キーーン、と。
耳の奥で、不快な高音がずっと鳴り響いている。
「あー……まじで死ぬかと思った……」
なんの風邪を拗らせたのか、丸一週間40度近い熱に浮かされ、自宅のアパートで文字通り死線を彷徨っていた。意識が戻ったのは今朝のこと。奇跡的に熱は下がったものの、喉は砂漠のようにカラカラで、頭は酷い耳鳴りのせいでぼんやりとして霧がかかったようだ。
冷蔵庫を開けたが、水も食料も底を突いている。
烏丸はよれよれのパジャマ姿のまま、フラフラと玄関のドアを開けて外へ出た。
着替えるなんて行為も無理なほど衰弱していた。
「とりあえず……近くの薬局でポカリと解熱剤買ってこよ……」
外の空気は、なぜか妙に焦げ臭かった。だが、今の烏丸にそれを深く考える余裕はない。すり足で、トボトボとアスファルトの道を歩き出す。
前方から、一人の男が血相を変えて走ってきた。
男は烏丸の姿を見つけると、両手を激しく振り、何かを大声で叫んでいる。
耳鳴りのせいで何を言っているのかはさっぱり聞こえない。
(あ、なんか慌ててる人だな……ランニング中かな……。邪魔だからどけってことか…)
だが近づいてきた男は烏丸の肩をガシッと掴み、口を大きくパクパクさせて、後ろを指差しながら必死の形相で叫んだ。たぶん「逃げろ!」とかそういうことだろう。だが、意識が朦朧としている烏丸は「あ、お疲れ様です……」と小さく頭を下げ、男の手をすり抜けてそのまま前へと進んだ。
男が「コイツはもうダメだ…」というような顔で走り去った直後。曲がり角から、信じられない数の「異形」が姿を現した。
服はボロボロで血に染まり、肌は土気色。眼球は濁り、顎をガクガクと鳴らしている。
一週間前に世界を襲った災厄――『ゾンビパニック』の主役たちだった。彼らは逃げた男を追って、凄まじい飢餓感を剥き出しにして走ってきたのだ。
しかし。
正面からフラフラと歩いてくるパジャマ姿の烏丸を見た瞬間。
ゾンビたちの狂暴な気配が、ふっと消えた。
「(あ……あの人、めちゃくちゃ顔色悪いな……)」
「(うん、完全に体調崩してる顔だわ。今にも倒れそう)」
ゾンビたちには、烏丸が「死にかけている同類」か、あるいは「本能的に絶対に手を出してはいけない何か」に見えていた。何より、今にも消え入りそうな烏丸のオーラを見て、彼らの間に妙な「気遣い」が生まれた。
「(あ、キツそうですね。すんません、お邪魔します……)」
狂暴に走っていたゾンビの群れは、決して急に止まって烏丸を驚かせるような真似はしなかった。まるで満員電車の中で、激しく体調の悪そうな乗客を見かけたときのように、緩やかに、自然に横へと避けてスペースを空ける。
すれ違いざま、一匹の元サラリーマンとおぼしきゾンビが、「無理すんなよ……」と言いたげな、優しく心配そうな目でじっと烏丸を見守りながら、そっと通り過ぎていった。
烏丸はといえば、耳鳴りのせいうめき声も足音も聞こえず、ただ「なんか今日、歩行者が多いな……」とぼんやり思いながら、自然に開けられた道を通って薬局の入り口へと滑り込んだ。
薬局の自動ドアは、すでに何者かによって手動でこじ開けられていた。
(……?停電で開けっ放しなのか…)
ぼんやりした頭で深く考えず、烏丸はそのまま薄暗い店内に入り、目的の飲料コーナーへと向かう。
「あった、ポカリ……」
烏丸は棚からポカリスエットの1.5リットルボトルを手に取った。
しかし、病み上がりの腕にはあまりにも重く、指先に力が入らない。
――ストン。
ボトルが床に落ち、ゴロゴロと転がった。
「あ……」
拾おうとして屈もうとするが、体がだるくて膝が笑う。
すると、すぐ横の通路を徘徊していた、名札をつけたままの元・店員ゾンビが、すっと滑らかな動きで近寄ってきた。ゾンビは床のボトルを拾い上げると、烏丸の手に優しく包み込むようにして握らせてくれた。
烏丸はぼんやりした頭で、それがゾンビだとも気づかずにお辞儀をした。
「あ、どうも……すいません」
店員ゾンビは、死にたてホヤホヤの顔にできる限りの笑みを浮かべ、コクンと会釈を返した。
「ウアァ……(いえいえ、お大事にどうぞ)キュゥゥ……(これも開けておきますね…)」
そしてキャップを開けてくれた。烏丸は優しさに感動した。
「(このお店、ワンオペなのにサービスが凄すぎるな……)」
薬局を出て、烏丸はすでに開いているボトルからポカリをぐびぐびと喉に流し込んだ。
冷たい水分が体に染み渡り、キーンという耳鳴りがようやく引いていく。
霧が晴れるように、視界が急激にクリアになった。
そこで初めて、烏丸の目に「世界の現状」が飛び込んできた。
ひっくり返って炎上している車。
あちこちから立ち上る黒煙。
そして、血まみれで街を徘徊している大量の人間たち(と、彼らが見守るように自分を見つめている姿)。
烏丸は、手にしたポカリを落とした。
だばだばと地面へ広がるポカリ。
遠くから「キャー」や「うわぁぁぁぁぁ」という悲鳴が聞こえた。
そして、ここだけなんか静か。
いつまで経っても襲ってこない人(?)を凝視したまま、ぽつりと言った。
「……え? なにこれ、世界滅んでる?」
病み上がりの一般人・烏丸と、彼をなぜか全力で気遣うゾンビたちの、おかしなサバイバル(ソロ活)ライフが、今ここに幕を開けた。
(第1話・完)