こちら冥王教会ミッドチルダ支部   作:マルク

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9.変わらないもの、変わるもの

 

夕暮れの街。

 

ティアナは紙袋を抱え、石畳の道をゆっくりと歩いていた。

教会で頼まれた食材や日用品は一通り揃えた。

あとは帰るだけ。

それだけのはずだった。

 

「じゃあ、次はあっちの店に行こうぜ!」

 

「いいね! 今日は付き合うよ!」

 

通りの向こうから、若者達の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

友人同士で買い物へ向かう、ごくありふれた光景。

その何気ない日常が、不意にティアナの胸を締め付けた。

 

(兄さんが生きていたら…)

 

ふと、そんな考えが頭をよぎる。

夕暮れの光が、石畳に長い影を落としている。

その影の中に、かつての記憶が重なる。

――訓練帰りの道。

少し疲れた顔で、それでも優しく笑う兄。

 

『無理するなよ、ティアナ。お前は真面目すぎるからな』

 

頭を軽く小突かれた感触まで、妙に鮮明に蘇る。

あの手はもう、どこにもない。

呼べば返事をしてくれる声も、もうない。

 

(……どうして)

 

胸の奥で、言葉にならないものが渦を巻く。

 

兄が殉職していなければ、自分はどんな人生を歩んでいただろう。

家計を支えるために管理局へ入ることはあっても、執務官という重圧の道を選んだだろうか。

もっと違う選択肢が、あったのではないか。

 

『ティアナ、お前には普通の人生を歩んでほしい』

 

あの声が、記憶の中で静かに響く。

 

もし兄が生きていたなら、きっとそう言って反対しただろう。

一般職として働き、休日には兄と食事をして、他愛のない話で笑い合う。

そんな、ささやかで温かい未来。

それはもう、どこにも存在しない。

 

「……」

 

ティアナは小さく息を吐き、首を振った。

振り払うように。

忘れるように。

 

(もう終わったことだ)

 

そう言い聞かせる声は、どこか乾いていた。

 

今さら考えたところで、何も変わらない。

変えられない。

だからこそ、考えてはいけない。

 

一歩踏み出す。

その足取りは、わずかに重かった。

その時だった。

視界の端を、大きな金色の塊が横切った。

 

「えっ……?」

 

反射的に視線を向ける。

人。

まだ幼い少女だった。

4、5歳ほどだろうか。

長い金髪を揺らしながら、今にも糸の切れた人形のように、ふらふらと歩いている。

その姿が妙に現実感を欠いて見えた。

 

「ちょっ!?」

 

声を掛けるより早く、少女の身体は力を失ったように前へ崩れ落ちた。

 

「危ない!」

 

ティアナは紙袋を放り出し、ほとんど反射で駆け出していた。

膝をつき、倒れ込む少女を抱き起こす。

驚くほど軽い。

まるで体温ごと薄くなってしまったかのような軽さだった。

 

「大丈夫!? しっかり!」

 

頬に手を当てる。

冷たくはない。

熱もない。

呼吸も脈も正常。

外傷も見当たらない。

 

「気を失ってるだけ?」

 

安堵が一瞬だけ胸を緩める。

だが、その直後。

 

「……ん?」

 

かすかな金属音。

視線を落とす。

少女の足首には、重そうな鉄の枷。

その先には、銀色のケースが鎖で繋がれていた。

あまりにも不釣り合いで、あまりにも異様な光景。

 

(何……これ?)

 

胸の奥に、冷たいものが落ちる。

恐る恐るケースへ手を伸ばす。

鍵は掛かっていない。

ゆっくりと蓋を開ける。

その瞬間、ティアナの呼吸が止まった。

 

「レリック…」

 

そこに収められていたものを見た瞬間、思考が一瞬だけ空白になる。

幾度となく追い続け、危険性を叩き込まれてきたロストロギア。

間違いようがない。

レリックだった。

 

「どうして……」

 

声が、かすかに震える。

少女とレリック。

そして足枷。

まるで“管理”されているかのような状況。

 

(逃がさないため?)

