その頃。
彼は、普通に楽しい場所にいた。
そこは、遊園地だった。
夕暮れの斜光が、錆びついた入口のアーチを赤黒く照らしている。色褪せたポップな看板も、誰も並んでいないチケットゲートも、遠くでゆっくりと回る観覧車も、全部そのまま残っているのに、周りはゾンビだらけで人間だけがいなかった。
烏丸はゲートの前で足を止め、しばらくその光景を見上げた。
「……すごいな」
ぽつりと言った横で、ハヤテが嬉しそうにコンクリートの地面を爪で鳴らし、千切れそうなほど尻尾を振っている。
チケット売り場の窓口は閉ざされ、料金表の文字は日焼けで消えかかっていた。けれど、鉄製のメインゲートは内側へ向けて大きく開かれていた。というより、見渡す限り、遮るものはほとんど何もかもが開け放たれているようだった。
「貸切かな」
冗談めかして呟いてみる。もちろん、返事はない。
代わりに、園内の奥から一人の係員ゾンビが足を引きずりながら歩いてきた。制服は薄汚れ、あちこちが擦り切れている。けれど、背筋だけはピシッと綺麗に伸びていた。
ゾンビは烏丸の姿を認めると、生前の習性のように自然な動作でペコリと頭を下げた。そして、そのまま園内へ踵を返して歩き出した。
「いいの? 入って」
聞いてみる。
返事はない。けれど、ゾンビの足は迷いなく進んでいく。
烏丸はハヤテと顔を見合わせ、それから素直にその背中について行った。
案内された先には、巨大なジェットコースターがそびえ立っていた。
複雑に入り組んだレールが、沈みゆく夕日に照らされて黄金色に光っている。驚いたことに、それは動いていた。無人の車両が、ガタガタとチェーンを巻き上げる音を響かせ、普通に稼働しているのだ。
「……いいのか、これ。点検とかいつしたんだ」
誰に確認するでもなく苦笑しながら、烏丸は座席に乗り込む。その隣の席には、老紳士ゾンビが背筋を伸ばして品良く座っていた。
メイドゾンビはいつ敷いたのかレジャーシートから烏丸を見守り、ハヤテは賢くプラットホームで待機した。
ガコン、と重い音を立てて安全バーが下りる。
車両がゆっくりと傾斜を上がり始めた。
徐々に周囲の景色が広がっていく。
空が、やけに近く感じられた。
その瞬間。車両が頂点を越え、一気に垂直近くまで落ちた。
「うわあああああああああ!!」
猛烈な風が容赦なく顔を殴る。視界の端で、世界の景色が凄まじい速度で後ろへと流れていく。内臓がその場に置いていかれるような強烈な浮遊感。烏丸は、自分でも驚くほど久しぶりに大声を張り上げて叫んでいた。
すべてのコースを走り終えた頃には、彼の髪も服も、風でめちゃくちゃに振り回されてぐちゃぐちゃだった。
安全バーが上がり、座席から降りる。重力から解放された足が、少しだけふらついた。
ふと見ると、プラットホームの端で先ほどの係員ゾンビがパチパチと拍手をしていた。
いつの間にか、油まみれのツナギを着た整備ゾンビもいた。なぜか、売店のものらしきエプロンを着た案内ゾンビまで集まっていた。全員が虚ろな目をしながらも、律儀に、そして温かく拍手を送り続けている。
「楽しいな、これ。……よし、あと2回乗ろう」
誰も言葉での返事はしない。けれど、静かな園内に彼らの拍手の音だけが心地よく響き渡っていた。
*
その後、彼は一人と一匹で観覧車に乗った。
ゴンドラはきしみながら、ゆっくりと時間をかけて上昇していく。
一周目。
「高いな」
窓の外に広がる、完全に沈みかけた夕日と荒廃した街並みを見下ろして呟く。
二周目。
「まだ高いな」
世界から音が消え去ったような静寂の中、また同じ景色が通り過ぎる。
三周目。
「ずっと高いな」
もはや感動するのにも飽きて、烏丸は小さく笑った。
ゴンドラを降り、近くにあった古びたベンチに腰を下ろす。彼はポケットをまさぐり、使い古された付箋の束とボールペンを取り出した。目的を見失わないための、いつからのものかもわからない癖だった。
付箋を膝の上に置き、芯を出して考える。
『文化遺産の城にしばらく住んでみたい』
迷いなく書く。
『いや、ラグジュアリーホテルで順にランクをあげていくのもいいな』
少し考える。ペン先が止まる。
『インド行けなかった』
事実を書く。
さらに、数秒考える。
『代わりにここでインド人になる』
突飛な思いつきを書く。
自分で書いた文字を読み返し、烏丸は眉をひそめて首を傾げた。
「どういう意味だろうな、俺」
