朝の空気が、静かに冥王教会の中庭を包んでいた。
まだ人影は少ない。
木々の葉を揺らす風の音と、小鳥のさえずりだけが耳に届く。
中庭の中央。
芝生の上に向かい合うように、行人とティアナは静かに座っていた。
互いに目を閉じ、呼吸を整える。
言葉はない。
ただ、規則正しい呼吸だけが朝の静寂へ溶け込んでいく。
――それが、最近の二人の日課だった。
最初の頃は違った。
ティアナは魔導師としての戦術やマルチタスクの考え方を教え、行人は対魔導師戦や近接戦闘の技術を伝える。互いに足りないものを補い合う毎日。
だが、数週間も経つと教えられることは一通り教え終えてしまった。
それでも朝の鍛錬は終わらなかった。
代わりに始まったのが、この瞑想だった。
(不思議なものね)
ティアナは静かに意識を内側へ向ける。
初めて教えられた時は戸惑った。
鍛錬と言えば身体を動かすもの。
走る。
筋力を鍛える。
射撃を繰り返す。
汗を流し、限界まで追い込む。
それが強くなるための道だと信じて疑わなかった。
だから最初に行人から、
「今日は座るだけにしよう」
と言われた時は、本気で冗談だと思った。
しかし違った。
目を閉じ、呼吸を整えて周囲の音へ耳を澄ませる。
風が木々を揺らす音。
鳥が羽ばたく音。
草葉を転がる朝露の雫。
そして、自分の心臓が打つ音。
今まで聞こえていなかったものが、少しずつ輪郭を持ち始める。
心が静まる。
意識が澄み渡る。
頭の中を埋め尽くしていた雑念が、朝霧のようにゆっくりと消えていく。
行人はこれを、
「集中力を高める為の訓練だよ。俺は勝手に
と教えてくれた。
集中力を極限まで高め、己と世界を一つにする技術。
しかも、それだけではない。
魔力がほんの僅かだが回復していく感覚があった。
微々たるものではある。
それでも、何もしないより遥かに効率が良い。
ティアナは驚いた。
こんな鍛え方がこの世にはあったのかと。
(六課の頃の私じゃ、きっと気づけなかったわね……)
当時の自分を思い返す。
悩めば走った。
苦しければ訓練した。
考え込むくらいなら身体を動かした。
筋肉は裏切らない。
反復練習は必ず自分を強くしてくれる。
それは間違いではなかった。
だが、それだけが答えではなかった。
行人は、その思い込みを静かに壊してくれた。
強くなる道は一つじゃない。
速く走るだけが前へ進む方法じゃない。
立ち止まり、呼吸を整えることもまた、前へ進むための一歩なのだと。
ふっと、自然に笑みが浮かぶ。
(もっと早く……)
胸の奥で、小さく言葉が零れた。
(もっと早く、あなたに会いたかったな)
もし、あの頃の自分がこの静けさを知っていたなら。
もっと肩の力を抜いて戦えたのだろうか。
もっと仲間を頼れたのだろうか。
そんな「もし」を考えてしまう。
だが、不思議と後悔だけではなかった。
今だからこそ、この時間の意味が分かる。
今だからこそ、この教えを受け止められる。
「……」
その時だった。
目を閉じたままの行人が、小さく口を開く。
「今日は、昨日より呼吸が深いな」
ティアナは思わず目を開けた。
「……分かるんですか?」
「何となくだけどな」
行人もゆっくりと目を開け、穏やかに微笑む。
「焦る気配が消えてきた」
「心が静かになると、呼吸も変わるんだ」
ティアナは照れくさそうに笑った。
「そんな細かいところまで見られてるなんて、少し恥ずかしいですね」
「すまない。癖みたいなものだ」
行人は肩をすくめる。
「人の顔色ばかり気にしていたからかな」
二人の間に小さな笑いが生まれる。
朝日が木々の隙間から差し込み、芝生の上へ柔らかな光を落としていた。
急ぐ必要はない。
競う必要もない。
一歩ずつでいい。
そう思えるようになった自分が、ティアナは少しだけ嬉しかった。
◇
冥王教会の談話室にて。
談話室の扉を開けると、ティアナは足を止めた。
窓から差し込む午後の日差し。
壁際には書棚が並び、その中央に置かれたテーブルの上には、黒と白の駒が整然と並べられている。
その向こうにいたのは、長い銀髪と金色の瞳を持つ女――エレンだった。
「あら、ティアナさん」
「エレンさん。何をしてるんですか?」
「チェスです。ご覧の通り」
エレンは盤上を指先で示した。
「よろしければ、一局いかがです?」
「私が?」
「ええ。何か用事でも?」
「いえ、特には」
訓練校時代、ティアナはチェスを嗜んでいた。
頭を使う訓練になるという理由で始めたものだったが、いつの間にか趣味の一つになっていた。自慢するつもりはないが、腕前にはそれなりに自信がある。訓練校でも三本の指に入る程度には。
「じゃあ……一局だけ」
「ふふっ。では、お手柔らかに」
その時のティアナは、本当にただの暇潰しだと思っていた。
特別な意味などない。
エレンに誘われたから、付き合った。
ただ、それだけのはずだった。
――なのに。
(この人、強い…!)
