その日、葬儀が終わったのちの昼間。
いちご坂にある自室のベッドの上で、宇佐美えみりは苦しそうに荒い息を吐き、額に大量の汗を浮かべながら何度も寝返りを打っていた。24歳となった彼女の頭上には、かつてのキュアホイップを彷彿とさせる鮮やかな特徴的な髪が散らばり、悪夢の重圧に押し潰されそうになりながらも、その深い意識の底から這い上がることができずにいた。
現実のえみりは、まだ目を覚まさない。
――えみりの精神を苛み続けるその悪夢の世界。
日付は、2023年5月11日。本来の予定よりも5ヶ月という異例の早さで突貫工事が完了し、異様な威容を誇ってそびえ立つアメリカの最新イベント施設『NEW YORK WIRE』。地上409メートルという果てしない高さを誇るそのタワーの麓へ向かって、一台の高級セダンが滑らかに走っていた。
車体に刻まれているのは、タワーを運営する大手レジャー施設運営会社『Nylon Incremental(株式会社ナイロン)』のロゴマークと、その冷徹なまでに完成されたキャッチコピー――"Make People Entertain Forever."(人々に永遠の娯楽を)。
車内には、その会社から支給された特別車両に乗るえみり(Emiri)と、彼女の交際相手であるブライアン(Brian)の姿があった。
高層建築の威圧感と、突き抜けるような高さを見上げるにつれ、えみりの顔色は蒼白になり、細い指先がシートベルトをきつく握りしめる。
Emiri: "Brian... look at that tower. It's way too high. You know how terrified I am of heights... My heart is pounding so fast, I feel like I can't breathe."
(ブライアン……あのタワーを見て。高すぎるよ。私、高所恐怖症だって知ってるでしょう……? 心臓がバクバク鳴って、息がうまくできないよ……)
助手席で小さく震えるえみりに気づいたブライアンは、運転席から穏やかな笑みを向け、彼女の冷たくなった手を優しく包み込んだ。
Brian: "Hey, take a deep breath, Emiri. Look at me. You don't have to worry about a thing. Nylon Incremental built this facility with the absolute state-of-the-art engineering. It’s completely safe. I’m right here beside you, okay?"
(深呼吸して、えみり。僕を見て。何も心配することはないよ。ナイロン社は最新の工学技術でこの施設を建てたんだ。絶対に安全さ。僕がずっと隣にいるからね、大丈夫だよ?)
Emiri: "Really...? You promise we'll be okay up there?"
(本当に……? 上に行っても、絶対に大丈夫だって約束してくれる……?)
Brian: "I promise you, with all my heart. As long as I'm with you, nothing bad is going to happen. Just trust me."
(心から約束するよ。僕が一緒にいる限り、悪いことなんて何も起こらないさ。僕を信じて)
ブライアンの温かい言葉と確信に満ちた視線に触れ、えみりは固くなっていた身体の力を少しだけ抜き、小さく息を吐き出した。
Emiri: "Thank you, Brian... Hearing you say that makes me feel a little better. I trust you."
(ありがとう、ブライアン……あなたがそう言ってくれると、少し心が落ち着くよ。あなたを信じるね)
ブライアンの助言によって束の間の安らぎを得たえみり。しかし、彼女の無意識の奥底は知っていた。このあとに訪れる惨劇を。
地上409メートルの巨大タワー。一人の男の子がいたずら半分で池から拾い、無造作に投げつけた一瞬のコイン。それが引き金となり、圧倒的な構造体が一瞬にして倒壊し、地獄の瓦礫と化す未来を。そして、その未曾有の大惨事の中で、ブライアンと自分だけしか階段を降りて無傷で生き延びることができないという、残酷なシステムの帰結を。
「NEW YORK WIRE」の駐車場へと車が滑り込んでいく。
地下駐車場へと続く緩やかなスロープを降りると、そこにはひんやりとした冷気と薄暗いコンクリートの空間が広がっていた。
エンジン音が低く反響する広いフロアには、すでに26台ほどの車が整然と駐車されている。高級セダンから大型SUV、家族連れのワンボックスカーまで、色も形も様々な車両が幾重にも並び、それぞれがこれから始まるイベントへの高揚感を静かに包み込んでいた。
ブライアンは手際よくハンドルを切り、指定されたパーキングスペースへと車を滑り込ませた。パーキングブレーキを引くカチリという小さな音が、静まり返った車内に響く。
Brian: "Here we are, Emiri. Parked and ready. See? Plenty of people are already here. Nothing to be afraid of."
