地獄(アリウス)に落ちた、普通の男子高校生は諦めない 作:お茶漬け2
「ハァ、ハァ……っ、キッツイな、これ……!」
俺は今、初めて受けるアリウス分校の正規訓練に身を投じていた。
三十キロもの重りを背負いつつ、いつ終わるとも知れない、果てのないゴールを目指してを走り続ける。
(マジでこれ、人間にやらせていいレベルの運動量じゃないって……!)
とっくに体は悲鳴を上げながらも走っていく
ふと隣に目をやると、一滴の汗も流さず、完全に無表情のまま淡々と走り続けているアズサの姿があった。
(すげーな……。眉ひとつ動かさずにこの地獄を並走できるのかよ。その小さな体の、一体どこにそんな体力が隠れてるんだ)
その後も射撃訓練や泥まみれのほふく前進など、様々な過酷なカリキュラムを叩き込まれ、ようやく太陽が傾き始めた頃。
「……やっと、終わった……っ」
地獄のような初日の訓練が、ようやく幕を閉じた。俺は水溜りの横にへなへなと座り込む。
「お疲れ様、カオル。……これ、水、飲むか?」
「飲む……」
「ありがとう……助かった。なぁアズサ、まさかとは思うけど、これが毎日続くのか?」
「うん。アリウスではこれが『日常』だ」
アズサは水筒を受け取り、感心したように俺を見つめた。
「でも、初日なのに一度も倒れずに完走できるなんて、カオルはすごいな。私だって、初めてこの訓練をやらされた時は、途中で体力が尽きて気絶したのに」
「あー……まぁ、なんやかんやでさ。俺、元いた世界では部活で死ぬほど走らされてたからな。意外と体力だけはある方なんだよ」
「ブカツ……? なんだそれは?」
「マジか……。部活も知らないのかよ」
俺は思わず苦笑した。
学校でありながら、放課後に友達と集まって好きなスポーツや趣味を楽しむ『部活動』すら存在しない。この場所の理不尽な過酷さを考えれば当然かもしれないが、やっぱり酷い世界だ。
「……よし。今日はもう、この後の訓練は無いんだろ? なら、約束通り俺のいた世界のことを色々と教えてあげるよ」
「本当か……っ!? ありがとう、カオル!」
パッと顔を輝かせるアズサ。その様子が小動物みたいでなんだか微笑ましい。
「だけどその前に……まずは俺の『傷』のことから話していいか? 俺自身、アズサにちょっと確かめたいこともあるし」
「うん、分かった。私も、カオルがどうして生きていたのかずっと気になっていたんだ。教えてほしい」
地面に並んで腰掛け、夕暮れに染まるボロボロの校庭を眺めながら。
俺はアズサに向かって、ベアトリーチェの部屋で自覚させられた、俺の肉体の不気味な秘密についてを話し始めた。
「なるほど……。だからカオルには、あの時の傷がひとつも残っていないんだね」
「あぁ。だけど痛覚は普通にあるし、アズサや他の人みたいに銃弾を弾き返せるほどの頑丈さも、超人的な身体能力もないけどね」
カオルは苦笑しながら、自分の頭の上に浮かぶ光を指差した。
「しかし、この天使の輪っかみたいなのは『ヘイロー』って言うんだな。初めて知ったよ」
「そう。このヘイローが、私たちがキヴォトスで生きるための生命維持装置のようなものなんだ」
「へぇ……。そういえばさ、アズサのその背中の羽って、やっぱり本物なのか?」
「そうだけど……」
尋ねると、アズサは背中の白い羽をパタパタと小刻みに動かして、本物だとアピールしてきた。
「すげぇ……。俺のいた世界じゃ、羽の生えた人間なんておとぎ話の中にしかいなかったからさ、本物を見たのは初めてだよ」
「そうなのか……? なら……その、触ってみるか?」
「え、いいのか?」
「うん。でも……優しく、お願い」
アズサは少し恥ずかしそうに俯き、背中の羽を俺の方へと差し出してきた。
「じゃあ……触るよ」
「……ん」
恐る恐る、アズサの白い羽にそっと手を触れてみる。
(すごい、ものすごくふかふかだ……。一枚一枚の繊細な羽根が綺麗に重なり合って出来ている。構造は鳥と同じなのかな……?)
