今日もやっている。
ティアナは窓越しに、その光景を見つめていた。
「……また」
小さな呟きが、無意識に漏れる。
中庭では、行人が箒を振るっていた。
だが「一人」という言葉は、どこか不自然だった。
彼の周囲には三つの水球が浮かんでいる。
一つは彼の踏み込みに合わせて滑るように移動し、
一つは箒の軌道を避けるように揺らぎ、
そしてもう一つは――
「わー!」
「こっちこっち!」
子供達の手に追いかけられ、遊び道具のように弾んでいた。
水球に小さな手が伸びる。
本来なら、訓練中にあり得ない光景だ。
集中を乱す存在。
危険を生む要因。
だから普通は、排除する。
「離れていろ」
「邪魔だ」
そう言うのが正しい。
少なくとも、かつての自分なら迷わずそうしていた。
なのに。
「ははっ、そこは危ないから少し離れてね」
行人は笑っていた。
怒りも苛立ちもない。
ただ当然のように、そこに子供達を受け入れている。
その姿を見て、ティアナの胸の奥に説明のつかない違和感が沈んだ。
「……なんで」
声にならないはずの疑問が、形を持ってこぼれる。
「なんで、そんなふうに笑えるのよ」
理解できなかった。
自分なら無理だ。
訓練中に邪魔をされれば集中が乱れる。
危険があれば排除する。
それが正しい判断だと信じていた。
効率。
安全。
成果。
それらを守るために、感情は切り離すものだと思っていた。
けれど行人は違う。
彼は子供達を「邪魔な存在」として扱っていない。
むしろ、その存在を前提にして動いている。
守る対象としてではなく――
同じ時間を共有する存在として。
だから笑える。
だから崩れない。
だから続けられる。
「……」
ティアナは無意識に拳を握っていた。
自分と行人の間にあるものを、必死に言語化しようとする。
同じように強くなろうとしている。
同じように努力している。
それなのに、決定的に何かが違う。
その「違い」が、正体の分からない棘のように胸に刺さっていた。
(私は間違っていたの? 間違っているの?)
そんな考えが一瞬よぎるが、かぶりを振ってすぐに否定する。
違う。
自分は間違っていない。
効率的であることは正しい。
危険を避けることは正しい。
それは管理局で学んだ、揺るがない基準だ。
なのに――
なぜか行人の方が「正しく見える瞬間」がある。
その事実が、ひどく不快だった。
「おや」
不意に背後から声がした。
「手が止まっていますよ?」
「っ!?」
肩が跳ねる。
振り返ると、いつの間にかエレンが立っていた。
「……驚かせないでください」
「失礼しました。ですが、窓拭きの途中で完全に思考停止していましたので」
エレンは淡々とそう言いながら、ティアナの視線の先へ目を向ける。
中庭。
行人。
そして子供達。
「ふむ……なるほど」
何かを理解したように、小さく頷く。
その反応に、ティアナの警戒心が一気に跳ね上がった。
「何ですか?」
声が少し硬くなる。
嫌な予感がした。
「男日照りもほどほどにしなさい」
「違います!!」
即答だった。
反射に近い否定。
「そういう意味じゃありません!」
「そうですか? 随分と熱心に観察していたようですが」
「観察じゃなくて……!」
言葉が詰まる。
違う。
本当に違う。
そんな感情ではない。
ただ――
目が離せなかっただけだ。
自分の価値観と、まったく違う在り方をする人間が。
理解できないのに、なぜか否定しきれない存在が。
「やっぱり、この人は苦手……」
ティアナは小さく息を吐いた。
エレンはそんな彼女を見て、楽しそうに微笑んでいた。
◇
買い出しを頼まれた行人は、ティアナと並んで街を歩いていた。
朝と昼の境目の時間帯。
石畳の通りには柔らかな陽光が降り注ぎ、白い壁の建物がそれを反射して眩しく輝いている。乾いた風に、パン屋の焼きたての香りと露店の香辛料の匂いが混ざって漂っていた。
人通りは多い。行商人の呼び声、馬車の車輪が石を叩く音、子どもたちの笑い声が重なり合い、街そのものが生き物のようにざわめいている。
その喧騒の中を、二人は並んで歩いていた。
隣を歩いているというのに、二人の間には妙な距離があった。
