告解室は静かだった。
蝋燭の炎だけが、暗闇の中で揺れている。
「……今日は、静かだな」
行人は小さく息を吐いた。
冥王教会の仕事は多い。
子供の世話、診療所の手伝い、住民の相談。
だが、この部屋だけは違う。
ここに来る者は皆、肩書きを脱ぎ捨てる。
神父にではなく、自分自身に向き合うために。
だから行人は、ただ聞くことに徹していた。
その時、隣室の扉が静かに開く気配がした。
「……」
誰かが入ってきた。
行人は背筋を正す。
「迷える子羊よ」
静かに声を落とす。
「あなたの罪を語りなさい」
沈黙が数秒流れた後、小さな声が返る。
「……はい」
若い女性の声だった。
「私は教育に関わる仕事をしています。そして……取り返しのつかないことをしました」
行人は短く問い返す。
「何をしたのですか?」
彼女は一度、息を呑んだ。
そして、言葉を絞り出す。
「教え子に……手を上げました」
それだけで、空気が重くなる。
「その子は、どんな子でしたか?」
「……必死に、強くなろうとしていました。賢くなりたいと願い、努力を重ねていました」
行人は静かに頷く。
「立派な生徒ですね」
「……ええ」
だが、彼女の声はすぐに揺れた。
「でも、その努力は限界を超えていました。眠らずに訓練し、倒れるまで勉強し続けて…。気づいた時には、もう正常じゃなかったんです」
言葉が途切れる。
「動きは鈍り、判断も崩れていた。それでも止まらなかった。むしろ……自分を壊すように戦い続けたんです。」
拳を握る気配がした。
「そして私は……」
一拍。
「止めるために、撃ちました」
その瞬間、空気が凍る。
「……」
「悲鳴が、今も離れません」
「驚いた顔も、全部」
「止めるためだったのに……」
声が崩れていく。
「どうすればよかったんですか?」
「どうすれば、あの子を救えたんですか?」
「私は…守りたかっただけなのに……!」
「助けたかっただけなのに……!」
嗚咽が混じる。
「結果はこれです」
「私は救えなかった」
「ただ……壊しただけでした」
暫し沈黙が流れる。
行人はすぐに言葉を返せなかった。
蝋燭の炎だけが揺れている。
一人の教師が抱えた、取り返しのつかない後悔の声が告解室に響き渡った。
◇
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
静かな声が告解室に響く。
「……はい」
「あなたは最近、眠れていますか?」
なのはは一瞬言葉を失った。
どうしてそんなことを聞くのだろう。
「……いえ。それが、全然」
正直に答えると、神父は少しだけ間を置いた。
「その教え子さんも、同じだったとは考えられないでしょうか」
「え……?」
思いがけない言葉だった。
「聞く限り、その子はとても真面目な方だったのでしょう」
「はい」
「責任感も強く、自分を律することができる」
「……はい」
「ですが、それと同時に、その努力に懸ける思いは尋常ではなかった」
行人は淡々と続ける。
「普通、人間は自分の身体が壊れないよう無意識に加減をします」
「疲れたら休む」
「眠くなれば眠る」
「それが生き物として自然な反応です。それでもなお身体を酷使し続けるとなると…」
そこで一度言葉を切った。
「その子は強くなることよりも、疲れることが目的だったのではないでしょうか」
「……っ!」
なのはは息を呑んだ。
「ど、どういう意味ですか……?」
「あなたがおっしゃいましたね。最近眠れない、と」
「それは何故でしょう」
「考えてしまうからです」
「後悔」
「不安」
「焦燥」
「様々な感情が頭を巡り、眠ろうとしても眠れない」
なのはは何も言えない。
まさに今の自分がそうだった。
「では、人はどう考えるでしょう」
「身体が限界まで疲れてしまえば、眠れるかもしれない」
「仮に眠れなかったとしても、努力しているという安心感だけは得られる」
「そう考えていたとしたら?」
「…………」
告解室が静まり返る。
なのはの頭の中に、ティアナの姿が浮かんだ。
朝から晩まで訓練。
夜遅くまで座学。