 

嫌な想像が、ゆっくりと形を持ちはじめる。

レリックは危険だ。

暴走すれば、周囲を巻き込み、多くの命を奪う。

それは理解している。

理解しているはずなのに。

ティアナの視線は、無意識に少女へ戻っていた。

 

小さな身体。

意識のない顔。

 

その姿が、なぜか兄の記憶と重なりかけて――

 

(違う)

 

ティアナは強く目を閉じた。

 

違う。

これは過去じゃない。

今、目の前で起きている現実だ。

 

「放ってはおけない…」

 

その言葉だけは、迷いなく心の中に落ちた。

ティアナは少女を壁際へそっと寄せかけると、周囲を見回す。

少し離れた場所に公衆電話が見えた。

 

「待ってて」

 

小さく呟く声は、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。

電話へ駆け寄る。

受話器を取り、緊急回線へ繋ぐ。

 

『こちら時空管理局、地上本部です』

 

聞き慣れた声。

その瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。

 

(また…繋がるんだ)

 

もう戻らないと決めた場所。

それでも、手は自然に動いている。

 

「レリックを発見しました」

 

一瞬、言葉が詰まる。

喉の奥に、別の感情が引っかかる。

それでもティアナは続けた。

 

「それと……保護が必要な少女が一人います」

 

受話器を握る手に力がこもる。

兄のいない世界。

誰も代わりにはならない世界。

その孤独は、今も消えていない。

それでも――。

目の前で倒れている小さな命を見捨てることはできない。

 

(私は……)

 

もう管理局の人間ではない。

そう決めたはずだ。

それでも、人を救うという選択だけは、まだ捨てられない。

 

それが、今のティアナ・ランスターだった。

 

 

「本日は、ありがとうございました。」

 

告解室を出る前、なのはは静かに頭を下げた。

石造りの壁に囲まれた室内は、外の喧騒とは切り離されたように静かで、蝋燭の炎だけがゆらりと揺れている。

橙色の光が木の扉に柔らかく滲み、影を長く伸ばしていた。

 

「いいえ。少しでも、お力になれたのでしたら何よりです」

 

向こう側から穏やかな声が返ってくる。

 

「色々とお辛いでしょうが……どうか、気をしっかりお持ちください」

 

「……はい」

 

短く返事をすると、なのはは教会を後にした。

重い木扉が閉じると同時に、外の空気が一気に流れ込んでくる。

ひんやりとした風が頬を撫で、蝋燭の甘い匂いが背後へと遠ざかっていった。

 

 

夕暮れの街並みを歩きながら、ふと空を見上げる。

石畳の道は夕陽を受けて赤銅色に染まり、建物の影が長く伸びて路地の奥へと沈んでいく。

遠くでは鐘の音が一度だけ鳴り、澄んだ空気の中にゆっくりと溶けていった。

 

今まで当たり前だと思っていたこと。

正しいと信じていたこと。

それらが、この数時間で少しだけ形を変えた気がしていた。

 

(子供は、大人が思っている以上によく見ている…)

 

教えることばかり考えていた。

強くすることばかり考えていた。

けれど、ティアナは何を見ていたのだろう。

何を感じ、何に苦しんでいたのだろう。

 

夕暮れの風が、髪をそっと揺らす。

 

(私は……)

 

自分の正しさを押しつけていただけだったのかもしれない。

 

そう思うと胸が痛んだ。

だが、不思議と絶望はなかった。

まだ終わっていない。

ティアナがどこかで生きている限り、自分にもできることがある。

そう思えたからだ。

 

「ここに来て……良かった」

 

小さく呟いた、その時だった。

ピピッ――。

乾いた電子音が、街の柔らかな空気を切り裂くように響く。

 

「なのはです」

 

『なのはさん!』

 

慌ただしいシャーリーの声が飛び込んできた。

 

『街中でレリックが発見されました!』

 

なのはの表情が引き締まる。

周囲の喧騒が一瞬遠のいたように感じられ、風の音さえ鋭く耳に届く。

 

「場所は?」

 

『今から座標を送ります!』

 

端末へ地図データが送信される。

だが、シャーリーの報告はそれだけでは終わらなかった。

 

『それと……もう一つ!』

 

