機動六課・部隊長室。
普段であれば、書類の整理音や軽い会話が交じるはずのその空間。
しかしこの日ばかりは異様なまでに沈黙していた。
空気が重い。
息を吸うだけで胸の奥が圧迫されるような、見えない圧力が部屋全体を支配している。
机を挟んで向かい合うのは、八神はやてと一人の査察官――
オーリス・ゲイズ。
地上本部から派遣された監査担当官。
その存在は、ただそこに座っているだけで「評価」と「裁定」を意味していた。
机の上には六課の運営資料、訓練記録、そしてティアナ・ランスターに関する報告書が整然と並べられている。
オーリスはそれらに一切の感情を見せず、ただ静かに目を落としていた。
ページが一枚めくられる。
また一枚。
その動作は機械的ですらあるのに、はやてにはまるで心臓を直接掴まれているように感じられた。
(……胃が、痛い)
表情は崩さない。
だが背中には冷たい汗がじわりと滲んでいる。
オーリスは一切言葉を発しない。
沈黙。
ただそれだけが、刃のように積み重なっていく。
(お願いやから…早よ何か言うて…)
その願いすら、口に出せば崩れてしまいそうだった。
やがてオーリスの手が止まる。
資料を閉じる音が、やけに大きく響いた。
「では、本題に入ります」
低く、感情のない声。
その一言で、はやての背筋がわずかに強張る。
「はい」
短く返す。
逃げ道はない。
オーリスの視線が、初めて真正面からはやてを捉えた。
その目は冷たいというより、「見透かす」ための目だった。
感情ではなく、事実だけを抽出するための視線。
「ティアナ・ランスター二等陸士。なぜ彼女は部隊を脱走したのですか?」
核心。
最初から逃げ場のない問い。
はやては一度だけ息を吸う。
その一瞬すら、長く感じられた。
「本人の証言では、自身の力量と六課の任務レベルを照らし合わせた結果、自分では対処できないと判断したとのことです」
一拍。
オーリスの視線は動かない。
瞬きすらない。
その沈黙が、答えの不十分さを突きつけてくる。
「また、当時は精神的に追い詰められており、衝動的に離隊してしまいました」
「現在は本人を確認済みです」
「後日、正式に離隊届を提出していただく予定です」
言い切った瞬間、はやては自分の喉が乾いていることに気づいた。
オーリスは淡々とメモを取る。
その筆圧すら一定で、感情の揺らぎが一切ない。
まるで「評価の結果はすでに決まっている」と言われているようだった。
「次」
短い一言。
だがその声には、拒否を許さない圧があった。
「教導方法、並びに指揮命令系統に問題はありませんでしたか?」
はやての指先が、机の下でわずかに強張る。
視線が一瞬だけ揺れる。
だが、すぐに戻す。
「……ありました」
オーリスのペンが止まる。
その沈黙が、空気をさらに重くする。
視線が一段階だけ鋭くなる。
責めるでもなく、逃がすでもなく、ただ「続けろ」と圧をかけてくる視線。
「高町一等空尉の経験不足もあり、教導方法と指揮系統の双方に問題が発覚しました」
「現在は改善を進めています」
言いながら、はやては自分の声がわずかに硬いことを自覚していた。
オーリスは何も言わない。
ただ見ている。
その沈黙が、肯定でも否定でもなく「審査中」であることを突きつけてくる。
「具体的には?」
即座の追撃。
逃げる隙はない。
「元教導官であり、現医務官のカケル・R・ワゴンへ教育体制の見直しと指導矯正を依頼しております」
「隊長教育も並行して実施中です」
オーリスの目が、わずかに細くなる。
ほんの僅かな変化。
だがそれだけで、はやての背中に冷たいものが走る。
