こちら冥王教会ミッドチルダ支部   作:マルク

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31.二人の師匠

 

 

朝の空気が、静かに冥王教会の中庭を包んでいた。

 

まだ人影は少ない。

木々の葉を揺らす風の音と、小鳥のさえずりだけが耳に届く。

 

中庭の中央。

 

芝生の上に向かい合うように、行人とティアナは静かに座っていた。

互いに目を閉じ、呼吸を整える。

 

言葉はない。

ただ、規則正しい呼吸だけが朝の静寂へ溶け込んでいく。

――それが、最近の二人の日課だった。

 

最初の頃は違った。

 

ティアナは魔導師としての戦術やマルチタスクの考え方を教え、行人は対魔導師戦や近接戦闘の技術を伝える。互いに足りないものを補い合う毎日。

だが、数週間も経つと教えられることは一通り教え終えてしまった。

それでも朝の鍛錬は終わらなかった。

代わりに始まったのが、この瞑想だった。

 

(不思議なものね)

 

ティアナは静かに意識を内側へ向ける。

初めて教えられた時は戸惑った。

鍛錬と言えば身体を動かすもの。

 

走る。

 

筋力を鍛える。

 

射撃を繰り返す。

 

汗を流し、限界まで追い込む。

 

それが強くなるための道だと信じて疑わなかった。

だから最初に行人から、

 

「今日は座るだけにしよう」

 

と言われた時は、本気で冗談だと思った。

しかし違った。

 

目を閉じ、呼吸を整えて周囲の音へ耳を澄ませる。

 

風が木々を揺らす音。

 

鳥が羽ばたく音。

 

草葉を転がる朝露の雫。

 

そして、自分の心臓が打つ音。

 

今まで聞こえていなかったものが、少しずつ輪郭を持ち始める。

 

心が静まる。

意識が澄み渡る。

頭の中を埋め尽くしていた雑念が、朝霧のようにゆっくりと消えていく。

 

行人はこれを、

 

「集中力を高める為の訓練だよ。俺は勝手に聖域(ゾーン)に入るって表現しているけど」

 

と教えてくれた。

 

集中力を極限まで高め、己と世界を一つにする技術。

しかも、それだけではない。

魔力がほんの僅かだが回復していく感覚があった。

微々たるものではある。

それでも、何もしないより遥かに効率が良い。

 

ティアナは驚いた。

こんな鍛え方がこの世にはあったのかと。

 

(六課の頃の私じゃ、きっと気づけなかったわね……)

 

当時の自分を思い返す。

 

悩めば走った。

 

苦しければ訓練した。

 

考え込むくらいなら身体を動かした。

 

筋肉は裏切らない。

反復練習は必ず自分を強くしてくれる。

それは間違いではなかった。

だが、それだけが答えではなかった。

行人は、その思い込みを静かに壊してくれた。

 

強くなる道は一つじゃない。

速く走るだけが前へ進む方法じゃない。

立ち止まり、呼吸を整えることもまた、前へ進むための一歩なのだと。

 

ふっと、自然に笑みが浮かぶ。

 

(もっと早く……)

 

胸の奥で、小さく言葉が零れた。

 

(もっと早く、あなたに会いたかったな)

 

もし、あの頃の自分がこの静けさを知っていたなら。

もっと肩の力を抜いて戦えたのだろうか。

もっと仲間を頼れたのだろうか。

そんな「もし」を考えてしまう。

 

だが、不思議と後悔だけではなかった。

 

今だからこそ、この時間の意味が分かる。

今だからこそ、この教えを受け止められる。

 

「……」

 

その時だった。

 

目を閉じたままの行人が、小さく口を開く。

 

「今日は、昨日より呼吸が深いな」

 

ティアナは思わず目を開けた。

 

「……分かるんですか?」

 

「何となくだけどな」

 

行人もゆっくりと目を開け、穏やかに微笑む。

 

