雨が降っていた。
冷たい雫が、容赦なくティアナの身体を打ちつける。髪も服も靴も、すぐに重く濡れていった。
どれだけ走ったのか分からない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
ここから離れたい。
一秒でも早く。
一センチでも遠くへ。
あの場所から――機動六課から。
「……っ」
息が乱れる。胸が痛い。肺が焼けるように苦しい。
それでも足は止まらなかった。
止まれば、戻ってしまう気がした。
あの場所へ。
信じてくれた仲間のいる場所へ。
育てようとしてくれた上官のいる場所へ。
そして、自分がもう耐えられなくなった場所へ。
――戻りたいわけじゃない。
それでも、逃げている自分をどこかで否定しきれない。
その矛盾が、さらに足を前へと押し出していた。
六課での役目は、部下としての指導だった。
スバル、エリオ、キャロ――年下の仲間たちのまとめ役。
最初は嬉しかった。
認められたのだと思った。
必要とされているのだと信じた。
けれど、その期待はすぐに重さへと変わっていく。
スバルはまっすぐに強くなっていく。
エリオも確実に成長していく。
キャロも自分の力を広げていく。
みんな、前へ進んでいる。
(私は……)
その言葉が、何度も喉の奥で詰まった。
ついていけていない。
訓練で差を感じるたびに。
実戦で遅れを取るたびに。
その事実だけが積み重なっていく。
努力はした。
考え続けた。
戦術も練った。
足を引っ張らないように必死だった。
それでも戦いはいつも綱渡りだった。
勝てても、余裕はない。
次も勝てる保証などどこにもない。
(このままで、本当にいいの?)
その疑問は、最初は小さな棘だった。
だが答えを出せないまま放置されたそれは、やがて胸の奥で膨れ上がり、呼吸のたびに痛みを増していった。
はやてには言えない。
部隊長という立場の彼女に、こんな弱音をぶつけていいのか分からなかった。
なのはにも言えない。
スバルが心から尊敬する人を、自分の不安で曇らせたくなかった。
年下の仲間にすら言えない。
「弱い」と思われるのが怖かった。
「期待外れだ」と思われるのが怖かった。
だからこそ、誰にも見せない場所でだけ、焦りは形を持ち始めていた。
――もっと強くならなきゃいけない。
――でも、どうすればいいの?
答えのない問いが、雨のように降り積もる。
気付けば、逃げ場はどこにもなかった。
焦りだけが膨らんでいく。
恐怖がそれを押し広げる。
怒りが自分に向かう。
孤独が静かに沈んでいく。
そして最後に残ったのは、どうしようもない自己嫌悪だった。
なんで私は、こんなにダメなんだろう。
どうして、みんなみたいにできないんだろう。
「……もう、嫌だ」
雨音に紛れて、声が漏れた。
誰にも届かない。
届いてほしくもない。
それでも、その言葉を口にした瞬間、何かが切れた。
張り詰めていた糸が、音もなくほどけていく。
ティアナは空を見上げる。
灰色の雲が、世界を覆っていた。
「いっそ……」
唇が震える。
「このまま、全部溶けて消えちゃえばいいのに……」
それは死への願いではなかった。
ただ、今の自分から逃げたかった。
ティーダの妹として。
ランスター家の人間として。
期待される魔導師として。
六課の隊員として。
すべてを背負った『ティアナ・ランスター』でいることが、もう苦しかった。
――なら、どこへ行けばいい?
その問いだけが、雨の中でぼんやりと浮かぶ。
答えは出ない。
それでも足は止まらなかった。
どれほど歩いたのか分からない。
ただ、気付けば足が「人の気配の少ない場所」を選んでいた。
騒がしい通りを避け、明るい場所を避け、静かな方へ、静かな方へ。
まるで何かに導かれるように。
そして、雨に霞む景色の中で、一つだけ異質な建物が目に入る。
教会だった。
白い壁。静かな灯り。
祈りのための場所。
――祈る場所なんて、私には関係ない。
そう思ったはずだった。
「……神様なんて」
小さく呟く。
信じていない。
兄を失ったあの日から。
正義のために戦った兄が帰らなかったあの日から。
神などいないと思っていた。
もしいるのなら、なぜ兄を奪ったのか。
なぜ救わなかったのか。
そう思っていたはずなのに。
足が止まらない。
むしろ、止め方が分からない。
ここまで「逃げてきた」道の先に、偶然とは思えないほど自然に、その建物は立っていた。
まるで、行き場を失ったものが最後に辿り着く場所のように。
気付けば、扉の前に立っている。
雨に濡れた手が、ゆっくりと扉へ伸びる。
信じていない。
頼るつもりもない。
それでも――
ここ以外に、立ち止まれる場所が思い浮かばなかった。
ティアナは、その扉を開いた。
◇
「えー、この冥王教会の仕事は多岐に渡ります」
ティアナは歩きながら、淡々と告げた。
その声は、アスファルトに反響する車の駆動音にかき消されそうなほど静かだった。通りを行き交うトラックの荷台が軋みを上げ、クラクションが乾いた空気を叩く。夕刻の街は、昼の喧騒を少しずつ失い、代わりに冷えた風が路地の隙間を抜けていく時間帯だった。
