医務室。
先ほどまでの説教が終わり、重苦しい沈黙が流れていた。
なのはは膝の上で両手を握り締めたまま、その指先に力を込める。爪が食い込むほどに握っていないと、胸の奥のざわつきが溢れてしまいそうだった。
(……聞かなきゃ)
意を決したように、しかし声はわずかに掠れていた。
「……カケル先輩」
「何だ?」
短い返答。その無機質さが、逆に逃げ場を塞ぐ。
「先輩は……ティアナとの一件を、どう思っていますか?」
言った瞬間、なのはは自分の心臓が跳ねるのを感じた。
(今さら、こんなこと聞いて…)
だが、聞かずにはいられなかった。
カケルは一瞬だけ眉を動かした。その僅かな変化を、なのはは見逃さない。
「聞いてどうする?」
その問いに、なのはは一瞬言葉を失う。
(やっぱり……そう、だよね)
当然の反応だった。部外者に過ぎない自分が、踏み込んでいい領域ではない。
「それは、もう終わった話だろう」
「ランスターニ士は冥王教会にいる」
「そして、お前達も復帰を期待してはいない」
「……はい」
なのはは小さく頷く。
その通りだった。理屈では、もう終わっている。
それでも胸の奥に残る棘のような感情だけが、どうしても消えなかった。
(終わった“はず”なのに……)
カケルは深く息を吐く。
その吐息には、わずかな疲労の色が混じっていた。
「……まあ、いい」
その一言に、なのはの肩がわずかに跳ねる。
「俺から見れば、どちらにも問題はあった」
「やろうと思えば、もっと早い段階で気づく事ができたと思っている」
(やっぱり…)
なのはは唇を噛む。
自分たちの判断は完璧ではなかった。その事実を突きつけられるのが怖かった。
隣のシャマルも、無意識に背筋を正している。
「高町」
「はい」
呼ばれただけで、喉が乾く。
「お前のことだから、フォワード陣は真面目なお利口さんばかり集めたんだろう?」
「……はい」
否定できなかった。
むしろ、それが誇りですらあった。
だが今、その誇りが少しだけ揺らぐ。
カケルは静かに頷いた。
「その判断は正しい」
「えっ……?」
思わず声が漏れる。
(……否定されると思ってたのに)
胸の奥で、張り詰めていたものが一瞬だけ緩む。
「一人の部下が勝手な行動を取った結果、部隊が瓦解する」
「そんな組織は論外だ」
「規律を守れる人材を集めるのは、指揮官として当然の判断だ」
なのははシャマルと目を合わせる。
同じように、驚きと戸惑いが浮かんでいた。
(……認められた?)
だが、その安堵は長く続かない。
カケルは人差し指を一本立てる。
「ただし」
その一言で、空気が再び引き締まる。
「反対意見を言う人間は必要だがな」
「だが、それは日頃の積み重ねがあって初めて意味を持つ」
なのははその言葉を聞きながら、胸の奥がじわりと痛むのを感じた。
(積み重ね……)
ティアナの顔が浮かぶ。
あの時、自分はどれだけ彼女の“積み重ね”を見ていただろうか。
「普段は怠けてばかりの奴が、いざという時だけ偉そうに説教しても誰も信用しない」
二人は黙って頷く。
その言葉は、鋭く胸に刺さった。
(……私たちも、そうだったのかもしれない)
ティアナの苦労を、どこか“当然のもの”として扱っていなかったか。
「話を戻そう」
カケルは腕を組む。
その動作に、場の空気が再び引き締まる。
「ティアナ・ランスターという人間を思い出せ」
「普段のあいつはどんな奴だった?」
なのはは一瞬だけ目を閉じる。
記憶の中のティアナは、いつも背筋を伸ばしていた。
「礼儀正しくて……真面目で……」
言葉にするほどに、胸が痛む。
「命令にも不満を言わず、いつも一生懸命で……」
それは“良い部下”のはずだった。
なのに、なぜ。
「優等生、ですね」
シャマルが静かに言葉を補う。
「そうだ」
カケルは頷いた。
「そんな奴が、規則を破った」
「しかも、自分の立場が不利になることを承知で、だ」
その瞬間、なのはの胸の奥で何かが軋んだ。
(どうして……)
診察室の静けさが、やけに重い。
「普通なら、何かあったと考える。それが人を見るということだ」
「でも……」
なのはは小さく反論する。
声は弱い。自分でも揺れているのが分かる。
「規則は規則です。違反した以上、止めなければ……」
言い切ろうとして、言葉が途中で詰まる。
その“正しさ”が、急に薄っぺらく感じられた。
「だから、もっと深く考えろ」
カケルは首を横へ振る。
「いい歳して、横断歩道では毎回ちゃんと手を挙げて渡るような奴が、ある日突然万引きをしていたらどう思う?」