数分後、ティアナの額には薄く汗が浮かんでいた。
自分の駒を動かす。
相手の出方を見る。
次の手を読む。
その先を読む。
そして――。
「……っ」
ティアナが動かした駒を、エレンは迷うことなく迎え撃った。
「そこですか」
「……はい」
「では、こちらを」
カツンとまた一つ駒が盤上から消える。
ティアナは眉を寄せた。
(読まれてる…)
こちらが攻めれば、その攻めを利用される。
守れば、守った場所を足掛かりにされる。
ならばと意表を突けば、それすらも待っていたかのように潰される。
まるでこちらの思考そのものを盤面に描かれているようだった。
(五手……いや、それ以上先まで読んでる? ダメ、分からない)
ティアナが必死に考えている間にも、エレンは涼しい顔で駒を進めていく。
そして――。
「はい。詰みです」
「…………」
ティアナは盤面を見つめた。
逃げ道はない。
どう動かしても、次で王を取られる。
「……参りました」
「ありがとうございました」
エレンはにこやかに頭を下げた。
ティアナは敗北を認め、駒を片付け始める。
「素直な打ち方ですね」
「そうですか?」
「ええ。正解を探して、正解だと思った手を素直に選ぶ。悪いことではありません」
「……」
「ただ、もう少し工夫しなさい」
「……はい」
言い返せないのが悔しい。
自分ではかなり考えたつもりだった。
それなのに、まるで子供扱いだ。
ティアナが黙々と駒を箱へ戻していると、エレンがふと口を開いた。
「ふむ。少し指南してあげましょうか」
「え?」
「せっかくですから」
エレンは盤面を綺麗にすると、再び駒を並べ始めた。
「さて。難しい局面ですね」
白と黒の駒が複雑に絡み合う。
「あなたならどうします?」
「……ここです」
ティアナは少し考え、駒を動かした。
「なるほど」
エレンはその手を眺める。
「では私は、ここを」
カツン。
「そこ?」
「はい」
ティアナも駒を動かす。
エレンが応じる。
ティアナがさらに読む。
そして――。
「……あ」
またしても逃げ道を塞がれていた。
「詰みです」
「…………」
二度目の敗北にティアナは唇を噛んだ。
「あなたの最初の一手は、確かに最善でした」
「だったら、どうして……」
「しかし、それが問題です」
「…どこがですか?」
エレンは盤上を眺めながら答えた。
「人は追い詰められると、自分が傷つかない道を選びます」
「……」
「だから読みやすい」
「で、でも……だったらここは?」
ティアナは盤面を指差した。
「敵が勝負を仕掛けてきたらどうするんですか? 当てが外れて大ピンチじゃないですか」
「おや」
エレンが楽しそうに目を細めた。
「もう勝った気ですか?」
「え?」
「ならば、続けてみましょう」
ティアナは息を呑んだ。
再び駒が動く。
今度こそ。
今度こそエレンの読みを外してみせる。
ティアナはそう考えた。
だが――。
「……嘘!?」
まただ。
またしても、こちらが選んだ手を利用されている。
気がつけば王の逃げ場は消えていた。
「チェック」
「……!」
ティアナは必死に盤面を見回す。
だが、ない。
どう動いても詰む。
「……負け、です」
「ええ」
エレンは静かに駒を置いた。
「ティアナさん」
「はい」
「敵の予想を覆すのは良いでしょう」
「……」
「しかし、もっと敵の立場を考えなさい」
「敵の……立場?」
「こうして対局している以上、敵は勝負をしているのです」
エレンは盤上の駒を一つ指で示した。
「そして、今まで逃げてきた相手が前に出て挑んできた」
「……」
「それはむしろ望むところだと敵は考えるのではないでしょうか?」
ティアナは目を見開いた。
自分は「敵が攻めてきた」という事実だけを見ていた。
危険だ。
罠かもしれない。
ならば裏をかかなければ。
そう考えていた。
だがエレンは違う。
敵がなぜ前に出てきたのか。
何を望んでいるのか。
その行動によって、何を得ようとしているのか。
そこから逆算している。
「……」
ティアナは、目の前の女を見つめた。
優雅な微笑みに落ち着いた物腰。
チェス盤を挟んでいるだけなら、どこにでもいる知的な女性に見える。
しかし違う。
この女は――。
(王というより……狩人だ)
獲物を追い立てる。
逃げ道を残す。
逃げた先を読む。
獲物自身に「ここなら安全だ」と思わせて、そこへ追い込む。
そして最後に、逃げ道を完全に断つ。
ティアナは知らず知らずのうちに背筋を伸ばしていた。
「……すごいですね」
「何がです?」
「いえ… 私、まだまだなんだなって」
ティアナは苦笑した。
「そう思えるなら、悪いことではありません」
エレンは立ち上がった。
「さて」
「?」
「レクチャー代として、後片付けは頼みます」
「…………」
「私は仕事に戻りますので」
「……はい」
エレンは満足そうに微笑むと、談話室を出ていった。
残されたティアナは、しばらくその背中を見送っていた。
そして、
「……ちゃっかりしてるんだから、もう」
小さく呟きながら、チェスの駒を片付け始める。
その口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
悔しい。
負けたことは悔しい。
だが――。
(次は、負けない)
不思議とそう思った。