ティアナ・ランスターが機動六課を去ってから、既にかなりの時間が経っていた。
なのはは、執務机の引き出しを静かに開く。
そこにはティアナが置いていった私物が、今もそのまま残されていた。
予備の手袋。
書きかけの戦術ノート。
そして、何冊もの魔導書。
「……」
着の身着のまま飛び出した。
それだけは間違いない。
だからこそ心配だった。
着替えも金もない。
行き先も分からない。
生きているのかさえ確認できない。
スバルにも尋ねた。
しかし返ってきたのは、首を横に振る姿だけだった。
「ごめんなさい……私も、何も知りません」
親友ですら知らない。
それほどまでにティアナは一人で姿を消したのだ。
そして、もう一つ。
六課には深刻な問題が起きていた。
ティアナの後任として前線指揮を任されたリィン。
当初は何とか務めていた。
だが、任務を重ねるたびに判断は鈍り、指示は遅れ、隊の連携は崩れていく。
最初は「慣れていないだけ」だった。
誰もがそう思っていた。
しかし違った。
彼女の中で、何かが確実に壊れ始めていた。
戦場に立つたび、リィンの視界は妙に遠くなる。
敵の動きが見えているのに、声が出ない。
指示を出さなければならないのに、喉の奥で言葉が絡まる。
(違う……違う、こうじゃない……)
頭の中では分かっている。
最適解も、隊の配置も、リスクも全部理解している。
それでも、口が動かない。
一瞬の遅れが、致命的な隙になる。
その“遅れ”が積み重なった結果――。
エリオが負傷した。
致命傷ではない。
だが、指揮官としては十分すぎるほど重い結果だった。
その瞬間、リィンの中で何かが音を立てて崩れた。
(私のせいだ)
(私が遅れたから)
(私が判断できなかったから)
戦場での失敗は、数字では終わらない。
誰かの血として残る。
誰かの痛みとして残る。
その現実が、彼女の心に突き刺さった。
それ以来、リィンは部屋から出てこなくなった。
「……お仕事、行きたくないです……」
扉越しに聞こえる震えた声に、誰も返す言葉を持たなかった。
その声は、拒絶ではない。
逃避でもない。
ただ、壊れかけた心が必死に自分を守ろうとする、か細い防衛反応だった。
(また失敗したらどうしよう)
(また誰かが傷ついたらどうしよう)
(私が指揮を取る資格なんて、本当にあるの?)
考えれば考えるほど、答えは一つに収束していく。
――自分は指揮官に相応しくない。
その結論に辿り着くたび、呼吸が浅くなる。
胸が締め付けられる。
視界が揺れる。
それでも誰にも言えない。
言ってしまえば、終わってしまう気がした。
だから彼女は、扉の内側でただ縮こまることしかできなかった。
隊員は疲弊し、任務は失敗が続く。
レリックは既に二つも奪われた。
ついに、はやては決断する。
限界だ。
そう判断した彼女は、師でもあり、スバルとギンガの父でもあるゲンヤ・ナカジマ三佐へ協力を求めた。
会議室にて。
通信で事情を聞き終えたゲンヤは、机を勢いよく叩いた。
『馬鹿野郎!!』
怒号が部屋中に響く。
『そんな大事なことを、どうして今まで黙ってた!!』
「……申し訳ありません」
はやては深く頭を下げるしかなかった。
隣ではフェイトも、シグナムも言葉を失っている。
ゲンヤは苛立ちを隠そうともせず言葉を続けた。
『六課は今までにない思想で作られた部隊だろうが!』
「はい……」
『従来の運用方法が通用しない事態が起きるなんざ、最初から分かりきってた話だ!』
誰も反論できない。
『問題が起きたなら、その時点で周りを頼れ! 抱え込んでどうする! 現場だけで解決できるなら、上官なんて要らねぇんだ!』
重苦しい沈黙が部屋を支配する。
しばらくして、ゲンヤは大きく息を吐いた。
怒りを押し殺し、背もたれに寄りかかる。
『……で』
低い声で問い掛ける。
『俺に何をしてほしい』
はやては顔を上げた。
「ティアナの後任になれそうな人に、心当たりはありませんか?」
ゲンヤは腕を組む。
『第二候補はどうした』
「第二、第三候補の子には断られてしまいました」
『……だろうな』
苦々しく呟く。
『第一候補だったティアナが潰れたって話を聞けば、誰だって尻込みする』
その言葉は、単なる事実以上の重さを持っていた。
“潰れた”。
その一言が、リィンの現状を的確に言い当てていた。
能力の問題ではない。
経験不足でもない。