別に仲が悪いわけではない。
むしろ、同じ教会で生活するようになってから必要な会話はしている。
しかし、それ以上の踏み込んだ会話はない。
行人は横目でティアナを見る。
街の光を受けてもなお影の薄い横顔。
淡々と歩き、必要な物を確認し、余計なことは口にしない。
まるで周囲の喧騒から切り離されたように、彼女だけが静止しているようだった。
行き交う人々の笑い声も、荷車の軋む音も、彼女の周囲だけ薄く遮断されているように感じる。
――その静けさは、ただの無関心ではない。
何かを押し殺し続けてきた人間特有の、危うい均衡だった。
まるで自分自身を律するために感情を閉じ込めているように。
「……今日はいい天気ですね」
頭上には雲ひとつない青空が広がり、陽光が石畳に白い模様を落としている。
とりあえず口にした言葉は、我ながら薄っぺらいと思った。
「そうですね」
返事は返ってきた。
だが、それだけだった。
会話はそこで終わる。
行人は内心でため息をついた。
(これはなかなか難敵だな……)
アタバクとの戦いより、目の前の少女との距離を縮める方が難しい気がしてくる。
しばらく沈黙が続く。
周囲の喧騒だけがやけに鮮明に耳に残った。
その中で行人は気づく。
ティアナは時折、無意識のように視線を巡らせている。
人混みを警戒するようでいて、しかし本当に見ているのは“人”ではない。
まるで何かを探しているような――あるいは、見つけてしまうことを恐れているような目だった。
その時だった。
突然、ティアナの手が行人の服の裾を掴んだ。
「……え?」
驚く間もなく、彼女は行人を路地裏へ引き込む。
通りの喧騒が一気に遠のき、湿った石壁に足音だけが反響する。
日差しも細く切り取られ、薄暗い影が二人を包んだ。
「ちょ、ちょっと……」
抗議しかけた行人だったが、ティアナの表情を見て言葉を失う。
彼女は行人を見ていない。
ただ一点だけを見つめていた。
その視線の先。
路地の隙間から覗く通りの向こう、雑踏の中に一人の少女がいた。
青い髪。
陽光を受けてきらめく明るい表情。
手には食べかけのアイス。
人々が行き交い、馬車の音が響く喧騒の中でも、少女の周囲だけは柔らかな空気に包まれているようだった。
ティアナの視線は、その少女に触れた瞬間だけわずかに揺れた。
――安堵にも似たもの。
――そして、それ以上に強い痛み。
ほんの一瞬、呼吸が浅くなる。
「……知り合い?」
行人が小さく尋ねる。
しかしティアナは答えない。
ただ拳を握り締めていた。
指先に力が入り、わずかに震えている。
その震えは恐怖ではない。
近づきたい衝動を必死に押さえ込んでいるような震えだった。
(やはり……)
行人は確信する。
あの少女は、ティアナにとって特別な存在だ。
やがて少女はアイスを食べ終えると、何も知らずに雑踏の中へ消えていった。
人波に紛れ、陽光に溶けるように姿が見えなくなる。
その瞬間、ティアナの肩からわずかに力が抜けた。
だがそれは安堵ではなく、“見送ることしかできなかった”という諦めに近いものだった。
少女が完全に見えなくなってから、ティアナは路地裏を出る。
石畳に再び足音が響き、明るい通りの光が彼女の横顔を照らした。
「……行きましょう」
いつもの無表情だった。
何事もなかったかのように歩き出す。
だがその背中は、ほんのわずかに遠く感じられた。
「ああ」
行人は短く答える。
何も聞かなかった。
通りには再び人の流れが戻り、笑い声と呼び声が二人の間をすり抜けていく。
その喧騒の中で、問いだけが喉の奥に残る。
聞けば答えてくれたかもしれない。
だが今のティアナには、答えられない気がした。
あの少女を見つめていた時だけ、一瞬だけ見えた。
強さを求め続ける戦士の顔ではなく――
守れなかった何かを、それでもまだ手放しきれない少女の顔が。
行人は歩きながら思う。
彼女は何かを捨てたのではない。
人々のざわめきの中で、自分の一部を切り離し、遠ざけているのだ。
その選択が正しいのかは分からない。
だが少なくとも、あの少女を見つめるティアナの瞳には冷たさではなく、喧騒の中に沈む痛みだけがあった。