ここから先は、キャラクターの死に関するショッキングな表現が含まれます。このような描写が苦手な方は閲覧をご遠慮ください!
第-7話「何もできなかった」(ショッキングな表現注意!)
2021年5月21日、すこやか市・夕暮れの街角。
——世界を呑み込む大洪水が地球を襲う、わずか前日のこと。
黒く重い雲が空を覆い尽くし、街全体に気味の悪い静寂と圧迫感が立ち込めていた。
「ハァ……ハァ……っ!」
激しく息を乱しながら、花寺のどかは必死で自転車のペダルをこぎ続けていた。
頭の中を駆け巡るのは、胸を突き刺すような胸騒ぎと、逃れられない予感。
明日、この世界に恐ろしい何かが起きる。街が、みんなが、大変なことになる——。
迫り来る正体不明の絶望に対し、彼女の心は完全にパニックに陥っていた。
(早く……みんなに知らせなきゃ……! でも、どうすれば……!?)
視界が恐怖と焦りで歪む。
ハンドルを握る手は激しく震え、周囲の状況を確かめる余裕など、今ののどかには微塵も残されていませんでした。
そして、見通しの悪い交差点へと差し掛かった、その時。
——キキィィィィィッ!!!
耳を刺すような甲高いタイヤの摩擦音が、夕闇の街に響き渡る。
「え——」
のどかが横を向いた瞬間には、すでに遅すぎた。
視界を覆い尽くす巨大なヘッドライトの光。
鈍い衝撃音とともに、のどかの身体は自転車ごと激しく弾き飛ばされ、アスファルトの上へと力なく転がった。
「がハッ…………っ」
衝撃で全身の骨がきしむ。出血は僅かであったものの、その身に受けた衝撃はあまりにも大きく、のどかの生命力を容赦なく奪っていく致命傷となっていた。
視界がぐにゃりと歪み、急速に光が失われていく。
空からポツリ、ポツリと冷たい雨の粒が落ちてきて、彼女の頬を濡らした。
明日、世界を沈める惨劇の雨が降る——。
「そんな……世界が……みんなが……っ……」
最後に残された力を振り絞り、届かぬ手を空へとかざしながら、のどかの意識は深く重い暗闇へと落ちていく…。
すこやか市・交差点。
薄暗い夕闇のなか、雨脚がしとしとと強まり始めるアスファルトの上。
横転した自転車の車輪が、キーキーと寂しい音を立てながら虚しく回転を続けていた。
「おい! 大丈夫か!! 返事をしてくれ!」
「警察と救急! 早く119番して!!」
事故を起こしたドライバーの悲痛な叫びと、集まってきた通行人たちの混乱した声が入り交じる。現場の緊迫した空気の中、震える手でスマートフォンを操作した通行人が、必死の思いで通報のボタンを押した。
『はい、119番消防庁です。火事ですか、救急ですか?』
「き、救急です! 交差点で女の子が車と衝突しました! 意識がありません、早く来てください!!」
通報からわずか数分後。冷たい雨を切り裂くように、赤色灯の赤光を夜空に揺らめかせながら、サイレンの音が遠くから急速に接近してくる。
ピーポー、ピーポー、ピーポー……。
「救命士到着! 意識障害あり、脈拍微弱! 急性ショック状態です!」
「車内へ搬入急いで! 市立病院へ搬送連絡、受入要請を出してくれ!」
駆けつけた救命隊員たちによって、のどかの身体は素早くストレッチャーへと移され、救急車の後部へと運び込まれた。ドアが勢いよく閉ざされ、サイレンの音が再び街中に響き渡る。
雨煙に霞む街並みを抜け、病院へと急降下するように疾走する救急車の中。
酸素マスクを装着され、心電図の電子音が規則正しく、しかし弱々しく鳴り響く狭い室内で、のどかの意識は冷たい暗闇の底を漂っていた。
(あたたかい……なにかが、うばわれていく……)
遠ざかる意識のなかで、のどかの脳裏をよぎるのは、自分自身の命の危機ではなかった。
明日、この世界を包み込もうとしている、あまりにも巨大で容赦のない「大洪水」の影。
(だめ……わたし……まだ……みんなに……伝えてないのに……)
心電図の波形が小さく揺れ、生命の灯火が消えかかろうとするなかでも、彼女の心には世界を襲う破滅への絶望的な恐怖と、届かなかった想いへの痛切な未練が深く刻まれ続けていた。
そして、世界が水底へと沈む運命の「前日」の夜は、救急車のサイレンの音を飲み込みながら、静かに、そして冷酷に更けていくのだった。
2021年5月22日・深夜、すこやか市立病院・ICU。
ピッ……ピッ……ピッ……
静まり返る集中治療室に、心電図の電子音が重たく響いていた。
医師や看護師たちの必死の救命措置が続けられる中、容態は急変する。心電図の波形が急速に平坦へと近づき、けたたましいアラーム音が室内に鳴り響いた。
ピーーーーーーーーーー……
「心肺停止です……死亡確認、深夜2時14分」
静かに告げられた現実。のどかの命の灯火は、世界を沈める大洪水の朝を迎えることなく、虚しくも消えてしまった。
病室の廊下で待機していた沢泉ちゆ、平光ひなた、そして風鈴アスミ。
扉が開き、医師の重い首振りと共に告げられた報せに、3人は言葉を失い、その場に崩れ落ちた。
「嘘……嘘でしょ、のどか……っ! 目を覚ましてよ!!」
「のどかちゃん!! 嫌だ、嫌だよぉぉぉっ!!」
絶叫と悲痛な泣き声が、冷たい病院の廊下に虚しくこだまする。明日訪れる世界の破滅を前に、彼女たちはあまりにも早すぎる最愛の友との永遠の別れに打ちひしがれることしかできなかった。
——そして、時を超えて。
花寺アリス
『これは、私が「花寺のどか」だった時、致命傷を負って命を落としてしまった出来事……。』
『世界が水に沈む前夜の激しい恐怖、届かなかった叫び、そしてみんなの泣き声……。』
『生まれ変わった今も、私はあの日散っていった希望の記憶を、鮮明に覚えている』
深淵の水世界、絶対零度の虚無空間。
意識が潰え、心臓の鼓動が完全に途絶えた瞬間——花寺のどかの魂は、暗く、どこまでも冷たい水の深淵へと引きずり込まれていった。
そこは、上下も左右も存在しない、見渡す限り澄み切った水で満たされた謎の異空間。
呼吸の苦しさはなく、身体は重力から解き放たれ、ただ蒼い光の微粒子が漂う水底へと静かに沈んでいく。
(ここは……どこ……? 私は……死んでしまったの……?)
