ベアトリーチェの実験の日々から、さらに数週間の月日が流れていた。
俺は今、被検体として訪れた病室で、たまたま出会った不思議な友人――秤アツコと静かに言葉を交わしていた。
「今日で、あのひどい実験は終わりなの?」
「あぁ、まぁそんなところだな。アイツが言うには、俺の肉体を完全に調べ上げるのには、まだ準備と時間が足りないらしい。でも、再生力の基礎データに関してはもう取り終わったみたいでさ。これから実験で死ぬような無理難題は少なくなるかもな」
「……そうなんだ」
ガスマスクの奥の瞳を少しだけ伏せるアツコ。その様子に、俺は少し調子を狂わされて口元を緩めた。
「なんだ? もしかして、俺と会う機会が減るから寂しいのか?」
いつものように冗談交じりに笑いながら聞いてみる。
「……うん」
「えっ……」
あまりにも迷いのない、真っ直ぐな返答に思わず言葉を詰まらせてしまった。アツコはベッドの上で小さく膝を抱え、寂しげに声を紡ぐ。
「私もずっとこの病室にいるわけじゃなくて、一人のアリウス生として、普段は別の場所で訓練や任務に参加しているの。……だけどね、マダムは、私が『他の生徒と声を出して話すこと』を厳しく禁じているの」
(――あぁ、だからここに『手話の本』が置いてあったのか……!)
「……じゃあ、今は喋って大丈夫なのか? マダムにバレたら罰を受けるんじゃ……」
「今は大丈夫。今は『調整中』だから、特例で声帯を動かす許可をもらっているの。……だからね、カオル。私がこうして声を出して、普通に会話できる相手は……この広いアリウスの中で、あなただけなの」
どこか儚げに、だけど愛おしそうに俺の名前を呼ぶ彼女。
「そう、だったんだな……」
どこかミステリアスで掴めない女の子だけど、今言った言葉だけは、間違いなく彼女の心の底からの本心なのだろう。
なぜベアトリーチェが彼女に会話を禁じているのか、その詳しい理由は俺には分からない。だけど、その理不尽な命令のせいで、彼女がずっと一人で深い孤独と苦しみを背負わされてきたのは紛れもない事実だ。
元いた平和な世界で生きてきた俺には、彼女の本当の苦しみなんて、きっと逆立ちしたって分かり得ない。
――なら、そんな俺に、今この場所でできることはただ一つだけだ。
「――そういうことなら、今日眠くなるまでたくさん喋ろう」
「えっ……?」
驚いたように、アツコがガスマスクの奥の瞳を丸くして困惑の声を漏らした。
「実はさ、マダムの実験が終わった後、すぐにアリウスの寮に戻れとは言われてないんだ。就寝の時間になったら、ここのベッドや病室を使っていいって許可も貰ってる。今までは次の日の訓練が早いから戻って寝てたけど……あんたのそんな事情を聞いちゃったら、ほっとけないだろ」
「それに、次に俺がここに来るのは、アイツの話だと結構先になるかもしれない。それに、俺の実験とあんたの調整のタイミングが、今みたいに被らない可能性だってある。だから――今日はここに残って、あんたの話し相手になるよ」
アツコはしばらく呆然と俺を見つめていたが、やがてガスマスクの奥で、ふにゃりと愛おしそうに目を細めた。
「カオルは……本当に、優しいね」
「別にそんなことはねーよ。ただの気まぐれだ」
「あれ? もしかして、照れてる?」
「うるさいな。ほら、早く話の続きするぞ」
「ふふ、うん。……でも、本当に感謝しているよ。ありがとう、カオル」
「……礼には及ばないさ」
綺麗な声でお礼を言われ、居心地が悪そうに視線を逸らす。そんな俺の様子を楽しそうに眺めていたアツコは、ふと思いついたように小首を傾げた。
「ならね、カオル。ずっと気になっていたから、一つ聞きたいことがあるの」
「ん?なんだ? 」
「うん。あのね――『子ども』って、どうやってできるの?」
「ぶっっ!?!?!?」
俺は盛大に自分の唾を喉に詰まらせて、激しくむせ返った。
「な、な、何聞いてんだテメェ……っ!!」
慌てふためく俺を見て、アツコはガスマスクの奥で「くすくす」と、これ以上ないほど愉しげに肩を揺らした。その瞳には、からかいの色がこれでもかと満ち溢れている。
「ふふ……やっぱり、カオルは面白いね」
「……っ、お前、わざと聞いてるだろ!!」
「どうして? 私はただ、男の人であるカオルに教えてほしかっただけなのに。……それとも、もっと『詳しいこと』までお勉強させてくれる?」
「マセガキがよぉ~……」
だけど、アツコが声を上げてこんな風に意地悪く笑ってくれることが、なんだか無性に嬉しかった。他の誰にも見せない彼女の「素の表情」を、見えた気がしたから。
「もうその話は終わり! ほら、次は別の話だ!」
「ふふ、はーい。じゃあね……」
俺の過剰なリアクションに大満足したアツコは、その後もご機嫌な様子で言葉を紡ぐ。
そうして俺たちは、夜が更けて眠くなるまで、二人だけの特別な時間をいつまでも楽しんだ。
朝、アリウスの薄暗い寮の扉を開けると、俺は目の前の光景に思わず固まった。
「おはよう、アズサ……って、お前一体何してんだ!?」
「あっ、カオル……! 良かった、無事に戻ってきてくれて……っ」
俺の目の前に立っていたのは、アサルトライフルを固く握り締め、戦術ベストに予備のマガジンや手榴弾をこれでもかと詰め込んだ、ガチガチの重武装を施したアズサだった。今すぐにでも敵陣へカチコミをかけるような物々しさだ。
「朝起きてもまだカオルが戻っていなかったから、マダムの実験で何か酷い目に遭わされているんじゃないかと思って。……今から一人で、カオルを助けに行こうとしていたところだ」
「ごめん……本気で心配かけた。昨日はちょっと外せない事情があって、どうしても戻れなかったんだ」
「そうか。……何も無かったのなら本当に良かった」
アズサはホッとしたように小さな肩の力を抜き、抱えていたライフルをそっと床に置いた。
「すまないな、アズサ。一晩中、一人にしてしまって」
「ううん、一人でいること自体は昔から慣れているから大丈夫。……だけど」
アズサはしおらしく俯き、制服の裾をぎゅっと握りしめながら、消え入りそうな声でそっと呟いた。
「……カオルがいない夜は、思った以上に……寂しかった、から」
ズサァッ!! と、俺の胸の奥に凄まじい破壊力の一撃が突き刺さる。
(これがクーデレってやつか…想像以上にやばいな…いつもはクールなアズサが見せるデレ要素…それにアズサは美少女だ…並の男ならギャップ萌で死んでしまうだろう)
「……? どうしたんだ、カオル。さっきから黙って、私の顔に何か付いているか?」
「い、いや! 何でもない、何でもないさ! それよりアズサ、今日は朝から訓練があるんだろ? 遅刻しないうちに、早く準備して行こうぜ!」
「あぁ、そうだな。急ごう」
俺とアズサはバタバタしながらも訓練をしに行った。