遊園地から戻ったあとも、烏丸はなかなか寝付けずにいた。
次は本番の旅行だからだ。一階のダイニングテーブルには観光雑誌が何冊も広げられている。
手元には、真っ赤なマジックと青マジック。色とりどりの付箋。そしてキンキンに冷えた麦茶のグラス。
何冊目かも分からなくなった観光雑誌を前に、烏丸は贅沢な時間を貪っていた。
静かな夜だった。
窓の外では虫たちが心地よく鳴いている。
屋敷のどこかでは、執事のゾンビが「我が家」の最後の見回りをこなしているらしく、ときおり廊下の向こうから「ギギ…」と床が軋む音が混ざっていた。
烏丸は頬杖をついたまま雑誌をめくる。
温泉。
城。
高原。
高級ホテル。
滝。
載っている綺麗な写真を見るたびに、思いついた順で付箋を貼っていく。
『牛いっぱい』
『ここ良さそう』
『住める』
『なんか美味そう』
気付けば雑誌の端からは、色とりどりの付箋が大量に広がっていた。
楽しかった。
まだ明日、どこへ向かって出発するかも決まっていないのに、胸の奥が妙にワクワクして楽しかった。
修学旅行の前日。
そんなものがあるとしたら、きっとこういう感じなんだろうとぼんやり思う。
でもきっと似ている。
たぶん。
知らないけど。
やがて、まぶたが少しずつ重くなってきた。
雑誌を開いたまま欠伸をする。
目をこすって、もう一回欠伸をする。
時計は見ない。見たら負けな気がした。
それでも身体は正直だった。
眠い。
かなり眠い。
烏丸は雑誌を閉じる。
赤マジックを持つ。
青マジックを持つ。
バラバラになった付箋の束もまとめる。
そして立ち上がった。
二階へ行く途中、ふと食洗機が目に入った。
烏丸は足を止めてしばらくそれを見て、少し考えてから言った。
「……あとで読むか」
観光雑誌を全部そこへ入れた。
ぎっしりと差し込んでいく。
真っ赤なマジックも青いマジックもカトラリー置きに入れる。色とりどりの付箋の束も一緒に放り込む。
扉を閉じた。ロックはかけない。
烏丸はそれで、なんだか妙に満足した。
理由は特にない。
ただそれで『片付いた気がした』。
「明日の自分なら、なんでここに入れたか分かるだろ」
たぶん。
そんな、いかにも烏丸らしい適当な感覚だった。
そのまま、二階へ上がる。
手に残されたのは、地図。
小さなお菓子の箱。
数枚の薄い紙片。
そして、ペン。
それだけだった。
部屋に戻ると、眠気のままふかふかベッドへ倒れ込む。
重い瞼をこすりながら地図を広げ、明日向かう予定の温泉街の場所を指で探す。
そして、手元にあった紙片へ、思いつくままに何かを書き殴っていく。
眠くて、眠くて、ペンを持つ指先から力が抜け、書いた文字がぐにゃりと歪んでいった。
もう一回書く。
だが、途中で自分が一体何を書いていたのかすら忘れてしまう。
思考が完全に停止しかけていた。
気付けば手元に転がっていたお菓子を、もそもそと一つ食べる。
おいしい。
もう一つ食べる。空になったお菓子の箱をパタンと閉じる。
ぼんやりと地図を見る。
歪んだ文字の紙片を見る。
眠い。
本当に、とても眠い。
その後のことは、あまり覚えていない。
そして翌朝。
目が覚めた時には、
地図も、
お菓子の箱も、
どこかへ消えていた。
*
おそろしく快晴の空の下、大豪邸の屋敷には旅立ち前の、どこか静かで慌ただしい空気が流れていた。
それは、これから始まる「旅行」への、言葉にならない期待感のようでもあった。
烏丸はいつものように階段を降りてキッチンへ向かう。
冷蔵庫から冷えた麦茶を出して喉を潤す。
窓の外を見る。今日も庭では、ハヤテが元気いっぱいに尻尾を振って、出発の時を待っていた。
それから何となく目についた食洗機を開けた。
中から出てきたのは、観光雑誌の束とマジックと付箋だった。すべて昨夜の自分が残したものだった。
烏丸はそれらを見て、ふむ、と小さく頷いた。
「……やっぱり多すぎたな」
彼は妙に一人で納得していた。
日本全国の観光雑誌をまるごと旅行へ持っていくには、さすがに重すぎるし、荷物になりすぎた。