「礼拝、信徒対応。子供の教育と保育。負傷者の治療。精神ケアの診療も併設されています」
「……」
行人は横顔を見た。
橙色に傾き始めた光が、ティアナの頬の輪郭を薄く縁取っている。だがその光は温かさというより、どこか遠くから差し込むだけの光だった。街灯がまだ灯らない時間帯の曖昧な明るさが、彼女の表情をさらに平坦に見せている。
言葉は整っている。淀みもない。
だが、そこに“温度”がない。
読み上げているだけだ。
まるで、街の喧騒の外側に一枚だけ薄い膜を張って、その内側から世界を眺めているような。
「……あの」
「何ですか?」
即答だった。歩みも止まらない。
足音は一定で、石畳を踏むリズムだけが淡々と続く。遠くで鳴る鐘の音が風に乗ってかすかに届き、街の空気に重みを与えていた。
「少しだけ、聞いてもいいですか」
「内容によります」
間髪入れず返る。
その間にも、すれ違う車の車輪が水たまりを踏み、鈍い音とともに水飛沫が跳ねる。湿った土と石の匂いが一瞬だけ鼻をかすめた。
行人は一拍置いてから言った。
「どうして、冥王教会に?」
その瞬間だけ、空気がわずかに揺れた。
風が止まったわけではない。ただ、街の音が一瞬だけ遠のいたような錯覚。遠くを行き交う人々の声が薄い膜の向こう側へ押しやられたように感じられる。
ティアナの足が、ほんの一瞬だけ遅れる。
石畳を踏む音が、わずかに間を空けた。
だがすぐに元に戻る。
振り返った顔は、変わらない無表情だった。
「仰る意味が分かりません」
その声は、冷えた空気の中でよく通った。
「……神に仕えるというのは、俗世から離れることでもあります」
行人は言葉を選びながら続ける。
夕陽が建物の屋根に沈みかけ、影が長く伸びていく。路地の奥はすでに暗く、明るさと暗さの境界が街全体に広がっていた。
「あなたほど若い方が、その道を選ぶのは、簡単なことではないと思っただけです」
「それを言うなら…」
ティアナは即座に切り返した。
風が彼女の髪をわずかに揺らすが、その動きすら計算されたように整っている。
「あなたも、シスター・エレンも同じじゃないですか」
「……」
「私だけに理由があるような言い方ですね」
一歩、距離が詰まる。
その一歩で、車の通り過ぎる音が背後に遠ざかり、代わりに二人の足音だけがやけに鮮明になる。
行人はそこで初めて気づく。
これは拒絶ではない。
“境界線”だ。
石畳の上に引かれた、目に見えない線。
これ以上踏み込めば、確実に閉じる線。
(……ここまでか)
小さく息を吐く。
だが、引く前に一度だけ言葉を落とした。
「……私は」
ティアナの視線がわずかに動く。
街の光が彼女の瞳に一瞬だけ映り込むが、それもすぐに消える。
「ハーデス様への誤解を、少しでも解きたいと思ってここに来ました」
「誤解?」
「ええ」
行人は前を向いたまま続ける。
風が路地を抜け、看板を揺らし、金属の小さな音を鳴らす。街は確かに生きているのに、その中心だけが静かに切り取られているようだった。
「人は必ず死にます」
短く、断言するように。
その言葉だけが、周囲の音から浮き上がる。
「それを司る存在が、悪として語られている」
「当然でしょう」
ティアナの声は冷たい。
夕暮れの冷気よりもさらに低い温度を持っていた。
「奪われた側から見れば、そうなります」
「……そうですね」
否定はしない。
行人は一度だけ目を伏せた。
遠くで車が角を曲がり、エンジンの音が徐々に消えていく。その残響だけが、しばらく空気に残った。
「だからこそ、放っておけなかった」
「放っておけない?」
「知らないものは恐れられる。それは仕方がない」
一拍。
「ですが、知ろうともしないまま断罪されるのは……正しいのでしょうか」
ティアナは答えない。
ただ、視線だけが行人に向いたまま動かない。
街灯がまだ灯らない通りは、薄暗さが増していく。空気は冷え、石畳から立ち上る夜の匂いが濃くなっていく。
「死は誰にでも訪れる」
声が少しだけ低くなる。
「その全てを背負う存在が、本当に“悪”だけなのか」
沈黙。
車の音も、人の声も遠ざかり、残るのは風と足音だけ。
「……もっと、知ってほしいんです」
行人の言葉は、祈りにも似ていた。
街の喧騒の外側で、ただ一つだけ静かに置かれた願い。
「知らないまま嫌われるのは、あまりにも一方的だと思います」
「だから、ハーデス様に仕えると?」
「はい」
その声は揺れない。
「理解されない存在を、少しでも理解されるように」
その瞬間、ティアナの表情がわずかにだけ揺れた。
夕暮れの光が一瞬だけ翳り、彼女の影が長く伸びる。
ほんの一瞬。
だが、すぐに戻る。
「……そうですか」
それだけだった。
それ以上は、何も返ってこない。
行人は小さく目を伏せる。
街の空気は完全に夜へと傾き始めていた。遠くで灯りが一つ、また一つと点き始める。
(……届かない、か)
だが、諦めの色はない。
ただ、距離を測り直すような静けさだけがあった。
「行きましょう」
「……はい」
二人は再び歩き出す。
石畳を踏む音が重なり、夜へ向かう街の中に溶けていく。
並んでいるのに、どこか遠い。
同じ教会へ向かう足音だけが、冷えた空気の中で静かに響いていた。