こちら冥王教会ミッドチルダ支部   作:マルク

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6.自己嫌悪

 

深夜。

教会の窓という窓はすでに暗く沈み、かつて祈りの声が満ちていた空間は、今はただ静寂だけを抱えていた。

石造りの壁は夜の冷気を吸い込み、触れればひやりと指先を奪われそうなほどに冷え切っている。

中庭には、月明かりが淡く降り注いでいた。雲の切れ間からこぼれる光は白く細く、石畳の凹凸をぼんやりと浮かび上がらせている。風が吹くたび、周囲の木々がかすかにざわめき、葉擦れの音が遠く波のように広がっては消えていった。

 

その静かな庭の中心に、一人の少女が立っている。

ティアナ・ランスターは、夜気にさらされた頬にわずかな冷たさを感じながら、ゆっくりと右手を上げた。

指先を木製の的へと向ける。

 

「……」

 

息を殺すと、自分の呼吸音だけがやけに大きく響く。

胸の奥で魔力が静かに収束し、指先へと集まっていく感覚があった。淡い光が生まれ、夜の闇の中で小さく瞬く。

 

――パンッ。

 

乾いた破裂音が、静寂を切り裂いた。

魔力弾は夜の空気を裂きながら真っ直ぐに飛び、的の中心を正確に撃ち抜く。

木板が揺れ、乾いた衝撃音とともに的が地面へと転がった。石畳に当たる軽い音が、夜の中に小さく響く。

ティアナは間を置かず、次の的へと視線を滑らせた。

風はわずかに向きを変え、彼女の髪を揺らす。月光がその橙色の髪に淡く反射し、一瞬だけ金色のように見えた。

 

二発目。

――パンッ。

 

三発目。

――パンッ。

 

どちらも迷いなく放たれ、的の中心を正確に貫く。命中のたびに、乾いた音が夜の中へと吸い込まれていく。

だが――。

四発目。

 

放たれた魔力弾は、わずかに風に流されたのか、それともほんの僅かな迷いのせいか、的の縁を掠めるだけに終わった。

木板はかすかに揺れ、しかし倒れることはない。

 

「……」

 

ティアナは静かに腕を下ろした。

夜風が一層冷たく感じられる。教会の屋根を越えて吹き抜ける風が、石畳の隙間を鳴らし、遠くで木々を揺らしていた。

 

「何やってるんだろ……私」

 

その呟きは、風に溶けるように消えた。

久しぶりに魔法を使った。

指先の感覚も、魔力の流れも、驚くほど滑らかで、かつてと何一つ変わっていない。

それなのに、胸の奥に残るのは達成感ではなかった。

夜の冷たさよりも深い、静かな虚しさ。

ただ、それだけだった。

 

「何かと思ったら、あなたでしたか」

 

背後から、落ち着いた声が夜気を揺らす。

振り返ると、月明かりを背に受けたエレンが静かに立っていた。白い光が彼女の輪郭を縁取り、まるで夜そのものから切り取られたように見える。

 

「エレン……さん」

 

「眠れませんか?」

 

その声は、夜の静けさに溶けるように柔らかい。

 

「……起こしてしまってすみません。今すぐ片付けて休みます」

 

ティアナはそう言い、的へと歩き出そうとする。だが、石畳を踏み出した瞬間、エレンの声が静かにそれを制した。

 

「その前に…」

 

「?」

 

「最後の的を落としてからにしなさい」

 

予想外の言葉だった。

夜風が一瞬だけ強く吹き、二人の間を通り抜ける。ティアナは驚きに目を瞬かせたが、やがて小さく頷いた。

再び的へと向き直る。

月光の下、的は静かに佇んでいる。風に揺れる影が、まるで呼吸しているかのように見えた。

指先を構える。

しかし――。

 

「その必要はありません」

 

「え?」

 

「指を向ける必要はありません」

 

エレンは淡々と言葉を紡ぐ。夜の冷たさとは対照的な、どこか温度を持った表情だった。

 

「心で引き金を引きなさい」

 