「焦る気配が消えてきた」

 

「心が静かになると、呼吸も変わるんだ」

 

ティアナは照れくさそうに笑った。

 

「そんな細かいところまで見られてるなんて、少し恥ずかしいですね」

 

「すまない。癖みたいなものだ」

 

行人は肩をすくめる。

 

「人の顔色ばかり気にしていたからかな」

 

二人の間に小さな笑いが生まれる。

朝日が木々の隙間から差し込み、芝生の上へ柔らかな光を落としていた。

 

急ぐ必要はない。

 

競う必要もない。

 

一歩ずつでいい。

そう思えるようになった自分が、ティアナは少しだけ嬉しかった。

 

 

冥王教会の談話室にて。

 

談話室の扉を開けると、ティアナは足を止めた。

窓から差し込む午後の日差し。

壁際には書棚が並び、その中央に置かれたテーブルの上には、黒と白の駒が整然と並べられている。

その向こうにいたのは、長い銀髪と金色の瞳を持つ女――エレンだった。

 

「あら、ティアナさん」

 

「エレンさん。何をしてるんですか?」

 

「チェスです。ご覧の通り」

 

エレンは盤上を指先で示した。

 

「よろしければ、一局いかがです?」

 

「私が?」

 

「ええ。何か用事でも?」

 

「いえ、特には」

 

訓練校時代、ティアナはチェスを嗜んでいた。

頭を使う訓練になるという理由で始めたものだったが、いつの間にか趣味の一つになっていた。自慢するつもりはないが、腕前にはそれなりに自信がある。訓練校でも三本の指に入る程度には。

 

「じゃあ……一局だけ」

 

「ふふっ。では、お手柔らかに」

 

その時のティアナは、本当にただの暇潰しだと思っていた。

特別な意味などない。

エレンに誘われたから、付き合った。

ただ、それだけのはずだった。

――なのに。

 

(この人、強い…!)

 

数分後、ティアナの額には薄く汗が浮かんでいた。

 

自分の駒を動かす。

 

相手の出方を見る。

 

次の手を読む。

 

その先を読む。

 

そして――。

 

「……っ」

 

ティアナが動かした駒を、エレンは迷うことなく迎え撃った。

 

「そこですか」

 

「……はい」

 

「では、こちらを」

 

カツンとまた一つ駒が盤上から消える。

ティアナは眉を寄せた。

 

(読まれてる…)

 

こちらが攻めれば、その攻めを利用される。

守れば、守った場所を足掛かりにされる。

ならばと意表を突けば、それすらも待っていたかのように潰される。

まるでこちらの思考そのものを盤面に描かれているようだった。

 

(五手……いや、それ以上先まで読んでる? ダメ、分からない)

 

ティアナが必死に考えている間にも、エレンは涼しい顔で駒を進めていく。

そして――。

 

「はい。詰みです」

 

「…………」

 

ティアナは盤面を見つめた。

逃げ道はない。

どう動かしても、次で王を取られる。

 

「……参りました」

 

「ありがとうございました」

 

エレンはにこやかに頭を下げた。

ティアナは敗北を認め、駒を片付け始める。

 

「素直な打ち方ですね」

 

「そうですか?」

 

「ええ。正解を探して、正解だと思った手を素直に選ぶ。悪いことではありません」

 

「……」

 

「ただ、もう少し工夫しなさい」

 

「……はい」

 

言い返せないのが悔しい。

自分ではかなり考えたつもりだった。

それなのに、まるで子供扱いだ。

ティアナが黙々と駒を箱へ戻していると、エレンがふと口を開いた。

 

「ふむ。少し指南してあげましょうか」

 

「え?」

 

「せっかくですから」

 

エレンは盤面を綺麗にすると、再び駒を並べ始めた。

 

「さて。難しい局面ですね」

 

白と黒の駒が複雑に絡み合う。

 

「あなたならどうします?」

 