あまりの心地よい毛並みの良さに、俺は時間を忘れて無心で指先を動かしてしまった。
「あ、あの……カオル。ちょっと、くすぐったい……っ」
アズサが身を縮め、羽をピクピクと震わせる。
「あぁっ!! ごめん、つい触りすぎた……!」
「ううん、大丈夫。……本当に、ただくすぐったかっただけだから」
急に我に返り、妙に気まずい雰囲気が二人の間に流れる。カオルは照れ隠しに咳払いを一つ挟んでから、率直な感想を口にした。
「……どうだった?」と、アズサが上目遣いで尋ねてくる。
「あぁ、その、ふかふかですごく良い触り心地だったよ」
「……よかった。このアリウスの中で、こんな大きな羽が生えているのは私だけで……。他の生徒たちからは、仇敵であるトリニティの生徒みたいだと、ずっと忌み嫌われてきたんだ」
寂しげに瞳を伏せるアズサ。
「そうなんだ……だけど俺は、アズサのその羽、すごく好きだよ。純白で綺麗だし、アズサの見た目にもすごく似合ってる。それに……触ってると、なんだか暖かいしさ」
「――っ!?」
「そう、か……。ありがとう、カオル。そんな風に私の羽を褒めてくれたのは……カオルが初めてだ」
「あ、そうなのか? ずいぶんと綺麗だったから、普段から手入れとかしてるのかと思ったんだけど」
「うん。週に一回、ブラシで羽のブラッシングをしているんだ」
「やっぱりそういうの、ちゃんとするんだな」
「カオルも……今度、やってみるか?」
「えっ、俺がやっても大丈夫なのか?」
「うん。カオルなら……大歓迎だ」
アズサは嬉しそうに、今度は満面の笑みを浮かべた。
「そうか。なら、その機会があったら是非やらせてもらうよ。楽しみにしてる」
「うん! ……ねぇ、カオルのいた世界には、本当に羽のある人はいなかったの? どんな世界だったのか、もっと教えてほしい」
「そうだね、俺のいた世界ではね――」
こうしてアズサと、俺のいた世界の日常や学校のことなどをぽつりぽつりと話し合った。
「そうなのか……。学校というのは、本来は勉強を中心にする場所なんだな」
「アリウスでは、勉強はしないのか?」
「うん。基本的には、戦闘訓練ばかりが中心だ」
アズサは遠い目をして、寂しげに夜空を見上げた。
「でも、ここに入ってから、たった一つだけ教えられた言葉がある」
「言葉?」
「――Vanitas vanitatum, et omnia vanitas」
「ばにたす……何だそれ、どういう意味なんだ?」
聞き慣れない英語の響きにカオルが首を傾げると、アズサは感情の消えた声で呟いた。
「『全ては虚しい。どこまで行こうとも、全てはただ虚しいものだ』……それが、私たちがここで教えられてきた、唯一の言葉だ」
あまりにも救いのない、世界の全てを否定するような重い言葉。
「……っ」
アズサの小さな横顔を見つめているうちに、俺の右手は無意識に動いていた。気がつけば、彼女の柔らかい白髪に触れ、その頭を優しく撫でていた。
「……!? どうしたんだ、カオル。急に頭を撫でて……」
驚いて目を丸くするアズサに、俺は少し気恥ずかしさを覚えながらも、愛おしさを込めて微笑みかけた。
「いや、アズサは偉いなって思ってさ」
「私が……偉い?」
「あぁ。そんな、いつ死ぬか分からないような恐怖や理不尽と戦いながら、今日までずっと必死に生きてきたんだろ? 諦めずに、ここまで生き延びてくれた。それだけで、アズサはめちゃくちゃ偉いよ」
「…………」
アズサは息を呑み、撫でられている俺の手のひらに、そっと自分の頭を委ねるように押し付けてきた。その瞳には、夜空の星のような微かな光が潤んでいる。
「……カオルは、本当に優しいな」
「そうか?」
「うん。私は今まで、誰からも褒められたことがなかった。生きる意味なんて存在しないと、そればかりを刷り込まれてきたから。……でも、カオルはそんな私のことを『偉い』って褒めてくれた。その事実が、私は今、すごく嬉しいんだ」
そう言って恥ずかしそうに微笑むアズサを見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。この子の言う『虚無』なんて、俺が全部ぶち壊してやりたいと本気で思った。
「……そっか。喜んでもらえて良かったよ。……よし、明日も朝が早いんだろ? そろそろ寝ようか」
「そうだね……。話の続きは、また明日しよう」
「うん。おやすみ、アズサ」
「おやすみ、カオル」
冷たい瓦礫に囲まれた暗い部屋の中。だけど、お互いの体温をすぐ近くに感じながら、俺とアズサは穏やかな眠りへとついていった。