責任という重圧に、心が耐えきれなかったのだ。
誰も否定できなかった。
『それだけじゃねぇ』
ゲンヤは机上の資料を指先で叩く。
『レリック確保も遅れてる』
『部隊育成も止まってる』
『六課を作った理由のうち、二つもまともに機能してねぇじゃねぇか』
静まり返る室内。
その言葉は、組織の現実を容赦なく突きつけていた。
理想だけでは部隊は動かない。
誰か一人の崩壊は、連鎖的に全体を蝕む。
『……ギンガを送る』
「え?」
『戦闘スタイルはスバルと被る。だが、あいつなら妹の動きは誰より理解してる。少なくとも前衛の連携は立て直せるだろう』
「ありがとうございます!」
はやては深く頭を下げた。
ゲンヤは窓の外へ視線を向ける。
『厄介なことになったもんだぜ……』
機動六課。
それは管理局史上、類を見ない戦力を誇る特務部隊。
誰もが未来を期待した部隊だった。
だが今、その精鋭部隊は犯罪者と決着をつけるより先に、自らの足元から崩れ始めていた。
組織とは、どれほど優れた剣を揃えても、それを束ねる柄が折れれば戦えない。
その当たり前の現実を、機動六課は痛いほど思い知らされていた。
◇
機動六課は噛み合わない歯車を無理やり回す事で稼働していた。
任務そのものは終わっていない。
報告書も上がるし、訓練も続いている。
だが――
「……」
高町なのはは、誰もいない執務室で画面を見つめていた。
時計の針は、既に深夜を回っている。
表示されているのは、新しい訓練メニュー。
何度も修正しては、また考え直す。
もっと効率的に。
もっと安全に。
もっと、みんなが傷つかないように。
そう考え続けているはずなのに、気が付けば同じ場所を何度も巡っていた。
「……ティアナ」
無意識に名前が漏れる。
あの日。
彼女を撃墜した瞬間が、何度も頭の中で再生される。
――視界いっぱいに広がる閃光。吹き飛ぶ小さな身体。地に落ちた衝撃音。
その直後に見えた、ティアナの驚愕と理解が追いつかないまま歪んでいく表情。
あれは必要な指導だったのか。
それとも――
やりすぎだったのか。
「……」
なのはには分からなかった。
言葉だけでは止まらなかった。
ティアナは焦っていた。
自分を追い込んでいた。
だから、あの時止める必要があった。
それは今でも間違いだとは思っていない。
しかしその結果、彼女は自信を失った。
そして、六課から姿を消した。
正解だったはずの行動が、誰かを壊してしまった。
その矛盾が、なのはの心を締め付けていた。
「……なのは」
「なに? ヴィータちゃん」
ある日、ヴィータに呼び止められた。
「今日は休め」
「でも、訓練メニューが……」
「だからだよ」
ヴィータは呆れたように眉をひそめる。
「最近のお前、ずっとおかしいぞ」
「……」
「寝てねぇだろ」
否定できなかった。
訓練メニューを考える。
任務資料を見る。
また考える。
そうしなければ、不安だった。
何かをしていないと、ティアナのことを考えてしまうから。
「ギンガを迎える前に、今のままじゃ駄目だ」
ヴィータの言葉は厳しかった。
「お前ら全員、一回頭冷やせ」
その判断で、FW陣を含めた六課には一日の休暇が与えられた。
街を歩く。
久しぶりの休日。
本来なら楽しいはずだった。
なのに、なのはの視線は自然と人混みへ向いていた。
オレンジ色の髪。
似た背格好の少女。
その度に胸がざわつく。
「……いるわけないのに」
自嘲するように呟く。
無意識にティアナを探している。
謝りたいのか。
話したいのか。
それとも、もう一度やり直したいのか。
自分でも分からない。
「私は……どうすれば良かったのかな」
答えは出ない。
ただ、同じ問いだけが頭の中を回り続ける。
気が付けば、足は街の喧騒から外れ、静けさの濃い一角へと入り込んでいた。
音が遠のくほどに、胸の内側だけがやけに大きく響く。
ここで立ち止まっていいのか。
進むべきなのか。
それすら曖昧なまま、視線の先に小さな教会が浮かび上がる。
街の喧騒から切り離されたような、異質な静寂。
「教会……?」
その言葉を口にした瞬間、理由のない寒気が背を撫でた。
祈りの場所のはずなのに、どこか“呼ばれている”ような感覚がある。
行ってはいけない、と理性が囁く。
それでも、確かめなければならない気がした。
なのはは、ゆっくりと扉へ手を伸ばす。
そして――冥王教会の扉を開いた。