「……ここです」

 

ティアナは少し考え、駒を動かした。

 

「なるほど」

 

エレンはその手を眺める。

 

「では私は、ここを」

 

カツン。

 

「そこ?」

 

「はい」

 

ティアナも駒を動かす。

エレンが応じる。

ティアナがさらに読む。

そして――。

 

「……あ」

 

またしても逃げ道を塞がれていた。

 

「詰みです」

 

「…………」

 

二度目の敗北にティアナは唇を噛んだ。

 

「あなたの最初の一手は、確かに最善でした」

 

「だったら、どうして……」

 

「しかし、それが問題です」

 

「…どこがですか?」

 

エレンは盤上を眺めながら答えた。

 

「人は追い詰められると、自分が傷つかない道を選びます」

 

「……」

 

「だから読みやすい」

 

「で、でも……だったらここは?」

 

ティアナは盤面を指差した。

 

「敵が勝負を仕掛けてきたらどうするんですか? 当てが外れて大ピンチじゃないですか」

 

「おや」

 

エレンが楽しそうに目を細めた。

 

「もう勝った気ですか?」

 

「え?」

 

「ならば、続けてみましょう」

 

ティアナは息を呑んだ。

再び駒が動く。

今度こそ。

今度こそエレンの読みを外してみせる。

ティアナはそう考えた。

だが――。

 

「……嘘!?」

 

まただ。

またしても、こちらが選んだ手を利用されている。

気がつけば王の逃げ場は消えていた。

 

「チェック」

 

「……!」

 

ティアナは必死に盤面を見回す。

だが、ない。

どう動いても詰む。

 

「……負け、です」

 

「ええ」

 

エレンは静かに駒を置いた。

 

「ティアナさん」

 

「はい」

 

「敵の予想を覆すのは良いでしょう」

 

「……」

 

「しかし、もっと敵の立場を考えなさい」

 

「敵の……立場?」

 

「こうして対局している以上、敵は勝負をしているのです」

 

エレンは盤上の駒を一つ指で示した。

 

「そして、今まで逃げてきた相手が前に出て挑んできた」

 

「……」

 

「それはむしろ望むところだと敵は考えるのではないでしょうか?」

 

ティアナは目を見開いた。

 

自分は「敵が攻めてきた」という事実だけを見ていた。

危険だ。

罠かもしれない。

ならば裏をかかなければ。

そう考えていた。

 

だがエレンは違う。

敵がなぜ前に出てきたのか。

何を望んでいるのか。

その行動によって、何を得ようとしているのか。

そこから逆算している。

 

「……」

 

ティアナは、目の前の女を見つめた。

優雅な微笑みに落ち着いた物腰。

チェス盤を挟んでいるだけなら、どこにでもいる知的な女性に見える。

しかし違う。

この女は――。

 

(王というより……狩人だ)

 

獲物を追い立てる。

逃げ道を残す。

逃げた先を読む。

獲物自身に「ここなら安全だ」と思わせて、そこへ追い込む。

そして最後に、逃げ道を完全に断つ。

 

ティアナは知らず知らずのうちに背筋を伸ばしていた。

 

「……すごいですね」

 

「何がです?」

 

「いえ… 私、まだまだなんだなって」

 

 ティアナは苦笑した。

 

「そう思えるなら、悪いことではありません」

 

 エレンは立ち上がった。

 

「さて」

 

「?」

 

「レクチャー代として、後片付けは頼みます」

 

「…………」

 

「私は仕事に戻りますので」

 

「……はい」

 

エレンは満足そうに微笑むと、談話室を出ていった。

残されたティアナは、しばらくその背中を見送っていた。

そして、

 

「……ちゃっかりしてるんだから、もう」

 

小さく呟きながら、チェスの駒を片付け始める。

その口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。

 

悔しい。

負けたことは悔しい。

だが――。

 

(次は、負けない)

 

不思議とそう思った。

 

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