誰よりも早く訓練場へ来て。
誰よりも遅く帰る。
「まさか……」
呟きが漏れる。
「あの努力は……助けてって言えなかった、あの子の……」
声にならないSOS
胸が締め付けられる。
もしそうだったのなら、ティアナの心は撃墜されるずっと前から限界だった事になる。
「で、でも……」
なのはは必死に言葉を探した。
「それなら、お薬を使えば……」
「精神安定剤ですね」
神父は穏やかに答える。
「ものによりますが、薬の効果を実感するのに一ヶ月は飲み続ける必要があります。最近では副作用の眠気や吐気が少ない薬もありますが、経験則から言わせてもらうと思ったより個人差がありました。自分に合う薬を見つけるのに少々時間がかかるでしょう」
「さらに欠点があるとすれば、その作用は裏を返せば集中力や判断力にも少なからず影響を及ぼします」
「特に精密機器を扱う仕事や、一瞬の判断が生死を分ける職業では、手元が狂うことを恐れて服用を避ける方も少なくありません。失敗を薬のせいにしたくない人なら尚更抵抗があるでしょう」
「……」
なのはは言葉を失った。
六課は緊急出動がある。
いつ呼び出されるか分からない。
ティアナは射撃手。
わずかな照準の狂いが仲間の命を左右する。
そんな立場の彼女が、眠気を催しかねない薬を気軽に飲めるはずがない。
いや。
飲もうと思っても、飲めなかったのだ。
「…………」
今になって初めて気づく。
ティアナは薬に頼ることすら、自分で許せなかったのかもしれない。
努力を止めることも。
休むことも。
眠ることすら。
そのすべてを、自分自身で禁じていたのだ。
「私は……」
震える声が漏れる。
「何も、見えていなかった」
教官として。
隊長として。
ずっと近くにいたはずなのに。
あの子の悲鳴は、一度も聞こえていなかった。
なのはは静かに目を閉じた。
機動六課。
理想を掲げて生まれた部隊。
その理想を守るために走り続ける隊員たちは、知らぬ間に自分自身を追い詰めていた。
その現実の重さを、なのはは今ようやく痛感していた。
◇
「……この教会にも教育施設があります」
静かな声が、告解室の薄暗がりに落ちる。
なのはは涙を拭おうとして、指先が頬に触れたまま止まった。まだ濡れている。自分でも驚くほど、涙は止まっていなかった。
「そこで私も僭越ながら、子供達に勉強を教えています」
その言葉を聞きながら、なのはは小さく息を吸った。だが吸い込んだ空気は浅く、胸の奥まで届かない。喉の奥が詰まったようで、呼吸がうまく整わない。
「最初は私も、大人が教え、子供が学ぶものだと思っていました」
胸の奥が、きゅっと縮む。
その“当たり前”は、なのはにとっても同じだった。疑う余地すらなかった価値観。自分は教える側で、子供は受け取る側。それだけのはずだった。
「ですが、実際に教壇へ立ってみると、それは思い上がりだったと気づかされたのです」
なのはは小さく息を呑む。
喉の奥がひりつく。視線が自然と揺れ、手元の膝へと落ちる。そこにあるはずのない“何か”を探すように、指先がわずかに震えた。
「意外と子供というのは、大人が思っている以上によく見ています。よく考えています」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
(そんな……)
否定したいのに、否定できない。思い当たる記憶が、いくつも浮かんでしまう。
「私達大人なら、『まぁ、いいか』と流してしまうようなことでも、あの子達は立ち止まり、悩み、自分なりの答えを見つけようとする」
なのはは唇を噛んだ。
“流してしまう”。
その言葉が、鋭く胸を刺す。
自分はどうだっただろう。あの子の小さな違和感や迷いを、本当に見ていたのだろうか。それとも、見えていないふりをしていたのだろうか。
呼吸が浅くなる。胸の奥が重く、痛い。
まるで見えない手で内側から押さえつけられているようだった。
「時には、その姿勢を見て私の方が教えられることさえありました」
その一言で、なのはの中の何かが揺れた。
(子供が……大人を教える?)
