深夜。
教会の窓という窓はすでに暗く沈み、かつて祈りの声が満ちていた空間は、今はただ静寂だけを抱えていた。
石造りの壁は夜の冷気を吸い込み、触れればひやりと指先を奪われそうなほどに冷え切っている。
中庭には、月明かりが淡く降り注いでいた。雲の切れ間からこぼれる光は白く細く、石畳の凹凸をぼんやりと浮かび上がらせている。風が吹くたび、周囲の木々がかすかにざわめき、葉擦れの音が遠く波のように広がっては消えていった。
その静かな庭の中心に、一人の少女が立っている。
ティアナ・ランスターは、夜気にさらされた頬にわずかな冷たさを感じながら、ゆっくりと右手を上げた。
指先を木製の的へと向ける。
「……」
息を殺すと、自分の呼吸音だけがやけに大きく響く。
胸の奥で魔力が静かに収束し、指先へと集まっていく感覚があった。淡い光が生まれ、夜の闇の中で小さく瞬く。
――パンッ。
乾いた破裂音が、静寂を切り裂いた。
魔力弾は夜の空気を裂きながら真っ直ぐに飛び、的の中心を正確に撃ち抜く。
木板が揺れ、乾いた衝撃音とともに的が地面へと転がった。石畳に当たる軽い音が、夜の中に小さく響く。
ティアナは間を置かず、次の的へと視線を滑らせた。
風はわずかに向きを変え、彼女の髪を揺らす。月光がその橙色の髪に淡く反射し、一瞬だけ金色のように見えた。
二発目。
――パンッ。
三発目。
――パンッ。
どちらも迷いなく放たれ、的の中心を正確に貫く。命中のたびに、乾いた音が夜の中へと吸い込まれていく。
だが――。
四発目。
放たれた魔力弾は、わずかに風に流されたのか、それともほんの僅かな迷いのせいか、的の縁を掠めるだけに終わった。
木板はかすかに揺れ、しかし倒れることはない。
「……」
ティアナは静かに腕を下ろした。
夜風が一層冷たく感じられる。教会の屋根を越えて吹き抜ける風が、石畳の隙間を鳴らし、遠くで木々を揺らしていた。
「何やってるんだろ……私」
その呟きは、風に溶けるように消えた。
久しぶりに魔法を使った。
指先の感覚も、魔力の流れも、驚くほど滑らかで、かつてと何一つ変わっていない。
それなのに、胸の奥に残るのは達成感ではなかった。
夜の冷たさよりも深い、静かな虚しさ。
ただ、それだけだった。
「何かと思ったら、あなたでしたか」
背後から、落ち着いた声が夜気を揺らす。
振り返ると、月明かりを背に受けたエレンが静かに立っていた。白い光が彼女の輪郭を縁取り、まるで夜そのものから切り取られたように見える。
「エレン……さん」
「眠れませんか?」
その声は、夜の静けさに溶けるように柔らかい。
「……起こしてしまってすみません。今すぐ片付けて休みます」
ティアナはそう言い、的へと歩き出そうとする。だが、石畳を踏み出した瞬間、エレンの声が静かにそれを制した。
「その前に…」
「?」
「最後の的を落としてからにしなさい」
予想外の言葉だった。
夜風が一瞬だけ強く吹き、二人の間を通り抜ける。ティアナは驚きに目を瞬かせたが、やがて小さく頷いた。
再び的へと向き直る。
月光の下、的は静かに佇んでいる。風に揺れる影が、まるで呼吸しているかのように見えた。
指先を構える。
しかし――。
「その必要はありません」
「え?」
「指を向ける必要はありません」
エレンは淡々と言葉を紡ぐ。夜の冷たさとは対照的な、どこか温度を持った表情だった。
「心で引き金を引きなさい」
意味が分からなかった。
魔法とは、術式を組み、魔力を制御し、精密に照準を定める技術だ。
風や環境すら計算に入れる、極めて理論的な行為。
それを「心で撃つ」などという言葉は、あまりにも曖昧で現実離れしている。
それでもティアナは、静かに腕を下ろした。
目を閉じる。
夜の冷気がまぶたの裏にまで染み込んでくるようだった。
暗闇の中で、自分が銃口を構えている姿を思い描く。
的までの距離。
風の流れ。木々のざわめき。
石畳を這う冷気。
呼吸のわずかな揺らぎ。
すべてを頭の中で再現していく。
その時だった。
『随分と落ちぶれたものね』
囁きが、夜の静寂の奥から滲み出るように響いた。
『なのはさんに逆らった身としては当然じゃない?』
違う。
『兄さんのことは、もうどうでもいいの?』
違う……。
『見返してやりたくないの?』
やめて。
『このまま負け犬って後ろ指をさされながら生きていくの?』
「っ……!」
胸の奥が強く締め付けられる。夜の冷気とは別の、内側からの圧迫感。
呼吸が乱れ、指先の感覚が遠のいていく。
風の音が遠ざかり、代わりに心の中の声だけが大きくなっていく。
その瞬間だった。
ふわり、と。
一陣の風が、ティアナの頬を撫でた。
夜の冷たさを含みながらも、不思議なほど優しく、まるで張り詰めた糸をそっと緩めるような風。
教会の中庭を抜け、木々を揺らし、月光の下を静かに通り過ぎていく。
――カンッ。
澄んだ音が、夜の静寂に落ちる。
ティアナは驚いて目を開けた。
最後の的が、すでに地面へと転がっていた。月光を受けて、木板が淡く白く光っている。
「え……?」
自分は指一本動かしていない。
魔力を放った感覚もない。ただ、風が通り過ぎただけだった。
何が起こったのか理解できず、ティアナはその場に立ち尽くす。
夜風が再び吹き、教会の屋根を越えて遠くへと抜けていく。その音だけが、やけに鮮明に耳に残った。
エレンは静かに歩み寄る。
