教室の中には、子供達の元気な声が響いていた。
「ここは昨日の復習ね。忘れている人は確認しておいて」
黒板の前に立つティアナは、いつも通り淡々としている。
「この問題、分かる人?」
数人が勢いよく手を挙げる。
その様子を、教室の後方で行人は静かに見ていた。
教え方は率直に言って上手い。
この世界の文字を完全に理解していない行人ですら、説明を聞けば内容がすっと入ってくる。
難しい言葉は使わず、子供の理解度に合わせて噛み砕く。
質問にも無駄なく答える。
普段は騒がしい子供達も、この時間だけは驚くほど静かだった。
「できた!」
「じゃあ次は自分でやってみて」
「うん!」
子供達の笑顔と、ティアナへ向けるまっすぐな視線。
そこには確かな信頼があった。
(……慕われているな)
行人はそう感じる。
彼女は人付き合いが苦手なわけではない。
むしろ、誰かのために動くことはできる。
それでも――。
(やっぱり……)
声に熱がない。
子供達を見る目にも、どこか距離がある。
優しい。
間違いなく優しい。
だがそれは、どこか作られた優しさのようにも見えた。
やがて授業が終わる。
「先生、さようなら!」
「気をつけて帰ってね」
子供達が次々と教室を出ていく。
最後に一人の少女が忘れ物に気づき、慌てて戻ってきた。
行人は少し迷ったあと、声をかける。
「ねえ、ちょっといいかな」
「なーに?」
「ティアナ先生って、どう思う?」
少女は即答した。
「大好き! 分かりやすいし、優しいし!」
「そうか」
行人は小さく笑う。
だが少女は少しだけ声を落とす。
「でもね……たまに、寂しそう」
行人の動きが止まる。
「寂しそう?」
「うん。笑ってるけど、遠く見てるときあるから」
子供の勘は時に鋭い。
行人は静かに息を吐いた。
「……ありがとう。気をつけて帰ってね」
「はーい!」
少女は駆け出し、途中で振り返る。
「神父さま、ティアナ先生のこと気になるのー?」
「……うぇっ!?」
「好きなんだー!」
行人は目を瞬かせる。
「はっはっは!」
「顔赤いよー!」
「いや、そういう意味じゃ……」
「じゃあ何ー?」
無邪気な笑顔が行人を見る。
苦笑で返す事しかできなかった。
「……秘密でーす」
「えー!」
「また明日ね」
手を振って少女を見送り、行人は歩き出す。
先ほどの言葉が頭に残っていた。
――寂しそう。
ティアナ・ランスター。
彼女は誰かを支えることはできる。
誰かに必要とされることもできる。
だが、自分が支えられることは許していない。
(……やはり難しい相手だ)
行人は小さく溜息をつく。
それでも、その難しさは嫌いではない。
むしろ、真正面から向き合う価値のある壁のように思えた。
簡単に分かり合えないからこそ、目を逸らす理由にはならない。
むしろ――そこにこそ踏み込む意味があるのだと、行人は静かに理解していく。
そして彼は、まだ遠くを見つめるティアナの背中を思い浮かべながら、ただ一つの確信を胸に歩みを進めた。
◇
冥王教会の厨房には、包丁の音が一定のリズムで響いていた。
トントン、と野菜を刻む行人の手は迷いがない。
鍋の中ではスープが静かに煮え、湯気とともに柔らかな香りが立ちのぼっている。
一口味見をして、行人は小さく頷いた。
「良しっ!」
修行中に身につけた生活の技術。杳馬との旅で叩き込まれたそれは、今も確かに生きていた。
(……手は覚えているのに、いつもほど小宇宙の流れを感じない)
かつての世界では呼吸と同時に小宇宙が応えた。だが、今はただ身体だけが正確に動いている。
理由はやはり今の体が仮初めの体だからだろう。魂と体がまだ定着していないのだ。わずかな焦りが胸の奥に沈んでいた。
「はい、できましたよ」
食卓に料理を並べると、エレンが一口食べて目を細める。
「まあ……美味しいですね」
「ありがとうございます」
素直な言葉に、行人はわずかに表情を緩めた。
しかし向かいのティアナは黙々と食事を続けている。味に不満はないはずだが、表情はほとんど動かない。
(読めない…)
戦場なら、相手の呼吸や視線の揺れで次の動きが読めた。だがティアナにはその“気配”が掴めない。人の内側が見えないことに、微細な違和感が残る。
行人はそれ以上踏み込まず、視線を落とした。
翌日、行人はこの世界の技術体系を調べていた。その中で興味を引いたのが魔法だった。
「魔力を持つ者は、特殊な力を扱える……そういうことか」
(力の流れが“外にある”世界。面白いな…)