足元で丸くなっていたハヤテが、退屈そうに大きな欠伸をした。それを見た烏丸も、つられて深い欠伸を一つ漏らす。
吹き抜ける夜風が、火照った肌に気持ちよかった。
夜の帳が下りつつある遊園地は、どこまでも広く、そして世界の終わりとは思えないほど穏やかで静かだった。
『やっぱり半年くらい遊んで暮らせるな』
そう書き加えてから、ふと、ペンを握る手が止まった。
「半年って……どれくらいだっけ」
誰にも聞かない。今の世界には、それに答えてくれるまともな相手もいない。
観覧車が、ゴトゴトと規則正しい音を立ててゆっくりと回り続けている。
三周目の途中で、ハヤテの体温が背中に触れた。
その重さが、なぜか縁側での昼寝と同じだった。
それは、いつもの縁側だった。
木が日焼けして、すっかり肌に馴染んだいつもの特等席。烏丸は、お気に入りのガラスのコップに注いだ冷たい麦茶を飲んでいた。
足元では、ハヤテが陽だまりの中で気持ちよさそうに丸くなって寝ていた。
庭の木々を揺らして、ぬるい夏の風が吹き抜けていく。見上げる空は、吸い込まれそうなほど真っ青に澄み渡っていた。
麦茶を一口、喉に流し込む。
それから、もう一度ぼんやりと青い空を見た。
気づいたら、それがあった。
(なんか飽きたな…)
そう思った瞬間には、烏丸はすでに縁側に勢いよく立ち上がっていた。
コップには、まだ冷たい麦茶が半分ほど残ったまま揺れている。けれど、そんな細いことはどうでもよかった。
「遠足いこう!それから旅行!」
これは大事なことだ。今の自分にとって、とてつもなく大事なことだ。
どこへ行くかは、まだ一切決まっていない。そこで何をするかも、全く考えていない。
でも、「行こう」と自分の心が決めた。理由なんて、それだけで十分すぎるほどだった。
烏丸は縁側から家の中へと引き返し、薄暗い廊下を早足で歩き出す。
その途中、曲がり角でバッタリと運転手ゾンビとすれ違った。いつも制帽を律儀に被っているそのゾンビは、烏丸の姿を見ると、生前の癖のまま軽く頭を下げた。
「あのさ、遠足行こうと思う」烏丸が勢い任せに言う。
「みんなで!」
運転手ゾンビは、ガチガチと顎を鳴らして一瞬だけ動きを止めた。それから、深く、深く、静かに頭を下げた。
「ウアァ……」
喉の奥から漏れたその掠れた声には、不思議と、(かしこまりました。お供いたします)というような、プロフェッショナルな気配が確かに籠もっていた。
話が早い。さすがはプロの運転手である。頼もしさが違った。
烏丸は深く満足し、これから始まる無計画な遠足に胸を躍らせるのだった。
次に向かったのは、屋敷の奥にあるワインセラーだった。烏丸は静かに扉を開ける。そこは、外の終末世界とは切り離されたかのように、ひっそりと静まり返った部屋だった。
几帳面な執事ゾンビが毎日手入れをしているのだろう。部屋には埃一つ落ちておらず、磨かれたワインが鈍く光っている。天井の光だけが、部屋の床を柔らかく、そして寂しげに照らしていた。
お気に入りのワインを抱いて、彼は眠ったままだった。ずっと。本当に長い間、呼吸をしているのかもわからないほど静かに、時を止めていた。
烏丸はその横にしなやかにしゃがみ込んだ。老紳士の穏やかな寝顔をじっと見つめ、少しだけ考える。
そして、躊躇なくその細い肩を前後に揺らした。
「起きて」
返事はない。ただ冷たい衣服の擦れる音がするだけだ。烏丸は諦めず、もう一回強めに揺らす。
「遠足行く」
やはり返事はない。眠りは深い。さらに執拗に揺らす。
「遊園地」
その単語が呼び水になったのか、しばらくして、老紳士の枯れたまぶたがピクリとゆっくり動いた。
本当に、恐ろしくスローモーションな動きだった。やがて現れたその瞳は、自分が今どこにいて、何が起きているのかが全く分かっていないような、深い混濁に満ちていた。
パチ、と一つまばたきをする。
もう一回、まばたき。
さらにもう一回。
その間、烏丸は至近距離から真顔のまま、辛抱強くその様子をじっと待っていた。
老紳士はまだ、目の前の若者が何を言っているのかを理解していないようだった。それでも、彼は長い眠りから目覚め、身体を起こした。烏丸にとっては、それだけで十分だった。
「行こう」
烏丸がまっすぐ告げる。
老紳士は椅子の上で、相変わらず黙ったままだった。けれど、再び眠りにつこうとはせず、烏丸の突飛な誘いを拒否することもしなかった。だから烏丸は満足した。
