夕暮れの街。
ティアナは紙袋を抱え、石畳の道をゆっくりと歩いていた。
教会で頼まれた食材や日用品は一通り揃えた。
あとは帰るだけ。
それだけのはずだった。
「じゃあ、次はあっちの店に行こうぜ!」
「いいね! 今日は付き合うよ!」
通りの向こうから、若者達の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
友人同士で買い物へ向かう、ごくありふれた光景。
その何気ない日常が、不意にティアナの胸を締め付けた。
(兄さんが生きていたら…)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
夕暮れの光が、石畳に長い影を落としている。
その影の中に、かつての記憶が重なる。
――訓練帰りの道。
少し疲れた顔で、それでも優しく笑う兄。
『無理するなよ、ティアナ。お前は真面目すぎるからな』
頭を軽く小突かれた感触まで、妙に鮮明に蘇る。
あの手はもう、どこにもない。
呼べば返事をしてくれる声も、もうない。
(……どうして)
胸の奥で、言葉にならないものが渦を巻く。
兄が殉職していなければ、自分はどんな人生を歩んでいただろう。
家計を支えるために管理局へ入ることはあっても、執務官という重圧の道を選んだだろうか。
もっと違う選択肢が、あったのではないか。
『ティアナ、お前には普通の人生を歩んでほしい』
あの声が、記憶の中で静かに響く。
もし兄が生きていたなら、きっとそう言って反対しただろう。
一般職として働き、休日には兄と食事をして、他愛のない話で笑い合う。
そんな、ささやかで温かい未来。
それはもう、どこにも存在しない。
「……」
ティアナは小さく息を吐き、首を振った。
振り払うように。
忘れるように。
(もう終わったことだ)
そう言い聞かせる声は、どこか乾いていた。
今さら考えたところで、何も変わらない。
変えられない。
だからこそ、考えてはいけない。
一歩踏み出す。
その足取りは、わずかに重かった。
その時だった。
視界の端を、大きな金色の塊が横切った。
「えっ……?」
反射的に視線を向ける。
人。
まだ幼い少女だった。
4、5歳ほどだろうか。
長い金髪を揺らしながら、今にも糸の切れた人形のように、ふらふらと歩いている。
その姿が妙に現実感を欠いて見えた。
「ちょっ!?」
声を掛けるより早く、少女の身体は力を失ったように前へ崩れ落ちた。
「危ない!」
ティアナは紙袋を放り出し、ほとんど反射で駆け出していた。
膝をつき、倒れ込む少女を抱き起こす。
驚くほど軽い。
まるで体温ごと薄くなってしまったかのような軽さだった。
「大丈夫!? しっかり!」
頬に手を当てる。
冷たくはない。
熱もない。
呼吸も脈も正常。
外傷も見当たらない。
「気を失ってるだけ?」
安堵が一瞬だけ胸を緩める。
だが、その直後。
「……ん?」
かすかな金属音。
視線を落とす。
少女の足首には、重そうな鉄の枷。
その先には、銀色のケースが鎖で繋がれていた。
あまりにも不釣り合いで、あまりにも異様な光景。
(何……これ?)
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
恐る恐るケースへ手を伸ばす。
鍵は掛かっていない。
ゆっくりと蓋を開ける。
その瞬間、ティアナの呼吸が止まった。
「レリック…」
そこに収められていたものを見た瞬間、思考が一瞬だけ空白になる。
幾度となく追い続け、危険性を叩き込まれてきたロストロギア。
間違いようがない。
レリックだった。
「どうして……」
声が、かすかに震える。
少女とレリック。
そして足枷。
まるで“管理”されているかのような状況。
(逃がさないため?)
嫌な想像が、ゆっくりと形を持ちはじめる。
レリックは危険だ。
暴走すれば、周囲を巻き込み、多くの命を奪う。
それは理解している。
理解しているはずなのに。
ティアナの視線は、無意識に少女へ戻っていた。
小さな身体。
意識のない顔。
その姿が、なぜか兄の記憶と重なりかけて――
(違う)
ティアナは強く目を閉じた。
違う。
これは過去じゃない。
今、目の前で起きている現実だ。
「放ってはおけない…」
その言葉だけは、迷いなく心の中に落ちた。
ティアナは少女を壁際へそっと寄せかけると、周囲を見回す。
少し離れた場所に公衆電話が見えた。
「待ってて」
小さく呟く声は、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
電話へ駆け寄る。
受話器を取り、緊急回線へ繋ぐ。
『こちら時空管理局、地上本部です』
聞き慣れた声。
その瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
(また…繋がるんだ)
もう戻らないと決めた場所。
それでも、手は自然に動いている。
「レリックを発見しました」
一瞬、言葉が詰まる。
喉の奥に、別の感情が引っかかる。
それでもティアナは続けた。
「それと……保護が必要な少女が一人います」
受話器を握る手に力がこもる。
兄のいない世界。
誰も代わりにはならない世界。
その孤独は、今も消えていない。
それでも――。
目の前で倒れている小さな命を見捨てることはできない。
(私は……)
もう管理局の人間ではない。
そう決めたはずだ。
それでも、人を救うという選択だけは、まだ捨てられない。
それが、今のティアナ・ランスターだった。
◇
「本日は、ありがとうございました。」
告解室を出る前、なのはは静かに頭を下げた。
