ティアナはしばらく黙っていた。
夜風が二人の間を静かに通り抜ける。
聞きたいことはまだ山ほどある。
それでも、一つだけどうしても確かめたいことがあった。
「……行人さんは、ご家族のことをどう思っているんですか?」
行人は少しだけ考え、静かに答えた。
「兄さんは尊敬してるよ」
迷いのない声だった。
「母さんには同情してる」
そこで一度言葉が止まる。
「父さんは……」
夜空を見上げ、小さく息を吐く。
「恨みしかないよ」
その一言にティアナは思わず息を呑んだ。
行人は穏やかな表情のまま続ける。
「自分の思い通りにならないと喚くわ、暴れるわで大変だった」
苦笑が漏れる。
「俺には、体だけ大きい子どもに見えたよ」
その言葉に悪意はない。
ただ、長い年月を経て辿り着いた結論を述べているだけだった。
「それを宥める母さんと兄さんの方が、よっぽど大人だった」
ティアナは何も言えない。
行人は遠い記憶を辿るように続ける。
「父さんの口癖があってな」
少しだけ声色を変えた。
『誰のおかげで飯を食わせてもらっているんだ』
『嫌なら出て行け。ここは俺の家だ』
吐き捨てるような言葉。
その響きだけで、どれほど家庭が荒れていたか伝わってくる。
「……食べなければ、父さんに口答えするのを許してくれるのかって、そう言いたかったよ」
乾いた笑みを浮かべる。
ティアナは俯いた。
幼い子どもが一人で生きていけるほど、社会は甘くない。
父親も、それくらい分かっていたはずだ。
それでも財力と権力を盾に家族を縛る。
そこに親としての姿はない。
あるのは、自分より弱い者にしか威張れない、一人の卑怯な人間だけだった。
「そして言われた通り兄さんが家を出たら、今度は『育てた恩を忘れやがって』だ。……やってられないよ」
肩をすくめる。
夜風だけが静かに吹き抜けた。
「行人さんは……何で出て行かなかったんですか?」
ティアナの問いに、行人は苦笑した。
「出来が悪かっただけさ」
あまりにも軽く言うものだから、余計に胸が痛くなる。
「兄さんが家を出てから、俺が出られるようになるまで数年かかった」
少しだけ寂しそうに笑う。
「今はどうしてるんだろ」
一拍置いて、
「……興味もないけど」
その笑顔は、笑っているのにどこか寂しかった。
ティアナの胸が締め付けられる。
同じ人間なのに、育った環境だけでここまで人生が違うのか。
この人はきっと、親にも、大人にも、期待しなくなってしまったのだ。
だから――。
「私を六課へ戻そうとしないのは……」
恐る恐る尋ねる。
「同情したからですか?」
行人は一瞬だけ目を細め、それから静かに息を吐いた。
「違うと言ったら嘘になるな」
正直な答えだった。
「大人の都合に振り回される子どもを、もう見ていられないだけだよ」
そして、優しく微笑む。
「それに」
夜空を見上げながら続ける。
「もし兄さんがあの場にいたら、きっとティアナの意思を尊重してくれるだろうなって思った」
その言葉が、ティアナの胸の奥に深く沈んだ。
――尊重してくれる。
誰かに「そうしろ」と言われるのではなく、ただ「そう在っていい」と認められること。
それがどれほど救いになるのか、今になって初めて分かった気がした。
ティアナは唇を噛む。
心の奥で、ずっと絡まっていた何かが静かにほどけていく。
ここにいていいのか、とずっと誰かに許しを求めていた。
でも本当は――。
許しなんて、最初から必要なかったのかもしれない。
「……私は」
小さな声が震える。
「ここにいても……良いんでしょうか」
行人はすぐには答えなかった。
ただ一度、まっすぐにティアナを見た。
その視線は、評価でも同情でもない。
一人の人間として、彼女の奥底を確かめるような静かな眼差しだった。
やがて行人は、ゆっくりと首を横に振った。
「少し違うな」
