2017年7月25日・深夜、花寺家・アリスの部屋。
昼間に「かつての自分」である花寺のどかと対峙した余韻が、胸の奥で重く冷たく渦巻いていた。
自室のベッドに横たわったアリスは、天井を見つめたまま静かに瞳を閉じた。
腰まで伸びたホットピンクの髪が枕の上に広がり、部屋を包む暗闇の中で微かな光を放っているかのように見えた。
——その夜、彼女は深く、逃れられない真夜中の夢の中へと引きずり込まれていった。
2021年5月22日・朝、夢の中・すこやか市。
目を開けると、そこは絶絶たる破滅の渦中だった。
「ここは……2021年……5月22日……?」
もしもあの日、自分が車との接触事故で命を落とさず、そのまま運命の翌日を迎えていたとしたら——という「存在し得なかったIFの現実」が、容赦ない圧倒的な臨場感をもってアリスの視界を覆い尽くしていた。
空は不気味な赤黒い雲に覆われ、地平線の彼方から押し寄せるのは、街全体を呑み込むあまりにも巨大な漆黒の濁流と、世界そのものを削り取るような暴風雨。
すこやか市の街並みは見る影もなく破壊され、濁濁とした水底へと沈んでいく。
ちゆの叫び声、ひなたの悲鳴、アスミの悲痛な祈り……それら全てが、圧倒的な自然の威容とシステムの破壊音にかき消されていく。
(誰も……逃げられない……!?)
アリスは必死に手を伸ばそうとした。しかし、彼女の身体は幽体のようにその場に固定され、指一本動かすことすら許されない。
その時、荒れ狂う水面と破滅の空の境界線に、巨大で無機質な文字が、血のような赤色で鮮明に浮かび上がった。
世界の理を支配する、冷酷なる予言のコード——。
『20210522EE』
アリスの脳裏に、その暗号の意味が直接突き刺さる。
末尾に刻まれた「EE」の文字。
それは——『Everyone Else(それ以外のすべての人々)』。
2021年5月21日、花寺のどかというひとつの命が途絶えたことを示す「-1(マイナスワン)」。
だが、もしその命が消えず、翌日5月22日を迎えていたならば、このシステムが発動し、残された「すべての人々(Everyone Else)」が逃れられない絶望の底へと引きずり降ろされていたことを意味していた。
一人の少女の死が、世界の崩壊をわずかにずらし、歪んだ均衡を保っていたという残酷すぎる真実。
(私の死すらも……組み込まれていたというの……!?)
「嫌……嫌ぁぁぁぁぁっ!!」
濁流がすべてを呑み込み、世界が完全な無へと還っていく暗闇の中で、アリスの叫び声だけが虚しく響き渡った。
2017年7月26日・早朝、花寺家・アリスの部屋。
「ハッ……! ガハッ……っ!」
激しい呼吸と共に、アリスは跳ね起きるように目を覚ました。
全身を冷や汗が濡らし、胸が壊れた時計のように激しく脈打っている。
窓の外からは、薄く明るい夏の朝の光が差し込んでいた。
アリスは震える手を持ち上げ、自らの顔を覆った。
(20210522EE……。私の死も、私の転生も、誰かの犠牲も……すべてはあの冷酷なシステムが描いたシナリオの上だったというの……?)
ベッドの脇、机の上には昨日解いたばかりの「難関高専レベル模擬試験」の解答用紙が置かれている。偏差値70を超え、合格可能性90%を叩き出した努力の結晶。
しかし、世界のシステムが突きつけてくる絶望のスケールは、人間の知性や努力の限界を嘲笑うかのように巨大だった。
アリスはゆっくりとベッドから起き上がり、鏡の前に立った。
鏡の中に映るのは、生まれつき鮮やかなホットピンクの髪と瞳を持つ、14歳の自分。
「……でも、絶対に諦めない」
手に力込め、鏡の中の自分を真っ直ぐに見つめ返す。
「私がのどかだった時の悲劇も、2021年5月22日に訪れるはずだった絶対的な破滅も……全部知っているのは、私だけ。記憶を持って2003年に生まれ変わった意味は、絶対にそこにあるはずだから」
運命の糸がどれほど緻密に絡み合っていようとも、予言のコードがどれほど絶望を刻んでいようとも。
花寺アリスは、自らの手で未来のシナリオを塗り替えるため、静かに、そして苛烈な決意を胸に立ち上がるのだった。
2017年・春、花寺家・リビング。
中学2年生となり、新学期を迎えたアリスの快進撃は止まらなかった。
新学年最初の定期テストの返却日。テーブルの上に並べられた5教科のテスト用紙には、赤ペンで大きく書き込まれた「100」の数字が壮観に並んでいた。
国語:100点
数学:100点
英語:100点
理科:100点
社会:100点
5教科合計、500点満点。
