「ふぅ……。ここなら流石にバレないよな」
やあみんな、俺だ!
今俺が何をしているかって? それは言うまでもなく、訓練をサボっているのさ!
いや、マジでサオリの訓練は厳しすぎるって……。スパルタだとは聞いていたけど、実際に受けてみたら予想の30倍は地獄だった。
俺の神秘は『肉体の欠損』は直しても『蓄積した精神的・肉体的な疲労』までは回復してくれないからね。仕方ないね。
クタクタになった身体を引きずりながら廃墟を彷徨っていると、訓練場から大きく離れた場所に、ひっそりと佇む古びた小屋を見つけた。
「こんな所に小屋があったんだな……。ちょうどいい、ちょっとここで休憩させてもらおう」
ギィ、と錆びついたドアを押し開けて、俺は小屋の中へと足を踏み入れる。
「――……っえ?」
「あっ……」
先客がいた。
薄暗い室内の奥、古びた木箱に腰掛けていたのは――アリウススクワッドの一員である、戒野ミサキだった。
(……俺と同じように、サボりに来たって雰囲気じゃないな)
ミサキの右手には、刃先に赤黒い血が付着したカッターナイフが握られていた。そして彼女の左手首からは、今まさに鮮血がぽたぽたと床に滴り落ちている。
ミサキは前髪の隙間から、冷たく澱んだ瞳で見つめ返してくる。その瞳には「見られた」という焦りはなく、ただひたすらに深い虚無だけが広がっていた。
静まり返る小屋の中。俺は少しだけ頭を掻くと、ポケットから私物のハンカチを取り出した。
「えーと……。その血、服の染みになると後からなかなか落ちないからさ。早めに洗うか、これで拭いた方がいいと思うぞ」
差し出されたハンカチを見つめ、ミサキは意外そうに僅かに目を見開いた。
「……意外。……止めないんだ?」
「ん? 止めた方が良かったのか?」
「別に、そんなわけじゃない……」
「じゃあ、隣失礼するぞ」
そう言って、俺はミサキのすぐ傍へと歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろした。
横から彼女の左手首を覗き込む。幾重にも重なる古い傷跡の上に、新しく刻まれた一本の赤い線。
「おー……、結構深く行ってるね。これ、痕になるんじゃないか?」
「そうだろうね……。消えない傷なんて、今さら一つ増えたところで変わらない」
ミサキはぶっきらぼうに、どこか自嘲気味に言葉を返す。
「サオリたちは……お前がリスカをしてるの、知ってるのか?」
「……リーダーには、前に現場を見られて止められた。ヒヨリとアツコも、直接は見ていないけど……私の手首に見覚えのない包帯が増えてるから、察してるとは思う」
ミサキはカッターナイフを見つめたまま、ぽつり、ぽつりと呟くように語る。
「だから、意外だった。……貴方なら、止めると思ったから」
「あぁ。普通だったら、止めるのが正解なんだろうけど、俺には出来ない」
「――なんで?」
ミサキはカッターを握る手を止めたまま、怪訝そうに聞いた
「もしお前のリスカを無理にでも止めたら、お前の生きる意味を無くしてしまう気がして…...」
「もしあんたが痛みを快楽に感じる異常者だったら話は別だが」
「それは貴方でしょ?」
「別に俺はそんな性癖はねぇよ。仕方なくやってるだけだ」
「ごめん、話がそれた」
「リストカットは、生きるための行為だって昔、そんな話を聞いたことがある。心の痛みやストレス、悲しみとか不安……。脳が処理しきれなくなったそれらの感情を、肉体の痛みに置き換えることで、必死に心を落ち着かせようとしてるんだってな」
「…………」
「だから、それがお前にとって『今を生き延びるために必要なこと』なら、俺はそれを頭ごなしには止められない。……まぁ、できることなら、やめて欲しいとは思うけどね。痛いのは嫌だろ?」
「それにさ。リスカを選んでる時点で、お前はまだ心の底では『死のう』とは考えていない証拠だ。本当に自殺を考えてるなら、こんな回りくどいことせずに、そのカッターで自分の喉を深く貫けば一瞬で終わるんだからな」