どこか興奮を含んだ声。

 

『通報者は……ティアナです!』

 

「……えっ?」

 

思わず足が止まる。

石畳の上で靴音が途切れ、街の音が一瞬だけ遠くなる。

心臓が大きく跳ねた。

 

「ティアナが?」

 

『はい! 本人確認も取れています!』

 

『スバルさん達も、もう現場へ向かっています! なのはさんも急いでください!』

 

なのはは一瞬だけ目を閉じた。

夕暮れの光がまぶたの裏に滲み、橙色の残像が揺れる。

 

(生きてる…)

 

その事実だけで胸が熱くなる。

 

「スターズ1、了解!」

 

次の瞬間には、桜色の魔力光が街の空気を切り裂いた。

風が一気に巻き上がり、石畳の上の落ち葉が舞い上がる。

夕暮れの空へと溶けるように、なのはの姿は高く高く舞い上がっていった。

 

 

現場に到着したなのはを待っていたのは、規制線を張る局員達だった。

街の喧騒はここだけ切り取られたように静まり返り、張り詰めた空気が重く漂っている。

路地裏へ続く入口からは、冷たい地下風が時折吹き上がり、鉄と湿気の匂いを運んできた。

 

「スバル!」

 

「あっ、なのはさん!」

 

駆け寄ってきたスバルの表情は、どこか複雑だった。

汗と緊張でわずかに乱れた呼吸が、事態の緊迫を物語っている。

 

「ティアナは?」

 

その問いに、スバルは静かに首を横へ振る。

 

「私達が着いた時には、もういませんでした…」

 

「そう…」

 

肩を落とすなのは。

冷たい地下風が足元を撫で、嫌な静けさだけが残る。

 

せっかく会えると思ったのに。

あと一歩だった。

その落胆を見たスバルは慌てて続けた。

 

「でも、大丈夫です! シャーリーさんの話だと、元気そうだったみたいです! ちゃんと受け答えもしてたって!」

 

なのはは目を丸くした。

そして、小さく笑う。

 

「……うん、そうだね。しっかりしなくちゃ」

 

今は落ち込んでいる場合じゃない。

地下から吹き上がる風が、わずかに湿った冷気を含んで頬を撫でる。

ティアナは生きている。

それだけで十分だった。

その時、キャロがレリックケースを抱えて近づいてくる。

金属のケースは冷たく光を反射し、周囲の緊張をさらに引き締めていた。

 

「女の子が持っていたレリックは封印して回収しました。ですが……」

 

キャロは足元に置かれた鉄製の鎖へ目を向けた。

錆びた金属が、地下から吹き上がる風にかすかに揺れている。

 

「この鎖を見る限り、ケースはもう一つあったみたいです」

 

「もう一つ…」

 

フェイトが眉をひそめる。

エリオも周囲の暗い路地へ視線を走らせた。

 

「報告にあった路地裏を調べました。足跡や痕跡から判断すると…」

 

「女の子は下水道から出てきた可能性が高いです」

 

その言葉と同時に、地下から吹き上がる風が一段と冷たくなる。

 

「地下、か…」

 

なのはは小さく呟く。

空戦魔導師である自分にとって、最も戦いづらい場所。

光も届かず、音も歪む空間。

高速機動も。

長距離砲撃も。

十分には活かせない。

だが――。

 

(応用さえできれば…)

 

教会で聞いた言葉が頭をよぎる。

 

今までと同じやり方では、届かない。

状況に合わせて考え、変わらなければならない。

 

なのははレイジングハートを握り直した。

その金属の感触が、冷たい地下の空気と不思議に重なる。

 

「みんな」

 

その声にフォワード陣が一斉に振り向く。

地下へ続く入口からは、闇がじっとこちらを見返しているようだった。

湿った風が一度だけ強く吹き抜け、規制線のテープを揺らす。

 

「行くよ!」

 

「はい!!」

 

力強い返事が響く。

その声は狭い路地に反響し、やがて地下へと吸い込まれていく。

光の届かない階段へ、一歩。

二歩。

機動六課は、冷たい闇の中へと足を踏み入れた。

 

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