「ワイン、持ってく?」
思いついたように、真顔で聞いてみる。
老紳士はやはり無言だった。
二人の間に、奇妙で静かな沈黙が流れる。しばらくの間、じっと見つめ合った。けれど、答えが出る気配はなかったので、結局ワインのことは棚上げにしたまま、烏丸はそのまま老紳士を促して部屋を出た。
それからの屋敷は、これまでにないほど少しだけ慌ただしくなった。
「遠足」という主人の号令を受け、執事ゾンビがせわしなく足を引きずりながら準備を始める。
運転手ゾンビが車のキーを探して動き回る。
メイドゾンビが役に立つのかわからない荷物をまとめて動く。
足元では、ハヤテだけが何が始まるのかよく分かっておらず、首を傾げてワンと鳴いた。
烏丸も実は、これから自分がどこへ向かうのかよく分かっていない。
ただ、「遠足!」彼の頭にあるのは、本当にそれだけだった。
自分の部屋へ戻ると、驚いたことに、ベッドの上にはすでに立派な旅行鞄が用意されていた。
それは、何泊分もの荷物が入りそうな、ずっしりと大きな黒い革の旅行バッグだった。烏丸が「ちっちゃくて入んない」とリュックを拒否した為、執事かメイドが気を利かせて持ってきたのだろう。烏丸は「話がわかるな」と満足そうに深く頷いた。
そして、さっそく楽しそうに荷物を詰め始める。
まずは、本棚から引っ張り出してきた古い日本地図。
それから、いつの時代のものかもわからない分厚い情報雑誌。
いつもの付箋の束。
お気に入りのボールペン。
水筒に入れた冷たい麦茶。
棚の奥に眠っていたスナック菓子。
テンションが上がってきたのか、さらに別の雑誌。
さらに予備の地図。
さらにカラフルな付箋の束。
脈絡のないものを次々と放り込んでいるうちに、途中で自分でも一体何をしているのか、何が必要なのかが分からなくなってきた。けれど、そんなことはお構いなしに、とりあえず目についたものを片っ端から入れた。
入るだけ入れる。気が済むまで、とにかく詰め込む。
その結果として、当然のように鞄からは中身が溢れ返り、いくつかの雑誌や地図が床へと無残にはみ出した。
すると、背後からメイドゾンビが無言でスッと近寄ってきた。
彼女は床へ転がった雑誌を慣れた手つきで拾い上げ、ぐしゃぐしゃになった地図をパタパタときれいに畳み直す。そして、烏丸のめちゃくちゃな荷物を整理しながら、静かに鞄の中へと収めていった。
「ウアァ……アゥ…」
喉の奥から漏れる、かすれた低い声。
「キュゥゥ……」
衣服が擦れるような、微かなため息の音。
そしてクローゼットを示される。
言葉にはならないが、その一連の滑らかな動作からは、
(若旦那様、着替えを。旅先での着替えをまずお入れください。転んで汚すと思うので替えが必要です)
(下着やタオル、その辺りの生活必需品も絶対に必要です)
というような、心配性な母親のような気配がひしひしと伝わってきた。
「あ、そっか」
烏丸はメイドゾンビの無言の指摘を拒むことなく、素直に着替えを数日分バッグへと追加した。
それを見て、メイドが一日ぶんだけ残して残りの服を抜いた。横から烏丸が雑誌を追加する。さらに望遠鏡も追加。
メイドが絆創膏を追加する。
気付けば鞄はいっぱいになっていた。
言われた通りにちゃんとできる。俺は偉い。
烏丸は自分で自分にそう感心しながら、満足げにパチンと鞄を閉じるのだった。
しばらくして、部屋の扉が再び開き、もう一つ別のバッグが恭しく運び込まれてきた。
それはハヤテ用のバッグだった。それを見たハヤテは、弾かれたように立ち上がってぶんぶんと千切れんばかりに尻尾を振る。どうやら賢い彼は、直感的にそれが自分専用の荷物なのだと理解したらしい。
ハヤテが何度もバッグと家中を行き来して自分で荷造りする。
バッグの中には、ハヤテが普段から気に入って噛みまくっている古びた犬用のおもちゃや、自分の匂いが染みついたお気に入りの毛布、ボールにブラシ。お気に入りの犬用おやつ。そしてなぜか一番大きなスペースを占領しているロープのおもちゃが、どんどん入れられていった。必要なものは、全部その中に揃っている。
その様子を、運転手ゾンビがプロの厳しい目つきで、漏れがないか静かに確認していた。
後ろからは、執事ゾンビも首を傾げながら覗き込んでいる。ゾンビたちは全員、恐ろしいほど大真面目な顔つきをしていた。