水面も底も見えない静寂の渦中で、のどかの脳裏に鮮烈な光を放って浮かび上がったのは、かつてひかるがその手で引き寄せた、あの一枚の「予言の紙」だった。
そこに冷酷なインクで刻まれていた不吉な数字——『202105211-1』。
「2021年5月21日」という、のどかが命を落とした日時の末尾に付された、謎の「-1」。
その意味が、空間に満ちる水圧のように、彼女の魂へと直接理解として流れ込んでくる。
ハイフンの後ろに刻まれたマイナスの数字。それは犠牲の記録ではなく、破滅のシステムによって強制的に次元を歪められ、異空間へと弾き飛ばされて「転生」を余儀なくされる命の個体数を示していたのだ。
命がひとつ、世界から抹消され、新たな器へと再配置される。
絶望的な孤独と寒気に身を震わせるのどかのアニマ(魂)の耳元で、突如として空間そのものが振動するかのような、抑揚のない無機質な「声」が頭の中に直接響き渡った。
『花寺のどか——』
水の波動が耳朶を揺らす。
『汝の現世における肉体は途絶えた。しかしてシステムは汝の魂を消滅せしめず、因果の渦へと再配置する。』
『汝は2003年へと遡り、新たなる命——「花寺アリス」として転生を果たす。』
のどか「2003年……? 私が……花寺アリス……?」
『……幸いなことに、今回の事象において汝の記憶は消去されず、そのまま保持される。かつての悲劇、世界の惨劇、そして散っていった命の全てを宿したまま、次なる時空を生きてゆくがいい——』
「待ってください! みんなは……すこやか市は……明日訪れる大洪水はどうなってしまうんですか!?」
声の主へ届かぬ叫びを上げようとしたが、言葉は水の気泡となって虚空へ消えていく。
無機質な声は二度と答えることなく、ただ深く、冷たく重い光の旋律がのどかの意識を包み込んでいった。
過去へ、過去へ——。
時空の裂け目を超えて、魂が過去の年代へと激しく引き戻されていく感覚。
花寺アリス
『こうして、私の最初の人生……「花寺のどか」としての時間は終わりを告げました。』
『記憶を残したまま、18年もの時を遡り、2003年の世界で「花寺アリス」として生まれ変わることになった私。』
『しかし……この記憶を持って生まれ変わることが、さらなる長き抗いと、終わりのない惨劇の引き金になることを、当時の私はまだ知る由もなかったのです——』
2003年、すこやか市立病院・産科病棟。
赤ん坊の元気な産声が、静かな陣痛室に響き渡った。
「うわぁぁぁん! うわぁぁぁん!」
「おめでとうございます! 元気な女の子ですよ!」
助産師の手によって大切に抱き上げられた生まれたての赤ん坊。
その頭には、生まれた瞬間から鮮やかなホットピンク色の柔らかい産毛が輝いていた。
温かいタオルで優しく体を拭われ、ゆっくりと瞼が開かれる。
そこに現れたのは、髪色と同じように深く美しいホットピンクの瞳だった。
まるでキュアグレースとしての面影をそのまま宿して生まれてきたかのようなその姿に、我が子を抱きかかえた母親である明日菜は驚きつつも、溢れ出る愛おしさに瞳を潤ませた。
花寺明日菜「なんて綺麗で、可愛い髪と目……まるで奇跡みたい……」
母親の温かい腕の中で、赤ん坊——花寺アリスは、じっとその瞳で世界の光を見つめていた。
その目の奥には、かつて花寺のどかとして生きた記憶、前夜の凄惨な事故の衝撃、そして深淵の水世界で聞いた冷酷な声の響きが、確かな火種となって静かに受け継がれていた。
2003年。
過去の記憶を宿したまま、新たな命「花寺アリス」としての時間が、今ここに動き始めた。
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