こちら冥王教会ミッドチルダ支部   作:マルク

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20.再生の時

 

 

ティアナはしばらく黙っていた。

 

夜風が二人の間を静かに通り抜ける。

聞きたいことはまだ山ほどある。

それでも、一つだけどうしても確かめたいことがあった。

 

「……行人さんは、ご家族のことをどう思っているんですか?」

 

行人は少しだけ考え、静かに答えた。

 

「兄さんは尊敬してるよ」

 

迷いのない声だった。

 

「母さんには同情してる」

 

そこで一度言葉が止まる。

 

「父さんは……」

 

夜空を見上げ、小さく息を吐く。

 

「恨みしかないよ」

 

その一言にティアナは思わず息を呑んだ。

行人は穏やかな表情のまま続ける。

 

「自分の思い通りにならないと喚くわ、暴れるわで大変だった」

 

苦笑が漏れる。

 

「俺には、体だけ大きい子どもに見えたよ」

 

その言葉に悪意はない。

ただ、長い年月を経て辿り着いた結論を述べているだけだった。

 

「それを宥める母さんと兄さんの方が、よっぽど大人だった」

 

ティアナは何も言えない。

行人は遠い記憶を辿るように続ける。

 

「父さんの口癖があってな」

 

少しだけ声色を変えた。

 

『誰のおかげで飯を食わせてもらっているんだ』

 

『嫌なら出て行け。ここは俺の家だ』

 

吐き捨てるような言葉。

その響きだけで、どれほど家庭が荒れていたか伝わってくる。

 

「……食べなければ、父さんに口答えするのを許してくれるのかって、そう言いたかったよ」

 

乾いた笑みを浮かべる。

ティアナは俯いた。

 

幼い子どもが一人で生きていけるほど、社会は甘くない。

父親も、それくらい分かっていたはずだ。

それでも財力と権力を盾に家族を縛る。

そこに親としての姿はない。

あるのは、自分より弱い者にしか威張れない、一人の卑怯な人間だけだった。

 

「そして言われた通り兄さんが家を出たら、今度は『育てた恩を忘れやがって』だ。……やってられないよ」

 

肩をすくめる。

夜風だけが静かに吹き抜けた。

 

「行人さんは……何で出て行かなかったんですか?」

 

ティアナの問いに、行人は苦笑した。

 

「出来が悪かっただけさ」

 

あまりにも軽く言うものだから、余計に胸が痛くなる。

 

「兄さんが家を出てから、俺が出られるようになるまで数年かかった」

 

少しだけ寂しそうに笑う。

 

「今はどうしてるんだろ」

 

一拍置いて、

 

「……興味もないけど」

 

その笑顔は、笑っているのにどこか寂しかった。

ティアナの胸が締め付けられる。

同じ人間なのに、育った環境だけでここまで人生が違うのか。

この人はきっと、親にも、大人にも、期待しなくなってしまったのだ。

だから――。

 

「私を六課へ戻そうとしないのは……」

 

恐る恐る尋ねる。

 

「同情したからですか?」

 

行人は一瞬だけ目を細め、それから静かに息を吐いた。

 

「違うと言ったら嘘になるな」

 

正直な答えだった。

 

「大人の都合に振り回される子どもを、もう見ていられないだけだよ」

 

そして、優しく微笑む。

 

「それに」

 

夜空を見上げながら続ける。

 

「もし兄さんがあの場にいたら、きっとティアナの意思を尊重してくれるだろうなって思った」

 

その言葉が、ティアナの胸の奥に深く沈んだ。

 

――尊重してくれる。

 

誰かに「そうしろ」と言われるのではなく、ただ「そう在っていい」と認められること。

それがどれほど救いになるのか、今になって初めて分かった気がした。

 

ティアナは唇を噛む。

心の奥で、ずっと絡まっていた何かが静かにほどけていく。

 

ここにいていいのか、とずっと誰かに許しを求めていた。

でも本当は――。

許しなんて、最初から必要なかったのかもしれない。

 

「……私は」

 

小さな声が震える。

 

「ここにいても……良いんでしょうか」

 

行人はすぐには答えなかった。

ただ一度、まっすぐにティアナを見た。

その視線は、評価でも同情でもない。

一人の人間として、彼女の奥底を確かめるような静かな眼差しだった。

やがて行人は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「少し違うな」

 