とどのつまり、外気を取り込んで奇跡を起こす外気功のようなものだ。
それに対して小宇宙を燃やす闘法が内気功。
「はい。リンカーコアを持つ者なら魔法が使えます」
エレンの説明に、行人はすぐ問い返す。
「俺にも使えるかな?」
一瞬の沈黙の後、エレンは首を横に振った。
「残念ですが、あなたにはリンカーコアがありません」
「……そうか」
(やはり“ない”のか。努力で埋められない欠落)
戦場では、足りない力は技術と判断で補ってきた。だがこれは“存在しない器官”の話だ。そこに憤りにも似た感覚が生まれる。
「一生、魔法は使えません」
その言葉に、行人は短く息を吐いた。
(生まれつき、か)
理不尽というほどではないが、明確な線引きがある世界。
「なら別の手段を探すだけだ」
切り替えは早かった。
しかし、心の中では“別の手段”を積み上げるための時間がどれほど残されているのかを無意識に計算している自分がいた。
試したのは、複数の魔法を同時に扱う“マルチタスク”の訓練だった。
魔法とは違い、これは技術。
魔法そのものが使えない自分でもこれならできるかもしれない。
だが現実は単純ではない。
「……難しいな」
水球を複数作って、そのまま何か作業するとすぐに崩れてしまう。
頭では理解できても、身体が追いつかない。
戦場では同時に複数の敵の動きを読むことはできた。だがそれは“感じる”ことであって、“分割する”ことではなかった。
(やばい、感覚の構造が違う)
「ティアナ、何かコツってないかな?」
「努力してください」
短い解答だった。
「ですよねー」
当然の答えに、行人は苦笑した。
だが戦場でなら一瞬で掴めた“突破口”が見えない事にわずかな焦燥が残る。
中庭では、子供達が魔法の練習をしていた。
小さな光が浮かび、魔力球が揺れながら形を保つ。失敗しながらも楽しそうに笑う声が響く。
それを見て、行人は小さく息を吐いた。
(俺って子供以下か…)
戦場なら負けない自信はある。だが、この世界の日常では何一つ思うようにいかない。
(力の“前提”が違う。ここでは戦い方そのものが別物だ。なんとか“感覚の橋渡し”はできないかな)
「魔法……」
行人は小宇宙を静かに燃やし、手のひらに水を集めた。水球が三つ、ゆらりと浮かぶ。
そのまま傍らに置いていた箒を握って正眼に構えを取った。
剣の間合いを頭に思い描く。
呼吸が変わる。
一歩踏み込んだと同時に、水球がわずかに揺れた。
(まだっ!)
行人は踏み込みを止めない。
二歩目、回転。
箒が横薙ぎに走ると同時に、水球が軌道を変え、空中で弧を描く。
バシャッ――と崩れかける。
だがその瞬間、行人の身体が“もう一段”深く沈んだ。
剣舞の型が切り替わる。
踏み込み、跳躍、空転。
そのすべてに合わせて、水球が“遅れて追従するように”形を保ち直す。
(繋げろ……動きと流れを切らさないように)
呼吸が一つになる。
剣の軌跡と、水の制御が重なっていく。
バシャッ!
一瞬、限界が来る。
水球が崩れかける。
しかし行人の剣舞は止まらない。
「シッ!」
踏み込みを“さらに深く”。
剣舞の最終型。
身体が地面を滑るように回転し、箒が円を描く。
その円と同じ軌道で、水球が三つ同時に回転し始めた。
まるで――剣が水を従えているかのように。
空気が一瞬、静止する。
水球は崩れない。
美しき球体は完璧に維持されていた。
「……!」
周囲の子供達の息が止まる。
次の瞬間、行人が最後の一閃を振り抜いた。
剣舞の終焉。
同時に、水球が一斉に収束し――光の粒となって静かに弾けた。
音はない。
ただ、余韻だけが残る。
一拍遅れて、子供達が叫んだ。
「すごい!!」
「今のなに!? 水が剣に付いてた!」
「もう一回やって!」
歓声が一気に広がる。
行人はゆっくりと息を吐いた。
(繋がった……)
魔法ではない。
だが確かに“戦いの延長”として成立した。
剣舞と水球。
本来交わらないはずの二つが、同じ呼吸の中で成立した瞬間だった。
胸の奥に、静かな熱が灯る。
(まだまだ俺は強くなれる)
その事実が、確かな手応えとして残る。
ティアナは少し離れた場所から一部始終を見ていた。
失敗し、悩み、子供達に支えられ、そして――一瞬だけ、世界の理をねじ曲げるような動きを見せた男。
(……今のは)
言葉にならない。
ただ一つだけ確かなのは、行人が無自覚のまま、この世界の“当たり前”と己の“常識”を重ね合わせ、その境界を一瞬だけ超えてみせたということだった。