「…………」
なのはは息を呑む。
頭では理解できるのに、心が追いつかない。
「『犯罪者だ』で終わるか?」
「虐めとか家庭の事情とか、何か理由があるんじゃあないかと考えないか?」
その問いに、なのはは小さく息を吐く。
「……考えます」
それは、ようやく絞り出した答えだった。
(考える、はずなのに…)
なぜティアナには、それができなかったのか。
「だろう」
カケルは静かに頷く。
「ティアナ・ランスターも同じだ」
「規則違反だけ見て終わるな」
「何故、その行動を至ったのかを考えろ」
なのはは俯く。
視線の先が滲む。
(私は……見ていなかった)
結果だけを見て、判断していた。
その過程にあった“揺れ”を、想像しようとすらしなかった。
「高町、ティアナ・ランスターを最終的に採用した理由は何だ?」
「えっと……」
記憶を辿る。
試験の光景が、断片的に蘇る。
「Bランク試験です」
「現時点のランク以上の動きを見せ、て……」
そこで言葉が止まる。
「あっ……」
思い出した瞬間、胸が締め付けられる。
あの時のティアナは、確かに“冷静”だった。
足を負傷し、リタイアしようとしていた。
無理をしなかった。
自分の限界を理解していた。
「思い出したか?」
カケルの声は静かだった。
責めてはいない。ただ事実を確認しているだけの声。
「それが本来のティアナ・ランスターだ」
「無茶をしない」
「冷静に状況を分析する」
「任務を達成できないと判断すれば、潔く退く」
その言葉が、なのはの胸に深く沈む。
(そんな子だったのに……)
「なのに、六課ではその判断ができなくなった。何故だ?」
その一言で、なのはの呼吸が一瞬止まる。
(私たちが……)
胸の奥が冷たくなる。
「つまり俺が言いたいのは、普段できていた判断が、何故できなくなったのかを考えろということだ」
なのはは恐る恐る口を開く。
「スバルが……無理に六課に引っ張ったから、ですか?」
言った瞬間、自分の声が震えているのに気づく。
カケルは目を閉じ、小さくため息を吐いた。
「そのことに当人が気付かないことを祈るよ」
「え?」
なのはの胸がざわつく。
「もし『自分が親友の夢を壊した元凶」と思い込んだら、今度はスバル・ナカジマが潰れる」
その言葉に、なのはの表情が強張る。
(そこまで……)
想像していなかった連鎖。
自分の判断が、誰かをさらに追い詰める可能性。
「人はな…壊れる時、突然壊れるわけじゃない」
カケルは静かに続けた。
その声は、どこか遠い記憶を見ているようだった。
「小さな無理を積み重ねて、最後の一本で折れる」
「お前達が見たのは、その最後の一本だけだ」
医務室は静まり返る。
なのははゆっくりと目を閉じた。
(……違う)
ティアナは、あの日突然変わったわけじゃない。
もっと前から。
ずっと前から。
一人で、誰にも見えない場所で。
無理を積み重ねていた。
その事実が、今さらのように胸へ重く沈み込んでいく。
(私は……一体、何を見ていたんだろう。何を解った気でいたんだろう)
その後悔だけが、静かに残っていた。
◇
医務室を出ようとしたその時だった。
「高町」
背中へ掛けられた声に、なのはは足を止める。
――その一言だけで、胸の奥が少しだけ強く締め付けられる。
呼び止められたことが嬉しいのか、それともまだ何か言われるのか分からず、なのはは振り返ることができないまま息を呑んだ。
「シャマル先生、少し席を外していただけますか」
「……分かりました」
シャマルは一瞬だけ二人を見てから、静かに部屋を後にした。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
――逃げ場がなくなった、となのはは思った。
医務室には二人だけが残る。
沈黙が落ちる。
夕陽が窓から差し込み、白い壁を淡く染めているのに、その光はどこか冷たく見えた。
なのはは無意識に拳を握る。
怒られるのかもしれない、という予感と、それでも逃げたくないという気持ちがせめぎ合っていた。
やがてカケルが口を開く。
「一つだけ訂正しておく」
「え?」
思わず顔を上げる。
「さっきの話だ」
なのはは首を傾げる。
「俺は、お前だけを責めるつもりはない」
「でも…」
その言葉に、なのはの胸の緊張が少しだけ緩む。
同時に、なぜか別の痛みが静かに残った。
「というか、俺にも責任があるんだ」
なのはは目を見開いた。
「先輩が……ですか?」
「ああ」
カケルは椅子へ深く腰掛け、窓の外へ視線を向ける。