視線がふらりと宙を彷徨う。
今まで一度も持ったことのない視点だった。
自分は“教える側”であることに疑いを持たなかった。
守る側であり、導く側であり、正しい側に立つ存在だと。
けれど、その前提が静かに崩れていく。
子供は未熟で、守られる存在で、導かれる側。
その思い込みが、どれほど一方的だったのか。
胸の奥がじわりと熱くなる。痛みとも違う、焦りとも違う、言葉にできない感情が広がっていく。
「……あなたが何を、どれほど悔いているのか、私が正確に理解する事はできないでしょう」
行人の声は変わらず穏やかだった。
その穏やかさが、逆になのはの心を揺らす。責められていないのに、逃げ場がない。
「ですが、一つだけ分かる事があります。」
なのはは息を止めた。
「あなたは、その教え子にまだ未練がある」
「未練……」
声がかすれる。自分の声なのに、遠く感じた。
「ええ。やり残したことがあるのでしょう」
その言葉に、なのはは何も返せなかった。
喉の奥が熱い。視界の端が滲む。瞬きをすると、涙がまた溢れそうになるのが分かって、必死に堪えた。
やり残したこと。
その言葉は、あまりにも正確だった。
忘れたことなど一度もない。むしろ、忘れられないまま毎日が続いている。街のどこかに、あのオレンジ色の髪を探してしまう自分がいる。
「もし、その教え子ともう一度会えたとしましょう。あなたは、何を話しますか?」
「……えっ?」
思考が止まる。
胸の奥で何かが強く跳ねた。
何を話す?
謝る?違う。
叱る?それも違う。
励ます?それすら、どこか空虚に感じる。
なのはは唇を開こうとして、言葉が出なかった。喉が詰まり、呼吸が浅くなる。胸が苦しい。視線が揺れて、どこにも焦点が合わない。
「わ、分かりません…」
ようやく絞り出した声は、かすれていた。
その瞬間、自分の弱さがそのまま形になったようで胸が痛んだ。
「そうですか」
責めるでもなく、突き放すでもない声。
その静けさが、逆に胸に沁みる。
「あなたが何に苦しんでいるのかは、あなたにしか分かりません」
「ですから、今一度、ご自身の心と向き合ってみてください」
「心と……」
その言葉を繰り返した瞬間、なのはの胸の奥がまた強く締め付けられた。
向き合う。
ずっと避けてきたもの。
「なんでも良いのです」
「私は悪かったと謝りたいのか」
「それとも、自分は正しかったのだと伝えたいのか」
「あるいは、そのどちらでもないのか」
なのはは唇を噛んだ。
違う。
どれも違う。
だから苦しい。
胸の奥が熱く、痛い。呼吸が乱れ、息を吸うたびに胸が軋む。
(私は……)
ティアナの姿が浮かぶ。
訓練場で歯を食いしばる横顔。
悔しさを押し殺すような沈黙。
そして、あの瞬間の叫び。
胸の奥がぎゅっと縮む。視界が滲む。
(私は……何を見ていた?)
強くなってほしかった。
守りたかった。
間違ってほしくなかった。
その全部が本心だったはずなのに、その“正しさ”の中で、何かを見落としていた気がしてならない。
呼吸が浅くなる。胸が痛い。涙が止まらない。
(私は、本当にあの子を見ていたんだろうか。)
その問いが、逃げ場を奪う。
努力する姿だけを見て、心の奥の震えには気づかなかったのではないか。
強さを求めるあまり、弱さを見ようとしなかったのではないか。
なのはの肩がわずかに震えた。
気づけば、涙が頬を伝っていた。
止めようとしても止まらない。
答えはまだ出ない。
それでも、胸の奥の痛みだけが確かにそこにあった。
そしてその痛みが、初めてなのはに「自分の正しさ」ではなく、「自分の心」を見つめさせていた。