行人は静かに息を吐いた。
夜風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが中庭に落ちている。
「毎日、死ぬことばかり考えていた」
言葉を落としたあと、行人は視線を足元へと落としたまま動かない。
ティアナは瞬きを一度だけして、そのまま口を閉じた。
「生まれた時から将来は決まっていて、どこへ行っても罵られて、見下される」
行人の口元がわずかに歪むが、その表情はすぐに消えた。
「今思えば……うつ病だったのかもしれないな」
吐き出す息は軽く、肩の力も抜けている。過去を遠くに置いたまま語る声だった。
「そんな俺とは正反対に、兄さんは本当に優秀だった」
その言葉と同時に、行人の目元がわずかに緩む。
「勉強も運動も申し分ない。父さんも『こいつこそ自分の息子だ』って、本気で思ってた」
ティアナは視線を逸らさず、ただ静かに聞いている。
行人の声に棘はなく、事実だけを淡々と並べていた。
「そして、ある日――終わりが来た」
行人は夜空へ目を向ける。雲の切れ間を探すように、しばらく動かない。
「兄さんの医学部合格が決まったんだ」
言葉のあと、短い間が落ちる。
「父さんは大喜びだった。ようやく後継者が決まったってな」
その場面を思い出すように、行人のまぶたが一度だけ伏せられる。
「母さんも安心してた。やっと家族が平和になるって」
口の端がほんの少しだけ上がるが、すぐに消える。
「……みんな、そう思ってた」
一拍、風の音だけが強くなる。
「でも兄さんは、医学部へは行かなかった」
ティアナの指先がわずかに動き、すぐに止まる。
「合格祝いの席で、兄さんは父さんにこう言ったんだ」
行人は目を閉じ、呼吸を一度深くする。
『義理は果たした』
『後は好きなように生きさせてもらう』
その言葉をなぞるとき、行人の喉がかすかに上下した。
夜の静けさの中で、その声だけが残響のように浮かぶ。
「父さんは激怒した」
行人の視線が再び戻るが、どこにも焦点を結ばない。
「怒鳴って、机を叩いて、拳を振り上げた」
しかし。
「その拳は、兄さんには届かなかった」
行人は小さく首を振る。
「兄さんは、ずっと待っていたんだ」
声がわずかに低くなる。
「自分が父さんを超える、その日を…」
ティアナの喉が小さく動く。
「ただ耐えていたんじゃない」
行人は言葉を区切り、指先を軽く握る。
「心を折られずに、自分を磨き続けていた」
殴られても。
否定されても。
視線を逸らされても。
行人の呼吸がわずかに浅くなる。
「……あの人は強かった」
吐き出すように言い、行人は短く笑う。
「腕っぷしじゃない」
視線が夜空へ戻る。
「心が、誰よりも強かったんだ」
その笑みはすぐには消えず、しばらく口元に残っていた。
行人は苦く笑った。
「兄さんが家を出て、父さんの当ては外れた」
静かな夜に、その笑いだけが妙に乾いて響く。
「だから急遽予定変更だ」
肩をすくめる。
「『予備はこういう時のためにいるんだからな』ってさ」
まるで使い捨ての道具でも語るような口調だった。
ティアナは思わず眉をひそめる。
「……それからは凄かったよ」
行人は遠い記憶を思い返すように夜空を見上げる。
「父さんは俺の成績を上げるためなら、考えられることを全部やった」
「自分で試験問題を作る」
「病院の優秀な部下を家庭教師につける」
「勉強法を片っ端から調べる」
「時間の使い方まで細かく管理する」
一つ一つは、教育熱心な親にも聞こえる。
だが、その根底にあったのは息子を思う愛情ではない。
跡継ぎを育てるという執着だった。
「母さんも母さんで必死だった」
行人は苦笑する。
「怪しい宗教にまで手を出してな」
「神様の力で、俺の頭が良くなるようにって」
ティアナは小さく目を見開く。
「……本気だったんですか?」
「本気だったよ」
即答だった。
「だから笑えない」
少しだけ目を伏せる。
「俺の方は逆に頭がおかしくなりそうだった」
静かな声。
「何のために生きているのか、分からなくなってさ」
夜風が吹き抜ける。