その横顔は、いつもより少しだけ遠くを見ているようだった。
「教導隊へ来たばかりのお前は、意地っ張りだった」
なのはは小さく苦笑する。
――覚えている。
あの頃の自分は、止まることが怖かった。
教導隊に馴れようと必死だった。
「そう……でしたね」
「痩せ我慢しているお前に気づいた俺は同じことを言った」
『休め』
『治療を優先しろ』
『身体を壊すぞ』
「バカの1つ覚えみたいに、何度もな…」
懐かしむような口調だった。
なのはの胸の奥に、当時の光景が蘇る。
汗だくでクタクタになっても笑っていた自分と、真剣な顔でそれを見ていた彼。
「そしてお前は忠告を聞かなかった」
「はい……」
否定できない。
その言葉は、今の自分にもそのまま刺さる。
「だから俺も、ある時から諦めた」
その一言に、なのはの心がわずかに揺れる。
――認められたと思っていた。
それが勘違いと分かった瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「この頑固者は、大きな失敗でもしない限り変わらない。そもそも教導隊はそういうやり方じゃあないか、とな」
そこで言葉を切る。
なのはは何も言えなかった。
言い返したいのに、言い返せない。
その沈黙が、自分の未熟さを突きつけてくる。
「今思えば、そんなセオリーに甘えたのが間違いだった」
静かな声だった。
責めているわけではない。
それなのに、なのはの胸はなぜか苦しくなる。
「俺は医者だから体調ばかり注目していた」
「疲労」
「古傷」
「魔力負荷」
「筋肉や骨の状態」
「そういうものばかりだ」
眼鏡を外し、天井を仰ぐ。
その仕草が、どこか疲れて見えた。
「だが」
短い間その沈黙の中で、なのははなぜか息を止めていた。
「一番診るべきだったのは、お前の考え方だったと気づいた」
なのはの胸が小さく震える。
――見透かされている。
それなのに、不思議と怖くはなかった。
「無理をする理由、頼らない理由、管理局に来た理由、戦う理由…」
言葉が一つずつ落ちるたびに、胸の奥の奥に触れてくる。
「やり方を変える、その発想が当時の俺にはなかった。自分の正しさに酔っていたんだな」
カケルは苦く笑った。
「医者としての自分に拘るあまり、指導係としての自分を見失っていたのさ」
「今回のお前のようにな」
その言葉に、なのはの喉が勝手に動いた。
「そんなことありません!」
思わず声が出る。
自分でも驚くほど強い声だった。
「先輩は何度も止めてくれました! それを私は…」
言いかけて、言葉が詰まる。
――そうだ。
止められていたのに、止まらなかったのは自分だ。
「それでもだ」
カケルは首を横へ振る。
責めるでもなく、ただ事実として。
「俺は俺を許さない」
「ほんの少し考え方を変えるだけで、全く違う結果があったかと思うと悔しくて仕方ない」
その言葉は、自分への罰のようでもあった。
「だから六課へ来た」
「え……?」
なのはは目を丸くする。
「表向きはボルツの成長の為だがな」
カケルはなのはを真っ直ぐ見据える。
その視線に、なのはは思わず息を呑む。
「ティアナの一件を聞いて確信したよ」
――あの件。
胸の奥が一瞬だけ冷たくなる。
「俺の戦いはまだ終わっていない」
その言葉は静かだったのに、妙に重かった。
なのはは唇を噛む。
「お前の治療を諦めた事で今回の一件が発生したのなら、今後も起きる可能性がある」
「よって、治療を再開する事にした。お前の為じゃない。俺のプライドの為にだ」
「前回は身体に拘っていたから失敗した。だから次は”心“も診る」
「そこは…嘘でも、私の為って言って欲しかったです」
なのはは苦笑する。ああ、この人は何も変わってない。負けず嫌いで意地っ張りの頑固者。
「俺の性格を知っているだろ。俺は博愛の精神で医者になった訳じゃあない。俺は…いや、何でもない」
喋り過ぎたとカケルは黙り込む。
「相変わらずですね。……なんだかお医者さんというより、お説教好きなお兄さんです」
「失礼な奴だな」
珍しくカケルが苦笑した。
その表情に、なのはの胸が少しだけ軽くなる。
なのはもつられて笑う。
ほんの短い時間だった。
それでも、その笑顔は以前より少しだけ力が抜けていた。
――私だけじゃないんだ。
いつも完璧で正しかったカケル。
そんな彼にも失敗する事が、後悔する事があった。
そして今、それを克服する為に再び戦おうとしている。
私も、まだティアナにできる事があるかもしれない。
それが分かった事が、なぜか嬉しかった。