(着いたよ、えみり。駐車完了だ。ほら見て、もうたくさんの人が来ているよ。何も怖いことなんてないさ)
えみりは窓の外に並ぶ車列を見つめ、少しだけ強張っていた肩の力を抜こうと深く息を吐き出した。
Emiri: "Predictive... You're right, Brian. Seeing all these cars makes it feel a bit more normal. I guess I was just overthinking it..."
(そうね……ブライアンの言う通りだわ。こんなにたくさんの車があると、少し普通に思えてくる。私が考えすぎていただけかもしれないね……)
Brian: "That's the spirit. Let's head inside and enjoy the day. I'm right with you every step of the way."
(その意気だよ。中に入って今日を楽しもう。僕がずっと一緒にいるからね)
ブライアンは頼もしい笑顔を向け、ドアノブに手をかけた。
広大な地下駐車場の照明が薄暗い影を落とす中、これから上階で待ち受ける果てしない高さと、その先にある出来事など知る由もないかのように、周囲の車からは楽しげに会話を交わす人々の姿がほのかに見えている。
地下駐車場の重厚なガラス自動ドアが静かに開くと、ひんやりとしたコンクリートの空気の中に、本館から漏れ出る賑やかな音が滑り込んできた。
ふと気づくと…
♪「Something′s got a hold on me yeah
(Oh, it must be love)
Oh-oh, something's got a hold on me right now child
(Oh, it must be love)…」
館内のスピーカーから響いているのは、エタ・ジェームスの名曲「Something’s Got A Hold On Me」の軽快でソウルフルなリズムだった。
管楽器のエネルギッシュなブロウと躍動感あふれるベースライン、そしてソウルフルな歌声が地下の静寂を塗り替え、空間を一気に華やかなアメリカン・レジャーの熱気で満たしていく。
Nylon Incremental社の計算し尽くされた演出は、訪れた人々の高揚感を完璧にコントロールしていた。
Brian: "Hear that music? They sure know how to set the mood, don't they? Come on, let's go up!"
(あの曲が聴こえるかい? 気分を盛り上げるのが本当に上手い会社だな。さあ、上へ行こう!)
ブライアンは楽しそうにリズムに合わせながら指を鳴らし、えみりを優しく促した。
Emiri: "It really sounds lively... The music makes this huge building feel a bit warmer."
(本当に賑やかな曲……音楽を聴いていると、この大きな建物も少しだけあたたかい場所に思えてくるね)
えみりもまた、陽気なメロディに背中を押されるようにして笑みを浮かべ、ブライアンの手を握り返した。
しかし、その弾むようなリズムと華やかなヴォーカルの裏側で、地下駐車場に並ぶ26台の車と、行き交う人々の存在。それら全てが、これから訪れる果てしない崩壊と「生き残るのは自分たち2人だけ」という不可避の悲劇へのカウントダウンの一部であるかのように、どこか歪んだコントラストを描いていた。
自動ドアの向こうで輝くエスカレーターの光が、2人の顔を明るく照らし出していた。
地上階の明るい日差しが降り注ぐ屋外エリア。巨大な噴水の縁で、一人の男の子が水底でキラリと光るコインを見つめていた。
男の子は周りを気にするようにチラリと見回すと、冷たい水の中に素早く手を伸ばし、一枚のコインを拾い上げた。
だが、その瞬間――。
警備員: "Hey! Don’t pick up the coin or penny in the fountain, it’s bad luck!"
(おい! 噴水のコインやペニーを拾っちゃダメだ、不吉だ!)
巡回していた警備員の大声が響き渡る。男の子はビクッと肩を跳ね上がらせると、慌てて手を後ろに隠しながら小さく頭を下げた。
男の子: "Excuse me."
(すみません……)
そう謝罪口調で呟いたものの、男の子の小さな手の中には、濡れた硬貨がしっかりと握りしめられたままだった。
誰にも気づかれることのない、たった一枚のコインの移動。
陽気なBGM「Something’s Got A Hold On Me」が響き渡るタワーの足元で、無邪気ないたずらとして握られたその小さな鉄片が、やがて地上409メートルの巨体を揺るがす致命的な引き金へと変わっていく。
「Ground floor.」
機械的で澄んだアナウンスが響き、エレベーターのドアがスムーズに左右へ開いた。
地下の薄暗い駐車場から一転して、眩いばかりの光が2人を迎える。ガラス張りで開放感あふれる地上階の出発ロビーは、大勢の観光客や家族連れの熱気で溢れかえっていた。吹き抜けの天井からは陽光が差し込み、遠くからでもフロア全体を包み込む華やかな雰囲気が伝わってくる。
Brian: "Here we are! Ground floor, the journey starts now. Look at this crowd, Emiri. Everyone's so excited to see the view."