学年が上がり、問題の難易度が一段と増したにもかかわらず、アリスは完璧な全問正解という圧倒的な結果を再び叩き出したのだ。
母・明日菜「また500点満点……! アリス、学年が上がっても一歩も緩めないなんて、本当によく頑張っているわね……!」
父・和哉「中学1年の最後から連続での満点か……。偏差値71の難関高専医学部へ向けて、まさに有言実行だな」
両親の驚嘆と称賛の声に、アリスは静かに微笑みを返した。
だが、そのホットピンクの瞳の奥に宿る炎は、ただの満点という結果に満足してなどいなかった。あの夜見た不吉な予言の暗号『20210522EE』の恐怖、そして世界のシステムがもたらす圧倒的な破滅の記憶。
(500点は通過点に過ぎない。どんな理不尽な運命やシステムが立ち塞がろうとも、それを打ち破るための圧倒的な知性と力を、私は絶対に手に入れてみせる)
腰まで伸びた鮮やかな髪を風になびかせ、花寺アリスは妥協なき努力の道を、どこまでも力強く突き進んでいくのだった。
2017年7月29日、国立すこやか市高等専門学校・キャンパス。
真夏の眩しい日差しが照りつける7月29日。蝉時雨がキャンパス全体に降り注ぐ中、中学2年生になった花寺アリスは、早くも第一志望である「国立すこやか市高等専門学校」の夏季オープンキャンパス(学校説明会)の敷地を踏んでいた。
重厚な赤レンガ造りの校舎と、最新の先端医療機器が並ぶ医学部棟。
偏差値71という全国屈指の難関を誇るこの高専は、将来の医療界を担う高度な技術者と医師を育成するための特別なカリキュラムが組まれており、集まった中学生やその保護者たちの表情には一様に強い緊張感が漂っていた。
そんな混雑するキャンパスの中で、アリスの存在は圧倒的な異彩を放っていた。
腰近くまで美しく伸ばされた、生まれつきの鮮やかなホットピンクのロングヘア。そして、夏の陽光を反射して深く澄んだ輝きを放つ同じ色の瞳。すれ違う参加者や在校生たちが思わず足を止め、振り返ってしまうほどの凛としたオーラを纏い、彼女は迷いのない足取りで医学部棟のメインホールへと進んでいった。
ホールで開催された全体説明会では、高専ならではの5年一貫教育の強みや、早期からの臨床実習、そして高度な病理研究の取り組みについて詳細な解説がなされた。
「我が校の医学部コースでは、通常の中学レベルの知識はもちろんのこと、入学直後から最先端の生体工学および高度な医学知識をたたき込みます。生半可な覚悟ではついてこられません」
教授陣の厳しい言葉に周囲の中学生たちが呑まれる中、アリスは最前列近くの席で、静かに、しかし一言一言を脳裏に刻み込むように耳を傾けていた。
アリス「(生半可な覚悟……。そんなものは、最初から投げ捨てている。私が目指すのは、ただの進学じゃない。この手で、決まった破滅のシナリオを塗り替えるための力を手に入れることなんだから)」
説明会後の質疑応答の時間になると、アリスは堂々と挙手し、中学生とは思えない深く踏み込んだ質問を投げかけた。
アリス「失礼いたします。貴校の早期研究プログラムにおいて、遺伝子解析や原因不明の急性感染症に対する緊急医療アプローチの実習は、低学年の段階でどこまで深く関わることができますか?」
その理路整然とした問いかけと、14歳とは思えぬ眼光の強さに、壇上の教授陣も驚きを隠せない様子で目を見開いた。
「素晴らしい着眼点ですね……。本校では2年次から研究室への出入りが許可され、希望者には実際の病理解析データに触れてもらいます。君のような意志の強い学生の挑戦を、我々は心から歓迎しますよ」
説明会が終わった後、アリスは一人、医学部棟の中庭にあるベンチに腰掛け、配布された分厚いパンフレットを開いた。
ページをめくる指先に力が入る。
頭の中に過ぎるのは、かつて自分が命を落としたあの冷たい雨の夜。
そして、夢の中で突きつけられた冷酷な予言の暗号『20210522EE』。
もしも運命があらかじめ決められており、世界のシステムが絶望的な犠牲を要求してくるのだとしたら——自分はそのシステムの上を行く知識と、どんな惨劇からも命を繋ぎ止める絶対的な医療技術を手に入れなければならない。
アリス「見ていて……のどかちゃん。そして、この世界のすべての人たち。私は絶対に、この高専の門を叩いて、命を奪うだけのシステムに勝ってみせるから」
夏の青空を見上げるアリスの風にはためくホットピンクの髪は、これから先訪れるかもしれない苛烈な運命と戦うための、希望の旗じるしのように鮮やかに輝いている。
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