その一言にティアナは息を呑み、顔を上げる。
行人は穏やかに続けた。
「キミは、いたいと思った場所にいて良いんだ」
優しい声だった。
誰かに命じる声ではない。
誰かを縛る声でもない。
ただ、長い間奪われていたものを、そっと返すような声だった。
「ここに“いていいか”じゃない」
行人は静かに言葉を重ねる。
「キミが“ここにいたいか”だ」
その違いが、ティアナの胸を強く揺らした。
今までずっと、誰かの許可の中で生きてきた。
正しいかどうか、役に立つかどうか、必要とされるかどうか。
それだけで居場所を測っていた。
でも――。
行人の言葉は、その物差しごと静かに壊していく。
「自分が何をしたいのか」
行人は穏やかに笑う。
「それが、一番大切だと思う」
ティアナは答えられなかった。
ただ静かに俯き、胸の奥に灯った小さな温もりを、大切に抱きしめていた。
それは初めて、自分の中から生まれた「ここにいたい」という感覚だった。
◇
しばらくの間、二人は何も話さなかった。
夜風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが静かに響く。
やがて行人が立ち上がり、小さく伸びをした。
「さて」
ティアナが顔を上げる。
「長話に付き合ってくれたお礼に、いいものを見せてあげよう」
「……いいもの?」
突然の言葉にティアナは目を丸くした。
「そう」
行人は悪戯を思いついた子どものように笑う。
「少しだけ目を閉じてくれるかな?」
「目を?」
「ああ。それと、片手だけでいいから俺の手を握ってて」
ティアナはじっと行人を見つめる。
「……変なことしないでしょうね」
「しないしない」
行人は苦笑した。
「信用してくれ」
「その言葉が一番信用できません」
呆れたようにため息をつきながらも、ティアナは右手を差し出した。
行人の手に触れる。
温かい。そして優しい手だった。
剣を握る者とは思えないほど穏やかな温もりと力加減。
まるで互いの体が一つになったかのように。
「それじゃ、目を閉じて」
「……はい」
ティアナは静かに瞼を閉じる。
視界が闇に沈むと、他の感覚が鋭く浮かび上がった。
繋いだ手の体温。
夜風が頬を撫でる感触。
木々のざわめき。
そして、理由もなく速まる胸の鼓動。
(……何を緊張してるの、私は)
自分に呆れながら、小さく息を吐く。
すると、行人の穏やかな声が聞こえた。
「それじゃあ」
少しだけ間を置いて、
「一、二の――三で目を開けて」
ティアナは静かに頷く。
「一……」
深く息を吸う。
「二の……」
鼓動がさらに速くなる。
「三」
ゆっくりと瞼を開いた。
「――っ!」
言葉を失った。
そこに広がっていたのは、夜空ではなかった。
宇宙そのものだった。
漆黒の闇に無数の星が散りばめられ、宝石のように瞬いている。
蒼、紫、黄金の光を帯びた星雲が静かに渦を巻き、その間を流星が音もなく横切っていく。
果てのない深淵でありながら、どこか包み込むような静けさを持つ光景。
まるで世界の外側に立っているような、不思議な感覚だった。
「……きれい」
ようやく零れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
その瞬間、頬を一筋の温もりが伝う。
「……あれ?」
指先で触れると、それは涙だった。
理由は分からない。
ただ、美しさに圧倒されたのか。
それとも、張り詰めていた何かがほどけたのか。
答えは見つからないまま、思考だけが静かに沈んでいく。
昨日のことも。
六課のことも。
兄のことも。
未来への不安も。
すべてがこの広大な光の中へ溶けていく。
自分という存在さえ、宇宙の静寂に溶け込んでいくようだった。
その沈黙を壊さないように、行人は何も言わなかった。
ただ隣で同じ宇宙を見上げ、穏やかに微笑んでいた。