なぜなら、これは「遠足」だからである。彼らにとって、主人の旅行(本番)に向けた遠足(プレ)の支度を完璧に整えることこそが、今や生きがい(死にがい)そのものなのだ。
そして最後に。部屋へもう一つ、三つ目となる最後のバッグが静かに運び込まれてきた。
それは前の二つに比べて少し小ぶりだった。けれど、一目でそれとわかるほど上質で、気品のある艶を放つアンティーク調の革のドクターバッグだった。もちろん、あの部屋でようやく目を覚ました、老紳士用のバッグだった。
執事と運転手がワインセラーから運び出してきたから、中身は見なくても分かった。
でもやっぱりみた。ロマネ・コンティだった。
烏丸は、床の上にずらりと並べられた三つのカバンをじっと見つめた。
自分の、何でも詰め込んだ大きくて黒い鞄。
ハヤテの、おもちゃと毛布が覗く愛らしい鞄。老紳士の、小さくも格式高い上質な鞄。
「……すごいな」
何がとは言わない。
ハヤテは尻尾を振って、老紳士はまだ眠そうだった。
執事は何となく誇らしげだった。
メイドは諦めた顔で再度開いた烏丸の鞄の口を閉じた。
それぞれのシルエットを、しばらくの間、真剣な目付きで見比べる。
よく見ると、自分のはあれこれ無理やり詰め込んだせいで、あちこちが妙に不格好に膨らんでいる。
ハヤテのも、おもちゃや毛布のせいで結構なボリュームで丸っこく膨らんでいた。けれど、老紳士の鞄だけは、余計なものが一切入っていないようできれいに形を保ったまま、凛と佇んでいた。
それがなんだか、とても不思議だった。
烏丸はなんとなく、三つの鞄の並び順を入れ替えてみた。
左から、自分、ハヤテ、老紳士。
一歩下がって、またじっと見る。
うーん、と首を傾げ、もう一回並び替えてみる。今度は老紳士を真ん中にしてみた。
さらに、じっと見る。
結局、何が正解なのかはよく分からなかった。でも、決して悪くない眺めだった。歪さはバラバラだけれど、三つともちゃんと、これから新しい場所へ向かうための「遠足と旅行の鞄」に見えた。
ただそれだけのことが、烏丸には少しだけ嬉しかった。
「楽しむぞ」
誰に、何に向けて言ったのかは自分でも分からない。
けれど、その言葉に応えるように、後ろにいた運転手ゾンビがコクリと深く頷いた。
執事ゾンビも律儀に頷いた。
メイドゾンビも優しく頷いた。
老紳士だけは、相変わらず無言のまま静かに佇んでいた。
そして足元では、ハヤテだけが嬉しそうにぶんぶんと尻尾を振った。
*
ゆっくりと回る観覧車の、少し曇った窓ガラスに映る夕暮れをぼんやりと見つめながら、烏丸は数日前のあの時のことを思い出していた。
着替えあってよかった。一人頷く。
ゴンドラに向かう途中で興奮のあまり勢いよく転んだ烏丸は、メイドが危惧したとおり、服を汚した。
ゴンドラから見下ろす遥か下の方では、遊園地の電飾がパチパチと音を立てて、少しずつ灯りを増やしている。ゾンビたちが手分けして、錆びついた配線を生前のように繋ぎ直してくれたのだろう。昼の光が完全に終わりを告げ、世界の隙間に濃い夜が下りてくる。
人間の消え去った誰もいない遊園地は、不思議なくらいに静かだった。それなのに、胸が苦しくなるような寂しさはどこにもない。
地上のはるか遠くで、案内ゾンビや整備ゾンビ、メイドゾンビたちが、ゴンドラが降りてくるのをじっと待っているのが見えた。
誰も喋らないし、声もしない。
けれど、みんな当たり前のようにそこに佇んでいる。
ゴト、と軽い衝撃を立てて、観覧車がゆっくりと地面へ戻ってきた。プシューという音とともに、自動で鉄の扉が開く。
烏丸は、少し固くなった身体を伸ばしながら外へと降りた。ハヤテもその後に続いて軽快に飛び跳ねる。
すると、待機していた係員ゾンビが、自然な動作でスッと烏丸の隣へと寄り添ってきた。まるで行き違いなどなく、最初からそこにいるべきだったパートナーみたいに、ごく当たり前に。
烏丸は足を止め、優しくライトアップされた夜の遊園地をぐるりと見渡した。
色とりどりの電球が放つ灯りが、暗闇の中で健気に、そしてとても綺麗に揺れている。
世界は相変わらず静かだった。
烏丸は少しだけ考えてから、ぽつりと口を開いた。
「いい場所だな、ここ」
もちろん、言葉の返事はない。
でも、隣を歩く係員ゾンビの、心なしかピシッと伸びた背筋からは、なんだか誇らしげで、嬉しそうな気配が確かに漂っていた。
(第18話・完)