(着いたよ! 地上階、いよいよスタートだ。見てごらんよ、えみり、この人出を。みんな上からの景色を見るのを楽しみにしているんだね)
ブライアンはロビーを見渡し、感嘆の声を上げながらえみりの背中に優しく手を添えた。
Emiri: "It really is impressive... The atmosphere is amazing. I can feel the energy all around us."
(本当にすごい……雰囲気が素晴らしいね。周りからみんなのワクワクしたエネルギーが伝わってくるよ)
ガラス越しに見える屋外のエリアには、陽光を反射して煌めく巨大な噴水が見えた。そのすぐそばで、男の子がポケットの中に小さく握りしめた硬貨の冷たさを感じながら、無邪気に歩いている姿など、誰も知る由もない。
熱気と歓声が満ちるロビーの頭上で、地上409メートルの鉄骨が、冷徹な計算に従って静かにその刻を待っている。
エレベーターの扉の脇には、案内係を務める「ウィング・スカイ」という20代ほどの男性スタッフが立っていた。
ーー彼の髪はやはりキュアウィングと同じものだった。
かつての夕凪ツバサを彷彿とさせる凛とした佇まいと、鳥のように鋭くも温かい眼差しを持つ彼は、Nylon Incremental社の制服をスマートに着こなしている。
えみりとブライアンがエレベーターホールへと近づくと、ウィングはさっと爽やかな笑みを浮かべ、乗車口を指示しながら二人に声をかけた。
Wing: "You come in?"
(お2人もお乗りになりますか?)
すでにエレベーターの内部には6人の乗客が乗り込んでおり、奥へと詰め合っているのが見えた。高所への恐怖と、胸の奥で渦巻く得体の知れない胸騒ぎを感じたえみりは、咄嗟にブライアンの袖を軽く引っ張りながら首を振った。
Emiri: "No thanks, I’ll take next one."
(いえ、結構です。次のを待ちます)
できることなら、この巨大な構造物を上昇する瞬間を少しでも先延ばしにしたかった。しかし、ウィングは乗員数を確認しながら、親切で滑らかな英語で二人に提案を続けた。
Wing: "The capacity is 11 people. There is still room for 5 more. You two can definitely fit in comfortably."
(定員は11人となっております。まだあと5人お入りいただけますよ。おふたりなら十分に余裕を持ってご乗車いただけます)
ウィングの淀みない案内と丁寧な仕草に、ブライアンは「ほらね、大丈夫だよ」と言いたげな表情でえみりを見つめ返した。
地上409メートルへ向けて人々を運ぶエレベーター。その中で静かに待つ6人の乗客と、案内を続けるウィング。そして、ポケットの中にコインを忍ばせた男の子が歩く屋外の広場。
冷酷なシステムが導くカウントダウンは、断り切れぬ日常の親切さと誘導の中に、着実に二人を巻き込んでいく。
ウィングの親切な笑顔と、隣にいるブライアンの落ち着いた様子に背中を押されるようにして、えみりは小さく息を吐き出し、うなずいた。
Emiri: "Alright... Let's go ahead and take this one."
(わかったわ……やっぱりこれに乗ることにする)
Brian: "That's great. Thanks!"
(よかった。ありがとう!)
ブライアンはウィングに軽く会釈をすると、えみりの背中に手を添えてエレベーターの内部へと足を踏み入れた。
そして、ふたりのすぐ後ろから、先ほど屋外の噴水で警備員に注意されていたあの男の子が、ちょこまかと素早い足取りで滑り込んできた。男の子のポケットの中には、手垢と冷たい水滴の残る一枚のコインがしっかりと収まっている。
Wing: "Alright, that makes nine passengers. The doors are closing."
(はい、これでご乗客は9名様ですね。扉が閉まります)
ウィングがスムーズな動作で操作パネルのボタンを押すと、重厚な金属音とともにエレベーターの扉が静かに滑り、地上階の光を遮っていく。
閉じられた密室の中で、上層階へと向かう独特の浮遊感が足元から伝わり始めた。えみりは無意識のうちにブライアンの腕を強く握りしめ、ガラス越しに遠ざかっていく地上階の景色を見つめた。
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