時は2年前に遡り…
2022年7月11日、桜町・とあるアパートの一室。
すこやか市や山口県、そしてシンガポールで巻き起こる不条理な惨劇の裏で、桜町という静かな街にもまた、世界の理不尽な「記録」を追うひとりの少女がいた。
星ノ川はるか。
後にこの街を去り、新たな運命へと踏み出す前の彼女は、当時ニュースサイトの若手記者として、膨大な事件や事故の資料と向き合う日々を送っていた。
夕暮れ時の室内には、印刷されたばかりの紙の匂いとインクの香りが充満している。
はるかは、手際よくプリントアウトされたニュース記事の原稿を揃えると、重厚な金属製バインダーのリングを開き、一枚一枚丁寧に綴じ込んでいった。
パチン、とバインダーが閉じる乾いた音が静寂に響く。
彼女が今、綴じ終えたばかりの記事の見出しには、黒々と太い文字でこう記されていた。
【モスクワスモッグ、1952年7月12日〜12月29日から明日で70年。その6日間、12412人が死亡しました】
はるかは、バインダーの表面をそっと指先で撫でながら、その不気味な数字を静かに見つめた。
記事の本文には、70年前の旧ソ連・モスクワで発生したとされる伝説的かつ異常な公害・環境惨劇の詳細が綴られていた。
わずか6日間という短期間のうちに、街を覆い尽くした濃霧と有害物質によって、実に1万2412人もの人命が一瞬にして奪い去られたという大惨事の記録。
(1万2412人……。たったの6日間で、これほど多くの命が消えてしまうなんて……)
はるかは深々と息を吐き出し、胸の奥に広がる名付けようのない違和感に眉をひそめた。
世界中で時折発生する、常識や確率論では到底説明のつかない大規模な致死事象。
ロンドンの惨劇、モスクワの死の霧、そして現代の日本や世界各地で頻発する不自然な爆発事故や突発的な致死事故——。
まるで歴史の裏側に、人間には到底制御できない、冷酷で機械的な「数字の消化(プログラム)」が存在しているかのような錯覚。
「……明日で、ちょうど70年か」
はるかは窓の外を見やった。桜町の街並みには夕闇が迫り、ポツポツと街灯が灯り始めている。
自分が追っているこの記事も、そしてこれからどこかで起きるかもしれない新たなニュースも、すべては世界という巨大な何かが刻む「記録」の一部に過ぎないのかもしれない。
バインダーを大切に抱え直し、星ノ川はるかは明日公開される予定のWeb記事の最終チェックに入る。
すこやか市で「システムは止められない」と悟り、虚無の淵に立つ花寺アリス。
はなみちタウンで孤立した時間の記憶を抱える明智あんな。
そして桜町で過去の凄惨な記録を綴じる星ノ川はるか。
世界の理不尽な構造(システム)は、誰に知られることもなく、冷酷にそのカウントダウンを刻み続けていたのだった。
2024年・春、すこやか市・高度先進医療研究センター前。
高専を優秀な成績で卒業した花寺アリスは、兼ねてからの目標であった「高度先進医療研究センター」へと就職を果たした。
21歳となった彼女は、白衣を身に纏い、臨床と先端生体工学の研究を並行して進める新進気鋭の研究員としての一歩を踏み出していた。腰まで滑らかに伸びた鮮やかなホットピンクのロングヘアを後ろで一つに束ね、深く澄んだ同じ色の瞳には、依然として「世界の理不尽なシステムを書き換える」という苛烈な志が宿っていた。
だが、運命はどこまでも冷酷だった。
アリスが研修を終え、センターの敷地外へと出たその直後のことである。
——ズドォォォォンッ!!!!