意味が分からなかった。

魔法とは、術式を組み、魔力を制御し、精密に照準を定める技術だ。

風や環境すら計算に入れる、極めて理論的な行為。

それを「心で撃つ」などという言葉は、あまりにも曖昧で現実離れしている。

 

それでもティアナは、静かに腕を下ろした。

目を閉じる。

夜の冷気がまぶたの裏にまで染み込んでくるようだった。

暗闇の中で、自分が銃口を構えている姿を思い描く。

 

的までの距離。

風の流れ。木々のざわめき。

石畳を這う冷気。

呼吸のわずかな揺らぎ。

すべてを頭の中で再現していく。

その時だった。

 

『随分と落ちぶれたものね』

 

囁きが、夜の静寂の奥から滲み出るように響いた。

 

『なのはさんに逆らった身としては当然じゃない?』

 

違う。

 

『兄さんのことは、もうどうでもいいの?』

 

違う……。

 

『見返してやりたくないの?』

 

やめて。

 

『このまま負け犬って後ろ指をさされながら生きていくの?』

 

「っ……!」

 

胸の奥が強く締め付けられる。夜の冷気とは別の、内側からの圧迫感。

呼吸が乱れ、指先の感覚が遠のいていく。

風の音が遠ざかり、代わりに心の中の声だけが大きくなっていく。

その瞬間だった。

ふわり、と。

一陣の風が、ティアナの頬を撫でた。

夜の冷たさを含みながらも、不思議なほど優しく、まるで張り詰めた糸をそっと緩めるような風。

教会の中庭を抜け、木々を揺らし、月光の下を静かに通り過ぎていく。

 

――カンッ。

 

澄んだ音が、夜の静寂に落ちる。

ティアナは驚いて目を開けた。

最後の的が、すでに地面へと転がっていた。月光を受けて、木板が淡く白く光っている。

 

「え……?」

 

自分は指一本動かしていない。

魔力を放った感覚もない。ただ、風が通り過ぎただけだった。

何が起こったのか理解できず、ティアナはその場に立ち尽くす。

夜風が再び吹き、教会の屋根を越えて遠くへと抜けていく。その音だけが、やけに鮮明に耳に残った。

エレンは静かに歩み寄る。

石畳を踏む足音さえも、夜の静けさに溶けていくようだった。

 

「ただ風と対話し、風の教える通りの道へ、然るべき力を与えただけです」

 

「言っていることが……分かりません」

 

ティアナの声は、夜気に少しだけ震えていた。

エレンは答えず、ただ夜空を見上げる。

雲の切れ間から覗く月。揺れる木々。遠くで鳴く虫の声。

すべてが一つの呼吸のように、静かに調和している。

 

「世界と一つになりなさい」

 

その声は、夜風よりも穏やかだった。

 

「雑念に惑わされず、己と向き合うのです。そうすれば、風も、大地も、あなたに力を貸してくれるでしょう」

 

ティアナは俯いた。

石畳に落ちる自分の影が、月光に揺れている。

 

「私には……無理です」

 

兄への想い。

六課での後悔。

なのはへの罪悪感。

そして、捨ててきた夢。

夜の静けさの中で、それらは逃げ場を失い、胸の奥で重く沈んでいく。

そんな心で世界と一つになれと言われても、到底理解できなかった。

 

「……理解できません」

 

しばらく、風だけが二人の間を通り抜けていく。

やがてエレンは、小さく微笑んだ。

月光に照らされたその表情は、どこか夜そのもののように静かだった。

 

「構いません」

 

「え?」

 

「今は理解できなくても」

 

ティアナの肩に、そっと手が置かれる。

その手は驚くほど温かく、夜の冷気の中で確かな存在感を持っていた。

 

「まずは――自然のままでいなさい」

 

その一言は、夜風よりも優しく、張り詰めていたティアナの心へと静かに染み込んでいった。

 

 

夜の静寂が教会を包んでいる。

皆が寝静まった頃、ティアナは中庭に立っていた。

 

深く息を吸い、指先に魔力を集める。

乾いた音と共に魔力弾が夜を裂く。

 

カンッ。

 

木製の的が地面へ転がった。

もう一度。

今度は二枚同時に。

さらに三枚。

エレンの言葉を思い返しながら、雑念を振り払うように引き金を引く。

少しずつだが、魔力は以前より素直に応えている気がした。

 

(……まだ、できる)

 

そう思った瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走る。

 

できるようになってどうするのだろう。

また誰かを守るため?