その一言にティアナは息を呑み、顔を上げる。

行人は穏やかに続けた。

 

「キミは、いたいと思った場所にいて良いんだ」

 

優しい声だった。

誰かに命じる声ではない。

誰かを縛る声でもない。

ただ、長い間奪われていたものを、そっと返すような声だった。

 

「ここに“いていいか”じゃない」

 

行人は静かに言葉を重ねる。

 

「キミが“ここにいたいか”だ」

 

その違いが、ティアナの胸を強く揺らした。

今までずっと、誰かの許可の中で生きてきた。

正しいかどうか、役に立つかどうか、必要とされるかどうか。

それだけで居場所を測っていた。

でも――。

行人の言葉は、その物差しごと静かに壊していく。

 

「自分が何をしたいのか」

 

行人は穏やかに笑う。

 

「それが、一番大切だと思う」

 

ティアナは答えられなかった。

ただ静かに俯き、胸の奥に灯った小さな温もりを、大切に抱きしめていた。

それは初めて、自分の中から生まれた「ここにいたい」という感覚だった。

 

 

しばらくの間、二人は何も話さなかった。

 

夜風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが静かに響く。

やがて行人が立ち上がり、小さく伸びをした。

 

「さて」

 

ティアナが顔を上げる。

 

「長話に付き合ってくれたお礼に、いいものを見せてあげよう」

 

「……いいもの?」

 

突然の言葉にティアナは目を丸くした。

 

「そう」

 

行人は悪戯を思いついた子どものように笑う。

 

「少しだけ目を閉じてくれるかな?」

 

「目を?」

 

「ああ。それと、片手だけでいいから俺の手を握ってて」

 

ティアナはじっと行人を見つめる。

 

「……変なことしないでしょうね」

 

「しないしない」

 

行人は苦笑した。

 

「信用してくれ」

 

「その言葉が一番信用できません」

 

呆れたようにため息をつきながらも、ティアナは右手を差し出した。

行人の手に触れる。

 

温かい。そして優しい手だった。

剣を握る者とは思えないほど穏やかな温もりと力加減。

まるで互いの体が一つになったかのように。

 

「それじゃ、目を閉じて」

 

「……はい」

 

ティアナは静かに瞼を閉じる。

視界が闇に沈むと、他の感覚が鋭く浮かび上がった。

 

繋いだ手の体温。

夜風が頬を撫でる感触。

木々のざわめき。

そして、理由もなく速まる胸の鼓動。

 

(……何を緊張してるの、私は)

 

自分に呆れながら、小さく息を吐く。

すると、行人の穏やかな声が聞こえた。

 

「それじゃあ」

 

少しだけ間を置いて、

 

「一、二の――三で目を開けて」

 

ティアナは静かに頷く。

 

「一……」

 

深く息を吸う。

 

「二の……」

 

鼓動がさらに速くなる。

 

「三」

 

ゆっくりと瞼を開いた。

 

「――っ!」

 

言葉を失った。

そこに広がっていたのは、夜空ではなかった。

 

宇宙そのものだった。

 

漆黒の闇に無数の星が散りばめられ、宝石のように瞬いている。

蒼、紫、黄金の光を帯びた星雲が静かに渦を巻き、その間を流星が音もなく横切っていく。

果てのない深淵でありながら、どこか包み込むような静けさを持つ光景。

まるで世界の外側に立っているような、不思議な感覚だった。

 

「……きれい」

 

ようやく零れた声は、自分でも驚くほど小さかった。

その瞬間、頬を一筋の温もりが伝う。

 

「……あれ?」

 

指先で触れると、それは涙だった。

理由は分からない。

ただ、美しさに圧倒されたのか。

それとも、張り詰めていた何かがほどけたのか。

答えは見つからないまま、思考だけが静かに沈んでいく。

 

昨日のことも。

六課のことも。

兄のことも。

未来への不安も。

すべてがこの広大な光の中へ溶けていく。

自分という存在さえ、宇宙の静寂に溶け込んでいくようだった。

 

その沈黙を壊さないように、行人は何も言わなかった。

ただ隣で同じ宇宙を見上げ、穏やかに微笑んでいた。

 

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