石造りの壁に囲まれた室内は、外の喧騒とは切り離されたように静かで、蝋燭の炎だけがゆらりと揺れている。
橙色の光が木の扉に柔らかく滲み、影を長く伸ばしていた。
「いいえ。少しでも、お力になれたのでしたら何よりです」
向こう側から穏やかな声が返ってくる。
「色々とお辛いでしょうが……どうか、気をしっかりお持ちください」
「……はい」
短く返事をすると、なのはは教会を後にした。
重い木扉が閉じると同時に、外の空気が一気に流れ込んでくる。
ひんやりとした風が頬を撫で、蝋燭の甘い匂いが背後へと遠ざかっていった。
◇
夕暮れの街並みを歩きながら、ふと空を見上げる。
石畳の道は夕陽を受けて赤銅色に染まり、建物の影が長く伸びて路地の奥へと沈んでいく。
遠くでは鐘の音が一度だけ鳴り、澄んだ空気の中にゆっくりと溶けていった。
今まで当たり前だと思っていたこと。
正しいと信じていたこと。
それらが、この数時間で少しだけ形を変えた気がしていた。
(子供は、大人が思っている以上によく見ている…)
教えることばかり考えていた。
強くすることばかり考えていた。
けれど、ティアナは何を見ていたのだろう。
何を感じ、何に苦しんでいたのだろう。
夕暮れの風が、髪をそっと揺らす。
(私は……)
自分の正しさを押しつけていただけだったのかもしれない。
そう思うと胸が痛んだ。
だが、不思議と絶望はなかった。
まだ終わっていない。
ティアナがどこかで生きている限り、自分にもできることがある。
そう思えたからだ。
「ここに来て……良かった」
小さく呟いた、その時だった。
ピピッ――。
乾いた電子音が、街の柔らかな空気を切り裂くように響く。
「なのはです」
『なのはさん!』
慌ただしいシャーリーの声が飛び込んできた。
『街中でレリックが発見されました!』
なのはの表情が引き締まる。
周囲の喧騒が一瞬遠のいたように感じられ、風の音さえ鋭く耳に届く。
「場所は?」
『今から座標を送ります!』
端末へ地図データが送信される。
だが、シャーリーの報告はそれだけでは終わらなかった。
『それと……もう一つ!』
どこか興奮を含んだ声。
『通報者は……ティアナです!』
「……えっ?」
思わず足が止まる。
石畳の上で靴音が途切れ、街の音が一瞬だけ遠くなる。
心臓が大きく跳ねた。
「ティアナが?」
『はい! 本人確認も取れています!』
『スバルさん達も、もう現場へ向かっています! なのはさんも急いでください!』
なのはは一瞬だけ目を閉じた。
夕暮れの光がまぶたの裏に滲み、橙色の残像が揺れる。
(生きてる…)
その事実だけで胸が熱くなる。
「スターズ1、了解!」
次の瞬間には、桜色の魔力光が街の空気を切り裂いた。
風が一気に巻き上がり、石畳の上の落ち葉が舞い上がる。
夕暮れの空へと溶けるように、なのはの姿は高く高く舞い上がっていった。
◇
現場に到着したなのはを待っていたのは、規制線を張る局員達だった。
街の喧騒はここだけ切り取られたように静まり返り、張り詰めた空気が重く漂っている。
路地裏へ続く入口からは、冷たい地下風が時折吹き上がり、鉄と湿気の匂いを運んできた。
「スバル!」
「あっ、なのはさん!」
駆け寄ってきたスバルの表情は、どこか複雑だった。
汗と緊張でわずかに乱れた呼吸が、事態の緊迫を物語っている。
「ティアナは?」
その問いに、スバルは静かに首を横へ振る。
「私達が着いた時には、もういませんでした…」
「そう…」
肩を落とすなのは。
冷たい地下風が足元を撫で、嫌な静けさだけが残る。
せっかく会えると思ったのに。
あと一歩だった。
その落胆を見たスバルは慌てて続けた。
「でも、大丈夫です! シャーリーさんの話だと、元気そうだったみたいです! ちゃんと受け答えもしてたって!」
なのはは目を丸くした。
そして、小さく笑う。
「……うん、そうだね。しっかりしなくちゃ」
今は落ち込んでいる場合じゃない。
地下から吹き上がる風が、わずかに湿った冷気を含んで頬を撫でる。
ティアナは生きている。
それだけで十分だった。
その時、キャロがレリックケースを抱えて近づいてくる。
金属のケースは冷たく光を反射し、周囲の緊張をさらに引き締めていた。
「女の子が持っていたレリックは封印して回収しました。ですが……」
キャロは足元に置かれた鉄製の鎖へ目を向けた。
錆びた金属が、地下から吹き上がる風にかすかに揺れている。
「この鎖を見る限り、ケースはもう一つあったみたいです」
「もう一つ…」
フェイトが眉をひそめる。
エリオも周囲の暗い路地へ視線を走らせた。
「報告にあった路地裏を調べました。足跡や痕跡から判断すると…」
「女の子は下水道から出てきた可能性が高いです」
その言葉と同時に、地下から吹き上がる風が一段と冷たくなる。
「地下、か…」
なのはは小さく呟く。
空戦魔導師である自分にとって、最も戦いづらい場所。
光も届かず、音も歪む空間。
高速機動も。
長距離砲撃も。
十分には活かせない。
だが――。
(応用さえできれば…)
教会で聞いた言葉が頭をよぎる。
今までと同じやり方では、届かない。
状況に合わせて考え、変わらなければならない。
なのははレイジングハートを握り直した。
その金属の感触が、冷たい地下の空気と不思議に重なる。
「みんな」
その声にフォワード陣が一斉に振り向く。
地下へ続く入口からは、闇がじっとこちらを見返しているようだった。
湿った風が一度だけ強く吹き抜け、規制線のテープを揺らす。
「行くよ!」
「はい!!」
力強い返事が響く。
その声は狭い路地に反響し、やがて地下へと吸い込まれていく。
光の届かない階段へ、一歩。
二歩。
機動六課は、冷たい闇の中へと足を踏み入れた。