石畳を踏む足音さえも、夜の静けさに溶けていくようだった。
「ただ風と対話し、風の教える通りの道へ、然るべき力を与えただけです」
「言っていることが……分かりません」
ティアナの声は、夜気に少しだけ震えていた。
エレンは答えず、ただ夜空を見上げる。
雲の切れ間から覗く月。揺れる木々。遠くで鳴く虫の声。
すべてが一つの呼吸のように、静かに調和している。
「世界と一つになりなさい」
その声は、夜風よりも穏やかだった。
「雑念に惑わされず、己と向き合うのです。そうすれば、風も、大地も、あなたに力を貸してくれるでしょう」
ティアナは俯いた。
石畳に落ちる自分の影が、月光に揺れている。
「私には……無理です」
兄への想い。
六課での後悔。
なのはへの罪悪感。
そして、捨ててきた夢。
夜の静けさの中で、それらは逃げ場を失い、胸の奥で重く沈んでいく。
そんな心で世界と一つになれと言われても、到底理解できなかった。
「……理解できません」
しばらく、風だけが二人の間を通り抜けていく。
やがてエレンは、小さく微笑んだ。
月光に照らされたその表情は、どこか夜そのもののように静かだった。
「構いません」
「え?」
「今は理解できなくても」
ティアナの肩に、そっと手が置かれる。
その手は驚くほど温かく、夜の冷気の中で確かな存在感を持っていた。
「まずは――自然のままでいなさい」
その一言は、夜風よりも優しく、張り詰めていたティアナの心へと静かに染み込んでいった。
◇
夜の静寂が教会を包んでいる。
皆が寝静まった頃、ティアナは中庭に立っていた。
深く息を吸い、指先に魔力を集める。
乾いた音と共に魔力弾が夜を裂く。
カンッ。
木製の的が地面へ転がった。
もう一度。
今度は二枚同時に。
さらに三枚。
エレンの言葉を思い返しながら、雑念を振り払うように引き金を引く。
少しずつだが、魔力は以前より素直に応えている気がした。
(……まだ、できる)
そう思った瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走る。
できるようになってどうするのだろう。
また誰かを守るため?
それとも、また誰かを傷つけないため?
――違う。
本当は分かっている。
これはただの逃避だ。
「やっぱり、ここにいたか」
背後から声がした。
「っ!」
振り返ると、月明かりの下に行人が立っていた。
「行人…神父……」
胸の奥が締め付けられる。
見られた。
隠していたはずなのに。
もう魔法は捨てたはずなのに。
(どうして……まだこんなことをしてるのよ、私)
「違う、これは……」
言い訳は出てこない。
代わりに、心の奥から別の声がせり上がる。
――また隠すの?
――また嘘をつくの?
――結局、何も変わってないじゃない。
ティアナはその声から逃げるように、踵を返した。
「あ、おい!」
行人も慌てて追いかける。
「待てって!」
静かな住宅街に足音だけが響く。
「なんで追うのよ!」
「そっちが逃げるからだろ!」
「放っといて!」
「こんな時間にどこ行く気なんだよ!」
「そんなの……!」
ティアナは振り返らず叫んだ。
「知らないわよ!」
本当は分かっている。
どこにも行く場所なんてない。
ただ、見られたくなかった。
惨めな自分を。
兄を失った自分を。
夢を捨てたくせに、まだ魔法に縋っている自分を。
(私は……何がしたいの?)
答えは出ない。
出るはずがない。
「放っておいて!!」
叫びが夜に溶ける。
その声は、自分自身に向けたものでもあった。
――もうやめて。
――これ以上、期待しないで。
――私はもう、ちゃんとした人間じゃない。
だが次の瞬間。
「はぁ……っ……」
ティアナの足が止まった。
息が上がり、膝に手をつく。
久しく本気で走っていなかった体は正直だった。
遅れて行人が追いつく。
肩で息をしながら苦笑する。
「はぁ……やっと止まったか……」
ティアナは答えない。
ただ俯き、肩を震わせていた。
逃げ切れなかった。
いつもそうだ。
過去からも、自分からも。
しばらく沈黙が流れる。
やがて行人が静かに言った。
「さ、一休みしたら帰ろう。」
「……どこへ?」
小さな声だった。
「教会」
即答だった。
その言葉に、ティアナはわずかに顔を歪める。
(帰る? 私が?)
自嘲が喉の奥で笑いになる。
「あそこは……私の家じゃない」
行人は少しだけ空を見上げる。
「俺だってそうだよ」
「……」
その言葉に、ティアナは思わず顔を上げた。
行人の横顔は、驚くほど静かだった。
「元いた世界でも、生まれ育った場所でもない」
夜風が二人の間を抜けていく。
「でもさ…」
行人は照れくさそうに頭を掻いた。
「今は、帰る場所ではあるんだ」
その言葉は、優しさというよりも事実のように落ちてきた。
だからこそ、逃げ場がなかった。
(帰る場所……?)
そんなもの、自分にはない。
兄がいた場所はもう戻らない。
自分が壊したものは、もう元には戻らない。
それでも。
胸の奥で、小さな何かが揺れた。
「早く寝ないと、明日がキツいぞ」
ティアナは顔を背け、小さく鼻を鳴らす。
「……ふん」
それ以上は何も言わない。
だが、もう逃げ出そうとはしなかった。
逃げても、何も変わらないことを知ってしまったから。
二人は並んで歩き出す。
夜明けまでは、まだ少し時間があった。