夕食を終えた後。
冥王教会の談話室では、行人とエレンが湯気の立つ紅茶を前に向かい合っていた。
窓の外では夜風が木々を揺らし、静かな虫の音が聞こえてくる。
行人はふと前から気になっていたことを口にした。
「そういえば」
「何でしょう?」
「前から気になってたんだけど」
行人は紅茶を一口飲みながら尋ねる。
「ミッドチルダ支部ってことは、本部はどこにあるんだ?」
エレンは何でもないことのように答えた。
「地球です」
「……」
行人の手が止まる。
「地球?」
「はい」
「まさかとは思うけど……」
嫌な予感がした。
「アテナと
「もちろん」
「……」
数秒間、行人は何も言えなかった。
「……この世界での冥王軍について詳しく教えてくれ」
エレンは静かに頷いた。
「あなたの世界とは、大分違いますね」
そう前置きしてから話し始める。
「まず、この世界のハーデス様は聖戦を回避するおつもりです」
「…………はぁっ!?」
思わず立ち上がりそうになる。
「何だって!?」
「アテナが勝利の杖『ニケ』を持つ限り、正面から戦えば敗北は必至」
エレンは淡々と続ける。
「ならば、いっそ戦わなければいい」
「そう進言した冥闘士がいたのです」
行人は絶句した。
「そんな発想が…」
聖戦を避ける。
そんな考え方は、自分の世界では誰も口にしなかった。
冥王軍は戦うもの。
それが当然だった。
エレンは紅茶を静かに口へ運ぶ。
「聖闘士は戦うことが本分です」
「超人的な力を得るため、死と隣り合わせの修行を積む。しかし…」
カップを置く音が、小さく響いた。
「苦労して身につけた力を振るう機会そのものが失われたら、どうなるでしょう」
行人は考える。
戦えない。
戦う理由もない。
命懸けで鍛えた力が、一生使われない。
「……不満が爆発するだろうな」
「はい」
「聖闘士は外敵がいなくなれば、理念や解釈の違いで内部対立を始める可能性があります」
エレンは頷いた。
「上手くいけば、聖域内部で内乱が起きます」
「……」
「仮に起きなくても構いません」
金色の瞳が静かに細められる。
「地上の人間の醜悪さは、アテナの想像を遥かに超えています」
「争い」
「差別」
「欲望」
「裏切り」
「それらを見続ければ、いずれアテナは地上を見限るか…」
エレンは静かに言い切る。
「理想を抱いたまま、心を擦り減らして倒れるでしょう」
行人は思わず額を押さえた。
「……誰だよ。そんな、えげつない策を考えたのは」
頭痛でもするように呟く。
エレンは肩をすくめる。
「さあ? 私も風の噂で聞いただけですので」
その微笑みが、本当に知らないのか、知っていて誤魔化しているのかは分からない。
しばらく沈黙が流れる。
やがてエレンが話題を変えた。
「機会があれば、一度地球へ行かれてはいかがですか?」
「……考えておくよ」
行人は腕を組む。
「今の
「
エレンは記憶を辿るように目を閉じた。
「
「黄金聖闘士も、いくつか空位だったはずです。」
「……」
行人の目が鋭くなる。
「埋まっている黄金聖闘士は、何座だ?」
「
「
「
「
「
その瞬間、行人の脳裏で一つの考えが形になる。
(……
思わず小さく息を吐く。
偶然か。
それとも何か意味があるのか。
夜風が窓を揺らし、カーテンを静かにはためかせる。
行人は紅茶を一口飲みながら、まだ見ぬ地球へ思いを巡らせるのだった。
◇
談話室には静かな時間が流れていた。
窓の外では月明かりが庭を照らし、風に揺れる木々の葉擦れだけが耳に届く。
行人は腕を組んだまま、先ほどから考え込んでいた。
「でも…」
ようやく口を開く。
「よくそんな策に双子神と三巨頭が賛同したな」
エレンは紅茶を口元へ運ぶ手を止めない。
「ハーデス様の命令とはいえ、あの人達が素直に従うとは思えないんだが」
その問いに、エレンは静かに答えた。
「双子神は渋々ですが賛同しました」
「だよな」
行人は苦笑する。
タナトスもヒュプノスも、神としての誇りが強い。
戦わないという決断に、納得するとは思えなかった。
「ですが」
エレンは続ける。
「三巨頭は、オルガノート様以外は反対しました」
「離反です」
「……知らない名前だ」
行人が眉をひそめる。
「
エレンは静かに説明する。
「オルガノート様も、そのお一人です」
「なるほど」
行人は頷いた。
「今健在なのは天貴星グリフォンのオルガノート様、ただお一人」
「残る二人は?」
エレンは少しだけ目を伏せる。
「賛同する者達と共に」
「望み通り、戦死していただきました」
あまりにも淡々とした口調だった。
まるで、昨日の天気でも話すように。
行人は思わず聞き返す。
「……具体的には?」
「
「……」
行人は絶句する。
「その甲斐あって…」
エレンは少しだけ肩をすくめた。
「
「……」
武人としての最期を迎えられて、本人達は満足だったのかもしれない。
だが、その結末を当然のように語るエレンに行人は言葉を失う。
「アテナがよく黙ってたな」
エレンは首を横へ振る。
「黙っていたわけではありません」
「ですが」
「冥界へ攻め込むには、
「ああ……」
行人は納得する。
生きたまま冥界へ侵入できる聖闘士など、ごくわずか。
冥王軍が冥界へ引きこもれば、大半の聖闘士は手出しができない。
「なるほどな」
そこまで計算しているのか。
思わず息を吐く。
だが、まだ疑問は残っていた。
「だったら、冥王教会はどうなんだ?」
行人はエレンを見る。
「地上の前線基地みたいなものだろ。聖域からすれば、真っ先に潰したいはずだ」
エレンは静かに微笑んだ。
「だからこそ、地域に貢献しているのです」
「?」
「医療」
「教育」
「保育」
「生活相談」
「孤児院」
「人が生きていく上で欠かせない事業へ、教会は積極的に手を伸ばしています」
「地方では診療所より教会の方が先に建った地域もあります」
「孤児院の半数は冥王教会の支援を受けています」
行人は静かに耳を傾ける。
「人間の守護者を名乗る以上、アテナがそれらを無碍にすることはないでしょう」
「……」
「仮に攻撃したとしても構いません」
その声が少しだけ低くなる。
「今度はこちらが『人々を救う教会を
金色の瞳が月光を受けて静かに輝く。
「……」
行人の背筋を冷たいものが走る。
「地域住民」
「行政」
「商人」
「彼らは聖闘士ではありません」
「生活があります」
「家族があります」
「明日の食事があります」
「彼らもまた、人間」
一拍置いて。
エレンは口元へ笑みを浮かべた。
「霞を食べて生きている訳ではありませんからね。ふふふ……」
静かな笑い声。
それは悪意というより。
人間社会という盤上を眺める棋士の笑みに近かった。
行人は思わず肩を震わせる。
(怖い……)
剣で敵を斬る。
拳で勝敗を決める。
そんな戦いしか知らなかった自分には、この女の思考はあまりにも異質だった。
武力ではなく、人の営みそのものを利用して勝利を掴もうとする。
それが、この世界の冥王軍。
そして聖戦を回避するために選ばれた、新たな戦い方だった。