「昨夜の自分は、冷静にそれを判断してここに置いておいたんだな」
たぶん。
自分の記憶の改ざんに、彼は100%満足していた。
そのまま食洗機から、本当に必要な数冊の雑誌だけを選んで取り出す。マジックをポケットに放り込む。バラバラの付箋もいくらか回収する。
そして何事もなかったように旅行準備を続けた。
地図のことも。
お菓子の箱のことも。
最後まで思い出さなかった。
*
広い廊下には、すでに人の気配が満ちていた。
正確には人ではないけど。
お抱え運転手のゾンビが、玄関前でこれから乗る大型車両の扉をカタカタと確認している。
執事のゾンビは、ガレージの前で積み込まれる荷物の最終チェックを厳格にこなしていた。
メイドのゾンビたちは、屋敷の中に配置が崩れた小さな布巾や手袋がないか黙々と回収したり、烏丸の混沌とした旅行鞄に歯ブラシやタオルを追加している。
誰も声を出さない。
ただ、それぞれが「いつも通りの仕事」をしているだけだった。
烏丸は階段を降りながらその様子を見ていた。
どこか修学旅行前の教室みたいだと思った。
机の位置はいつも通りなのに、どこか落ち着かない空気。
それぞれが自分の持ち場で、少しだけ早く、楽しそうに動いているあの感覚。
けれど、ここには誰も慌てている者はいない。
ただ、声のない完璧な準備だけが、淡々と進んでいた。
それだけだった。
重厚な玄関の扉を開けて外に出ると、イングリッシュガーデン風の前庭には、いつの間にかどこからか調達してきたらしい手頃な小型バスが静かに停まっていた。
その横には、あの老紳士ゾンビのガレージから引っ張り出してきた、磨き上げられた黒い最高級ヴィンテージカーが優雅に並んでいる。
計二台。
どちらもすでに、長距離の運行に耐えられるよう、完璧に整備が終わっているように見えた。
「席、足りる?」
烏丸はそう言いながら、バスの中を覗き込んだ。
運転席に座ったお抱え運転手のゾンビが、無言でゆったりと広い後部座席を手の平で指し示した。
問題ない、という仕草だった。
もう一台の高級車の後部座席には、小脇にワイン(ロマネ・コンティじゃない!)を抱えた老紳士ゾンビが、まるでこれからお気に入りのワイナリーへ向かうかのように背筋を伸ばして優雅に腰掛けている。
烏丸は少し考えてから満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ、乗るか」
その言葉に、誰かが反応したわけではない。
ただ、敷地内の空気の動きが少しだけ早くなった。
手際よく旅行鞄や大量の保存食がトランクに積まれる。
カチャリと扉が開かれる。
全ての最終確認が終わる。
ハヤテが一番に高級車に飛び乗る。
続けて烏丸も乗り込む。
出発は、自然に始まった。
合図も号令もない。
ただ、この大豪邸の中で止まっていた優しい時間が、再びゆっくりと動き出した、ただそれだけのようだった。
重厚な黒鉄の正門が内側から静かに開かれる。
タイヤがアスファルトを鳴らし、二台の車列がゆっくりと前へ進み出す。
その瞬間、烏丸は後ろを振り返った。
お世話になった大豪邸の屋敷。
見慣れた美しい建物。
手入れの行き届いた見慣れた庭。
そして、自分を今まで守り、見送ってくれた、ずーーーーーーーっと続く長い石塀のシルエット。
愛着のある我が家が、少しずつ、少しずつ後ろへと遠ざかっていく。
けれど、烏丸の顔に不安や寂しさは一切なかった。
むしろ、その瞳は少しだけ未来を楽しそうに見つめている。
「行ってきます!」
誰に向けたのか分からない言葉だった。
返事はない。
けれど車列は止まらなかった。
ゆっくりと、思い出の詰まった邸宅は夕暮れの向こう、背後へと消えていく。
まだ彼らの世界からは、何一つ大切なものは失われていないまま。
まだ、何も終わっていないまま。
烏丸とハヤテ、そしてゾンビの織りなす「短期旅行」は
今、無計画のまま始まったばかりだった。
(第19話・完)