推薦は自室の机の前に立っていた。
机の上には小さな箱が置かれたままで、昨日邸宅から持ち帰ってきたものだった。
捜索は終わっている。
"行方不明"
"痕跡なし"
報告書の結論はそれだけだった。
それでも箱は手元に残っていた。
しばらく見てから、推薦は蓋に手をかけた。
開けると中はほとんど空で、折り畳まれた紙片が数枚だけ奥に沈んでいた。
紙片は重なるように放り込まれていた。
推薦は箱をひっくり返さなかった。確かめるでもなく、ただ少し間を置いてから指を入れる。
一枚ずつ取り出し、ゆっくり広げる。
最初に目に入った文字は『老紳士』だった。
推薦の思考が一瞬止まった。次に推薦の頭にクエスチョンマークが踊る。
とりあえず、次の紙片を開く。
続いて目に入るのは順番でも分類でもなく、思いついたものがそのまま落ちているような言葉だった。
『お腹すいた』
『遊ぶ』
『地図』
『眠い』
『掃除しなきゃなぁ』
『飽きた』
『旅行』
『ハヤテ』
『楽しむぞ』
『洗剤買って…もらってこよう』
そのどの紙片の中で『老紳士』だけが少しだけ他と違う書き方で、そこだけ妙に丁寧だった。
繋がりはない。
だが推薦はそこで手を止めたまま、しばらく動かなかった。
翌日、推薦は1人きりで邸宅へ向かう。
門は開いたままで、入ることを拒むものはなかった。
中に入ると、足は自然に寝室へ向かった。目当てはベッド脇のシーツの奥。
昨日箱が見つかった場所にしゃがみ込み、手で探るように確かめると、気のせいじゃなく紙が一枚だけ残っているのに気づく。
ぐっと引き出すと、それは地図だった。
画鋲の穴が無数に空き、刺しては外した跡が散らばっている。思いついたまま刺したように線は繋がらず、ただ迷いだけがそこに残っているようだった。
端に丸いコップの跡があった。染みに鼻を近づけると、麦の匂い。
(麦茶だな)手で凸凹した跡をなぞった。
ただ何度も見て、何度も決めて、やめた時間だけが残っている。
推薦はそれを見たまま立ち上がり、縁側へ向かった。
庭は静かだった。人の手が入っていないのに崩れていない庭が、そのまま時間の長さだけを見せている。隅には犬用のおもちゃが置かれたままで、丁寧に縫われた布とロープが少しだけ形を崩していた。
それを見て、推薦は一瞬だけ視線を止めたが、触れずにそのまま通り過ぎた。
次にキッチンへ入る。
シンク、乾いた布巾、落とされて割れたコップ。
静かな空間の中、食洗機だけがロックが開いたままあった。推薦は少しだけ考える。周囲は散らかっているのに、そこだけは触れられた気配がない。自分も開けた記憶がない。
なんの気なしに、取っ手に手をかけて引き出す。
中には雑誌が詰まっていた。
推薦は自分の目で見たのに、信じられないように凝視した。
「なぜだ」
推薦の小さな呟きが、誰もいないキッチンにだけ落ちる。
やや呆れたように食洗器から雑誌を取り出していく。まるで小さい子が置いたおもちゃが意外なところから出てきたような感覚だった。
観光特集、温泉特集、グルメ特集、遊園地…、城…、牧場…、ぎっちり詰まっていたが、どれも整理されていて扱いは乱れていない。手前の雑誌のページをめくる。最初に目に入ったのは滝だった。
『白糸の滝の至近距離で素麺食べたい』
と付箋が貼られていた。
推薦は雑誌を閉じた。
額を抑えて、また開いた。
なぜ閉じたのか、自分でも分からなかった。
『牛に好かれたい』
『鹿』
『また鹿』
『忍者いないかな』
『一回乗る』
『二回乗る』
『三回乗ってから考える』
どれも途中で止まることなく、ただ思いついたままの軽さで並んでいた。
そしてほぼすべてのページがマジック(赤)で丸がつけられていた。
ページの端にはまた染み。
(また麦茶飲みながら見ていたな…)
ワイナリーのページで、推薦の指が止まる。
付箋には『我が家のワイナリーは触っちゃダメ』『なんとなく』、『老紳士も連れて行こう!』
その下に小さく続く。
『起こしたら一緒に来てくれるかな』
『無理かな』
『でも一度試そう』
『楽しんでくれるかな』
『遊園地、好きかな』
『三回乗る前に疲れないかな』
と並んでいる。
推薦はそのままページをめくる手を止めず、静かに息を吐いた。
誰かを連れて行くことを前提に、すべてが決まっているようだった。思いついた場所に、思いついた理由がくっついている。確認するように、確かめるように、繰り返されているだけで、そこに迷いはなかった。たまに笑いながら、呆れながら、そのままどんどん捲っていく。
そして、最後のページで指が止まる。
『ゾンビ喋ってくれない』
『みんないい人』
『でもちょっとさみしい』
そこだけ、他と違って見えた。理由も説明もなく、ただそこに残っているものだった。
推薦は無言でそれを見て、そしてようやくわかる。
(あいつ、思いついた順に移動しているな)
推薦は雑誌を閉じ、几帳面にあいうえお順に並べなおして元の場所へ戻した。
机の上の箱へ目を移して、ほんの少しだけ間を置いてから蓋を開ける。
中には紙片が数枚。
広げる。
『お腹すいた』
『遊ぶ』
『洗剤買って…もらってこよう』
『地図』
『眠い』
『掃除しなきゃなぁ』
『老紳士』
『飽きた』
『旅行』
『ハヤテ』
『楽しむぞ』
順番も意味もないまま並んでいる。
『楽しむぞ』
推薦はその紙片を指で軽く押した。
「……ほんとにお前は」
続きは言わなかった。
推薦はそれを見たまま、しばらく動かなかったが、やがて紙を折りたたみ、ポケットへ入れた。
すこしだけ息を吐いた。
そして、食洗機のカトラリー置きに収まったマジック(青)を引き抜いた。
キャップを開けようと添えたまま、しばらく推薦は停止して、
やがて、小さく音が落ちた。
そのままキッチンを出て縁側を抜け、庭を一度だけ見てから門へ向かう。
外へ出ると風が通っていく。門は開いたままで、何も閉じられていない。
推薦はそこで一度だけ足を止めたが、振り返らなかった。
「……戻ってこないかもな」
誰に向けたものでもないまま、言葉だけが落ちる。
そしてそのままシェルターへ歩き出す。
ポケットの中で紙片がわずかに揺れていた。
軽いはずなのになぜか重く感じられるその温度だけが、静かに残っていた。
(第17話・完)