俺が自らの喉元を指差して冷淡に言うと、ミサキの身体が微かに強張った。
「……別に、今はしてないだけで。もし、私が本当に自殺しようと考えていたら……あんたはどうするの?」
「別に、辛いなら辛いでいい。本当に死にたいなら死んでもいい。自分の命をどうするかは、お前の自由だ。俺は無理に止めたりはしない」
「……そう」
「だけどな、残された人はどうだ? お前が死んだら、この世界で本気で悲しむ奴らがいることだけは、絶対に忘れるなよ」
「お前が死んだら俺だって普通に悲しいし、スクワッドのメンバーは、俺の何倍も絶望するぞ。もしかしたらサオリはお前の死をきっかけに糸が切れてメンタルを保てなくなるかもしれない。その結果、自暴自棄になってマダムに無謀な刃向かい方をして、殺される可能性だってある」
「自分の行動のせいで仲間が死ぬかもしれない、それでもいいなら死ねばいいと思うぜ」
「はぁ……。なによそれ。私の自由だって言った割に……選択肢が実質、生きる方のひとつしか残ってないじゃん……」
ミサキはカッターの刃を引っ込めると、不貞腐れたように膝を抱え込んだ。
「はは、バレたか。お前が本当はスクワッドの仲間を、誰よりも大事に思ってることくらい知ってるさ。……だって、この間カレーをみんなで食べた時、お前、めちゃくちゃニッコニコだったもんな」
「えっ……!? な、なっ……!? わ、私、そんな顔してた……? ///」
自分の無防備な笑顔を見られていたと知り、ミサキは一瞬で顔を真っ赤に染めて狼狽えた。
「おっ、なんだ? 照れてるのか? 意外と可愛いとこもあるじゃん」
「う、うるさい……っ、あんたになんか関係ないでしょ……! ///」
「あはははは! 顔、耳の裏まで真っ赤だぞ?」
「だけどさ。いつかは『それ』無しで、ちゃんと現実と向き合わないといけない日が来る。今をちゃんと見ていないと、その先にある未来も、これまで過ぎ去った過去も、全部見えなくなっちまうからな」
「また心が限界を迎えそうになったら、誰でもいいから相談しろよ。ここにいるだろ。お前を必死に救おうとしてくれたサオリや、お前のことを大切に思ってるヒヨリやアツコがさ」
「…………」
「まぁ……俺はお前じゃないし、スクワッドのメンバーほどお前と長くいた訳じゃない。お前の辛さや、背負っている想いなんて微塵も分からないから、本質的な意味で助けてやることはできないけどな」
「……勝手なものね」
「だけど」と、俺は言葉を続けた。
「ストレスの吐け口くらいにはなってやるよ。サオリたちには、心配をかけたくないからこそ『言えないこと』だってあるだろ? そういうのがあったら、いつでも俺にぶちぶち吐き出しに来い。今回みたいに、時間があったらいくらでも相談には乗ってやるからさ」
ミサキは驚いたように目を見張ったあと、どこか呆れたように、ふっと息を漏らした。
「……いつもだったら、私、こんなに他人と話したりしなかったのに」
彼女の声からは、先ほどまでの刺すような冷たさが完全に消え失せていた。
「貴方といると、本当に調子が狂う……」
「嫌か?」
「別に、嫌とは言ってない…...」
ミサキはぷいっと顔を横に向けて、また膝に顔を埋めてしまう。
「なんだよ、ツンデレか?」
「何それ?」
「いや、知らないなら別にいいさ」
「なんか分からないけど、絶対いまバカにされてる気がする……」
ジト目で睨んでくる彼女に、俺は親指を立てて笑った。
「安心しろ。ツンデレってのは、この世の最高に素晴らしい文化のことだぜ?」
「だから、そのツンデレが何なのか分からないって言ってるでしょ……! バカ!」
この数分間、薄暗い小屋の片隅で戒野ミサキと喋り込んだ。彼女は意外と喜怒哀楽がしっかりしていて面白かった
この後、サボり倒していたことがサオリにバレて、これまでにないほどに激怒され、しごかれる羽目になったのは別のお話。