「フォワード陣への聞き取り調査」
「スバル・ナカジマ」
「エリオ・モンディアル」
「キャロ・ル・ルシエ」
「その他隊員全員に対する事情聴取を実施します」
淡々と告げられる言葉が、まるで「逃げ場の封鎖」を宣言しているようだった。
「……はい」
その返事は、ほとんど喉の奥から絞り出すようなものだった。
「再発防止策は部隊として提示してください。期限は1ヶ月以内です」
再び視線が突き刺さる。
今度は逃げる余地すら与えない圧。
「はい」
はやては一度だけ目を閉じ、すぐに開く。
揺らぐな、と自分に言い聞かせる。
「教育体制の見直し」
「隊長への指導」
「隊員へのメンタルケア体制の強化」
「相談窓口の設置」
「これらを段階的に進めます」
言い切った瞬間、部屋の空気が一瞬だけ止まったように感じた。
オーリスはしばらく動かない。
視線だけが資料とはやてを往復する。
評価。
検証。
裁定。
そのすべてが沈黙の中で行われているようだった。
やがて。
「結論です」
その一言で、はやての指先がわずかに震える。
無意識に拳が握られる。
来る。
そう直感した。
「本件は隊員個人の問題だけでは説明がつきません」
オーリスの視線が、まっすぐに突き刺さる。
その言葉が、重く落ちる。
逃げ道を塞ぐように。
覆い被さるように。
「教育」
「指揮」
「メンタルケア」
「これらを含めた部隊運営全体に改善の余地があります」
資料が閉じられる音。
それが「審査終了」の合図のように響いた。
「機動六課には、部隊運営の改善を求めます」
はやては深く頭を下げる。
「……はい」
短い返事。
だがその声の奥には、ようやく張り詰めていた糸がわずかに緩む感覚があった。
解体ではない。
終わりではない。
それだけで、どれほど救われたか分からない。
◇
査察官が去った後。
扉が閉まる音が響いた瞬間、はやてはその場に崩れ落ちるように机へ突っ伏した。
「終わったぁ…」
絞り出すような声。
全身から力が抜けていく。
その様子を見て、守護獣ザフィーラが静かに目を細める。
「主…ご立派でした」
リインフォースⅡも優しく微笑む。
「はやてちゃん、お疲れ様です」
「……ほんま、胃に悪いわ」
はやてはゆっくりと身体を起こす。
まだ心臓の鼓動が落ち着かない。
「今、六課を潰される訳にはいかんのや」
その瞳には疲労と同時に、確かな意志が宿っていた。
ガジェットは進化している。
時間は待ってくれない。
もし今ここで止まれば、次に失われるのはもっと大きなものになる。
AMF下において強化されたガジェットに対抗できる部隊は恐らく今の陸にはない。
勝てたとしても、少なからず犠牲者が出るだろう。
「……まさかとは思うけど」
ぽつりと漏れる。
「予言の内容って、このことを指しとるんやないやろな…」
胸の奥に、冷たい不安が広がる。
管理局崩壊の予言。
そして今回の査察。
偶然にしては、あまりにも噛み合いすぎている。
「なのはちゃんの指導矯正」
「スバル達フォワード陣の立て直し」
「メンタルケア」
一つずつ指を折る。
問題は山積みだ。
「ナカジマ三佐にも助けてもろてるけど…」
苦笑が漏れる。
「ほんま、カケルはんとボルツ君には頭上がらんな」
ザフィーラとリインは静かに頷いた。
六課はまだ終わっていない。
むしろ今、ようやく「試される段階」に立ったのだと、はやては理解していた。
◇
六課ラウンジ。
昼食を終えた隊員たちが思い思いに休憩している。
ソファに身を預ける者、カップを傾ける者。コーヒーメーカーの駆動音と空調の風切り音が、静かな雑談の隙間を埋めていた。
壁掛けテレビでは地上本部の定例記者会見が流れている。