「毎日泣いてた」
その言葉に大げさな感情は乗っていない。
だからこそ重い。
「学年が上がるたびに覚えることは増えていく」
「当然、俺の成績は落ちる一方だった」
「心も、もう限界だったよ」
行人は小さく笑う。
「今思えば、あの頃が一番危なかったな」
ティアナは何も言えなかった。
慰めの言葉など、とても口にできない。
行人は続ける。
「不思議だったよ」
「受験するのは俺なのに」
一拍置く。
「子どもより、大人の方が必死なんだ」
その声には、皮肉だけが滲んでいた。
「そんなに学歴が欲しいなら、自分が受験して、人生をやり直せばいいのに」
行人は自嘲するように笑う。
静寂が落ちる。
「子どもに、自分たちの代理受験なんてさせるなよ」
ぽつりと漏れた本音。
誰にも届かなかった叫び。
「……あの頃、それが言えたらどんなに楽だっただろうな」
行人はゆっくりと目を閉じる。
夜空には月が浮かんでいた。
その光だけが、長い間押し殺してきた過去を、静かに照らしていた。
◇
雲の隙間から、柔らかな月光が差し込んでいた。
教会の中庭が齎す静かな時間。長椅子に並んで座る行人とティアナの間に、穏やかな沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは行人だった。
「……そして、運命の日が来た」
遠くを見るような目で呟く。
ティアナは黙って耳を傾けた。
「父さんが友人に騙されてさ」
声に怒りも恨みもない。ただ昔話のような静けさだけがあった。
「病院の経営が破綻した。借金は返せる額じゃなかった」
「一家は離散。俺は母方の祖母に引き取られた」
一息ついて、続ける。
「両親は消息不明」
行人は苦く笑った。
「……たぶん、死んだんじゃないかな」
ティアナは息を呑む。軽い口調とは裏腹に、その言葉は重かった。
「その友人は……どうしてそんなことを?」
恐る恐る尋ねると、行人は肩を竦めた。
「さぁな。父さん、“瞬間湯沸かし器”なんて呼ばれてたらしいし」
少しだけ笑う。
「友達だと思ってたのは父さんだけだったのかもしれない。向こうは最初から違ったんだろ」
ティアナは言葉を失った。
行人は続ける。
「父さんは頭は良かったんだと思う。医者だったし」
月光が行人の横顔を照らす。
「でも社会って、一人じゃ成り立たないんだ。組織も人付き合いも信用も、全部繋がりでできてる」
目を伏せる。
「それを最後まで理解していなかった」
そして静かに笑った。
「結局、周りから見下されてた人だったんだろうな」
夜風と葉擦れの音が二人を優しく癒す。
「それから母方の祖母の家に引き取られて、暇つぶしに本を読んでた」
行人は話を続ける。
「その中に、母さんが集めてた神話の本があってさ」
ティアナの視線が自然と向く。
「冥王ハーデスの話があった。彼を守護する魔星を宿星とする108人の戦士達。天に36星、地に72星。その名を
その瞬間だけ、行人の目に少年の光が宿った。
「彼らが纏う鎧――
「それに惹かれた」
「……どうしてですか?」
ティアナが静かに問う。
行人は少し笑った。
「もし
拳を握る。
「誰にも流されない。誰にも負けない、自分だけの意思」
力が籠る。
「それが欲しかった。強い心が…」
ティアナはその横顔を見つめていた。
「それさえあったら」
行人の声がわずかに揺れる。
「兄さんの代わりになれたかもしれない。親を嫌わずに済んだかもしれない。家族もバラバラにならなかったかもしれない」
沈黙が落ちる。
やがて行人は小さく笑った。
「……馬鹿だろ。そんなものに人生賭けるなんて」
ティアナは首を横に振った。
「いいえ」
静かな声。
「行人さんは、力が欲しかったんじゃない」
一度目を伏せる。
「自分を…信じられる心が欲しかったんですね」
行人は目を見開き、やがて照れたように笑った。
「……やっぱり、君は人の心を見るのが上手いな」
月光が二人を包む。
過去は変えられない。失った家族も戻らない。
それでも、その痛みを誰かに話せる場所がある。
その事実だけが、行人の胸を少しだけ軽くしていた。