地響きとともに、研究センターの隣に位置するエネルギープラントの実験棟から、耳を裂くような爆発音が轟いた。爆風が街路樹をなぎ倒し、黒煙と激しい炎が春の青空を黒く染め上げていく。
「また……!? そんな……!」
アリスは反射的に駆け出した。
高専の5年間で積み上げた圧倒的な医療知識、救急対応の経験、そして生体工学の理論。彼女は白衣を風にはためかせながら、目の前で起きている惨劇を止めるため、崩落しかけた建物へと足を踏み入れようとした。
しかし、その腕を、すれ違いざまにそっと掴む小さな手があった。
「……もう、やめて……アリスちゃん」
振り向いたアリスの視界に入ってきたのは、偶然その場に居合わせていた明智あんなだった。
はなみちタウンで静かに暮らしていたはずの彼女。1999年に置き去りにされた名探偵の記憶と、2011年に体験したあの紫とピンクの神秘的な髪の変貌の記憶を抱えた少女。
あんなの瞳には、幾多の時空を超えて「抗えぬ運命の重み」を見続けてきた者だけが持つ、深く切ない諦念の色が浮かんでいた。
あんな「ごめんね……。私の力でも、あなたの力でも、このシステムは止まらないみたい……」
激しい炎と煙の照り返しの中で、あんなは哀しげに首を振った。その声は、爆発音の喧騒を通り抜け、アリスの心臓を直接締め付けるように響く。
あんな「私たちがどれだけ過去を変えようとしても、どんなに知識を蓄えて手を伸ばしても……この世界を動かしている仕組み(システム)からしたら、まるで無視されているみたいなものなの……。最初から、私たちの声なんて届いていないのと同じなんだよ……」
「無視……されている……?」
アリスの動きが、ピタリと止まった。
脳裏をよぎる、これまでの凄惨な記憶の数々。
2021年5月21日、冷たい雨の中で途絶えた最初の命。
夢の中で突きつけられた不吉なコード『20210522EE』。
シンガポールで巻き込まれた爆発と、失われた95の命。
山口県の病院で起きた、確率論を超えた不条理なMRI事故。
そして、2022年3月31日、目の前で手を尽くしながらも救えなかった4人の命。
どんなに過去問を解き明かしても。
どんなに高専で最高峰の知性を身につけても。
どんなに目の前で必死に手を伸ばしても。
システムはアリスの努力を拒絶すらしていない。ただ「存在しないもの」として冷酷に、それを無視してあらかじめ決められた死と破滅のプログラムを無感情に実行し続けているだけなのだ。
あんなの言っている「システムは無視している」ということは正しかった。
アリスの全身から、すっと力が抜けていく。
ついに、彼女は理解してしまった。
世界という巨大で絶対的な構造の前では、一個人の圧倒的な知性も、どれほど強い執念も、システムそのものを停止させる歯車にはなり得ないということを。
アリス「システムは……止まらない……」
乾いた唇から漏れ出たのは、絞り出すような絶望の呟きだった。
立ち昇る黒煙と激しい炎の中で、腰まで届く鮮やかなホットピンクの髪が、虚無の風に力なく揺れる。
世界の理不尽な破滅のシステムを前に、花寺アリスは「絶対的な不都合の真実」を、あまりにも残酷な形で悟らされたのだった。
2024年・春、すこやか市・高度先進医療研究センター前。
立ち昇る黒煙と激しい炎。その前に佇むアリスとあんなの頭上を、遠くの街頭スピーカーから流れる夕方5時のチャイムがむなしく通り抜けていく。
「システムは……止められない……」
アリスの手から、手持ちの救急キットが力なく滑り落ち、アスファルトの上で乾いた音を立てた。
高専での5年間、彼女は誰よりも学び、誰よりも研鑽を積んできた。
偏差値71の壁を突破した15歳のあの日から、生体工学と最先端医学の知識を蓄え、命を救うための「絶対的な知性」を手に入れたはずだった。
だが、目の前で燃えあがる惨劇は、そんな彼女の努力や存在すらも「認識していない」かのように、ただ機械的に破壊と死を撒き散らしている。
あんなは、アリスの震える肩にそっと手を置いた。
あんな「私ね……1999年にあの場所に取り残されたときから、ずっと考えてたの。なんで私たちは、こんな変えられない運命の記憶を持たされているんだろうって」
あんなの視線は、遠い過去——薄い茶色の髪が神秘的な紫とピンクの光に包まれ、毛先がハート型の超ロングツインテールへと変貌したあの「2011年」の歪んだ時空へと向けられていた。
あんな「世界っていう巨大なプログラムにとって、私たちはただの『観察者』でしかないのかもしれない。運命の筋書きをどんなに先回りして知ったとしても、書き換えるペンを持たせてもらえていないの……」
「観察者……」
アリスは白衣のポケットの中で、固く拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。
(私は……ただ指をくわえて、人が消えていくのを見ているためだけに、一度死んで、もう一度生まれたっていうの……!?)
脳裏に巡る、かけがえのない人々の顔。
夕暮れの歩道橋で「アリスちゃんはカッコいいよ」と笑ってくれた、かつての自分である「のどか」。
一緒にカフェでニュースを見上げ、恐怖に耐えながら自分を信じてくれたちゆ、ひなた、アスミ。
そして、2026年の不吉な暗号の影。
アリスは深く、深く息を吐き出した。
ホットピンクの瞳から絶望の色が消え、代わりに底知れぬ静かな暗火(あんか)が宿り始める。
アリス「……いいえ、違うわ」
あんな「え……?」
アリスは滑り落ちた救急キットを拾い上げ、腰まで届く鮮やかな髪をなびかせて力強く立ち上がった。
アリス「システムが私を無視しようと……存在しないものとして処理しようと……関係ない。相手にしてくれないなら、相手にせざるを得ないところまで……この世界の『構造の底』に干渉するだけ」
「システムは止まらない」という冷酷な現実。
それを悟ったからこそ、アリスの戦いは「個人の命を救う医学」の域を超え、「世界そのものを記述するロジックとの対峙」へと昇華した。
2024年、春。
世界の破滅のカウントダウンが着々と進む中、絶望の先にある真の覚悟を固めた花寺アリスは、静かに、しかし絶対の意思を持って歩みを進め始める。
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