。借金は返せる額じゃなかった」

 

「一家は離散。俺は母方の祖母に引き取られた」

 

一息ついて、続ける。

 

「両親は消息不明」

 

行人は苦く笑った。

 

「……たぶん、死んだんじゃないかな」

 

ティアナは息を呑む。軽い口調とは裏腹に、その言葉は重かった。

 

「その友人は……どうしてそんなことを?」

 

恐る恐る尋ねると、行人は肩を竦めた。

 

「さぁな。父さん、“瞬間湯沸かし器”なんて呼ばれてたらしいし」

 

少しだけ笑う。

 

「友達だと思ってたのは父さんだけだったのかもしれない。向こうは最初から違ったんだろ」

 

ティアナは言葉を失った。

行人は続ける。

 

「父さんは頭は良かったんだと思う。医者だったし」

 

月光が行人の横顔を照らす。

 

「でも社会って、一人じゃ成り立たないんだ。組織も人付き合いも信用も、全部繋がりでできてる」

 

目を伏せる。

 

「それを最後まで理解していなかった」

 

そして静かに笑った。

 

「結局、周りから見下されてた人だったんだろうな」

 

夜風と葉擦れの音が二人を優しく癒す。

 

「それから母方の祖母の家に引き取られて、暇つぶしに本を読んでた」

 

行人は話を続ける。

 

「その中に、母さんが集めてた神話の本があってさ」

 

ティアナの視線が自然と向く。

 

「冥王ハーデスの話があった。彼を守護する魔星を宿星とする108人の戦士達。天に36星、地に72星。その名を冥闘士(スペクター)という」

 

その瞬間だけ、行人の目に少年の光が宿った。

 

「彼らが纏う鎧――冥衣(サープリス)には魂があって、それが人間に取り憑いて冥闘士(スペクター)になる」

 

「それに惹かれた」

 

「……どうしてですか?」

 

ティアナが静かに問う。

行人は少し笑った。

 

「もし冥衣(サープリス)の意思に抗えたら、それだけ強い意志があるってことだろ」

 

拳を握る。

 

「誰にも流されない。誰にも負けない、自分だけの意思」

 

力が籠る。

 

「それが欲しかった。強い心が…」

 

ティアナはその横顔を見つめていた。

 

「それさえあったら」

 

行人の声がわずかに揺れる。

 

「兄さんの代わりになれたかもしれない。親を嫌わずに済んだかもしれない。家族もバラバラにならなかったかもしれない」

 

沈黙が落ちる。

やがて行人は小さく笑った。

 

「……馬鹿だろ。そんなものに人生賭けるなんて」

 

ティアナは首を横に振った。

 

「いいえ」

 

静かな声。

 

「行人さんは、力が欲しかったんじゃない」

 

一度目を伏せる。

 

「自分を…信じられる心が欲しかったんですね」

 

行人は目を見開き、やがて照れたように笑った。

 

「……やっぱり、君は人の心を見るのが上手いな」

 

月光が二人を包む。

過去は変えられない。失った家族も戻らない。

それでも、その痛みを誰かに話せる場所がある。

その事実だけが、行人の胸を少しだけ軽くしていた。

 

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