画面の光がラウンジの一角を淡く照らし、ソファや床にゆるい明暗を落としていた。
中央に映るのはレジアス・ゲイズ中将。
厳しい表情のまま、防衛体制の強化について語っている。カメラのフラッシュが断続的に瞬き、会見場の緊張感を伝えていた。
『――これより地上防衛の要として、新型対空防衛システム〈アインヘリアル〉の配備を順次進める』
映像が切り替わる。
巨大な砲塔。金属光沢を鈍く反射する三連装魔力砲が三基。
パンされた映像が、その規模の異様さを際立たせる。合計九門の砲身が空へ向かって静かにそびえていた。
ラウンジの空気がわずかに重くなる。
「このおっさん…まだこんなこと言ってんのか」
ヴィータがテレビを見つめ、苦い顔をする。
「ん?」
コーヒーを口にしていたカケルが視線だけ向ける。カップを置く音が小さく響いた。
「そんなに意外か?」
「いやさ」
ヴィータは腕を組み、画面を顎で示す。
「あんな物騒な代物を陸に置く意味が分かんねぇんだよ。犯罪抑止とか言ってるけど、どう見ても海への牽制だろ」
なのはも画面に目を向ける。巨大な砲塔の存在感は、映像越しでも圧迫感があった。
「街で使うようなもんじゃないだろ。犯罪者に撃ったら街ごと吹っ飛ぶ」
ヴィータは鼻を鳴らす。
「対空砲以外に使い道あんのかよ」
「そう思うのも無理はない」
カケルは淡々と頷く。
「だろ?」
「だがな」
彼は視線をテレビに戻したまま続ける。
「陸には海のような象徴がない」
「象徴?」
ヴィータが眉をひそめる。
「次元航行艦にアルカンシェル」
その言葉で、ラウンジの空気が一瞬だけ静まる。
「海には“力の象徴”がある。だが陸にはそれがない」
テレビでは砲塔がゆっくり回転し、金属が光を反射していた。
ヴィータは小さく唸る。
「……まあ、欲しくもなるか」
「立場を考えればな」
カケルは肩をすくめた。
「だからってなぁ…」
そこで彼はなのはへ視線を向ける。
「高町。お前はどう見る?」
「え、私?」
突然振られ、なのはは瞬きをする。カップを持つ手がわずかに止まった。
少し考え、画面へ視線を戻す。
「優秀な高ランク魔導師って、海や空へ転属希望を出す人が多いですよね」
「ああ」
「そうなると、陸には人が残らない」
ヴィータの視線がわずかに落ちる。
「残された低ランク魔導師の負担は増えます。仕事も危険も増えるのに待遇は変わらない」
なのはは静かに息を吐いた。
「それじゃあ、局員を続けようって思う人も減ってしまうんじゃないかなって」
沈黙が落ちる。空調音だけがやけに大きく感じられた。
ヴィータは天井を見上げる。
「……確かにな。陸の連中からすりゃ頭痛ぇ問題か」
カケルは短く頷く。
「レジアス中将も手探りだ。最善が見えないまま陸を守る必要がある。だからああいう答えに行き着いた」
テレビではなおも会見が続いている。
なのはは小さく呟いた。
「六課が橋渡しになれたら良かったんだけどね」
カケルは首を横に振る。
「ちょっと厳しいな。中将という立場がそれを許さない」
「え?」
「タカ派で有名なレジアス中将だ。六課を擁護すれば、賄賂でももらったのかと仲間内で批判される。失脚は時間の問題だろう」
ヴィータが顔をしかめる。
「うわぁ……地獄だな」
「正義だけじゃ人は動かない。正しいだけでも駄目だ」
カケルは静かに言う。
「立場が変われば守るものも変わる。残念だがな…」
テレビの向こうでレジアスは演説を続けている。
フラッシュが瞬き、会見場の空気は張り詰めたままだ。
その表情に迷いはない。
だが、彼の抱えているものを理解できる者は、この部屋にはほとんどいなかった。