それとも、また誰かを傷つけないため?

――違う。

本当は分かっている。

これはただの逃避だ。

 

「やっぱり、ここにいたか」

 

背後から声がした。

 

「っ!」

 

振り返ると、月明かりの下に行人が立っていた。

 

「行人…神父……」

 

胸の奥が締め付けられる。

 

見られた。

隠していたはずなのに。

もう魔法は捨てたはずなのに。

 

(どうして……まだこんなことをしてるのよ、私)

 

「違う、これは……」

 

言い訳は出てこない。

代わりに、心の奥から別の声がせり上がる。

 

――また隠すの?

――また嘘をつくの?

――結局、何も変わってないじゃない。

 

ティアナはその声から逃げるように、踵を返した。

 

「あ、おい!」

 

行人も慌てて追いかける。

 

「待てって!」

 

静かな住宅街に足音だけが響く。

 

「なんで追うのよ!」

 

「そっちが逃げるからだろ!」

 

「放っといて!」

 

「こんな時間にどこ行く気なんだよ!」

 

「そんなの……!」

 

ティアナは振り返らず叫んだ。

 

「知らないわよ!」

 

本当は分かっている。

どこにも行く場所なんてない。

ただ、見られたくなかった。

惨めな自分を。

兄を失った自分を。

夢を捨てたくせに、まだ魔法に縋っている自分を。

 

(私は……何がしたいの?)

 

答えは出ない。

出るはずがない。

 

「放っておいて!!」

 

叫びが夜に溶ける。

その声は、自分自身に向けたものでもあった。

 

――もうやめて。

――これ以上、期待しないで。

――私はもう、ちゃんとした人間じゃない。

 

だが次の瞬間。

 

「はぁ……っ……」

 

ティアナの足が止まった。

息が上がり、膝に手をつく。

久しく本気で走っていなかった体は正直だった。

遅れて行人が追いつく。

肩で息をしながら苦笑する。

 

「はぁ……やっと止まったか……」

 

ティアナは答えない。

ただ俯き、肩を震わせていた。

 

逃げ切れなかった。

いつもそうだ。

過去からも、自分からも。

 

しばらく沈黙が流れる。

やがて行人が静かに言った。

 

「さ、一休みしたら帰ろう。」

 

「……どこへ?」

 

小さな声だった。

 

「教会」

 

即答だった。

その言葉に、ティアナはわずかに顔を歪める。

 

(帰る? 私が?)

 

自嘲が喉の奥で笑いになる。

 

「あそこは……私の家じゃない」

 

行人は少しだけ空を見上げる。

 

「俺だってそうだよ」

 

「……」

 

その言葉に、ティアナは思わず顔を上げた。

行人の横顔は、驚くほど静かだった。

 

「元いた世界でも、生まれ育った場所でもない」

 

夜風が二人の間を抜けていく。

 

「でもさ…」

 

行人は照れくさそうに頭を掻いた。

 

「今は、帰る場所ではあるんだ」

 

その言葉は、優しさというよりも事実のように落ちてきた。

だからこそ、逃げ場がなかった。

 

(帰る場所……?)

 

そんなもの、自分にはない。

兄がいた場所はもう戻らない。

自分が壊したものは、もう元には戻らない。

それでも。

胸の奥で、小さな何かが揺れた。

 

「早く寝ないと、明日がキツいぞ」

 

ティアナは顔を背け、小さく鼻を鳴らす。

 

「……ふん」

 

それ以上は何も言わない。

だが、もう逃げ出そうとはしなかった。

逃げても、何も変わらないことを知ってしまったから。

二人は並んで歩き出す。

夜明けまでは、まだ少し時間があった。

 

 

 

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