山道に入ってから、空気の匂いが少しずつ変わっていくのが分かった。アスファルトの切れ目が増えて、代わりに土と石の色が濃くなる。木々が車の窓をかすめるたびに、光が細かく揺れた。
烏丸は窓を少しだけ開けていた。冷たい風が頬に当たるたびに、妙に気持ちがよくて、烏丸は目を細めた。
「なんか、ちゃんと旅行だな」
誰に向けたわけでもない声が、風の音に混ざって後ろへと消える。後部座席では、ハヤテが落ち着かない様子で何度も鼻を鳴らし、外の匂いを必死に追っていた。
運転手ゾンビは何も言わない。
ただ山道のカーブに合わせて、当然のようにハンドルを切る。速度は一定で、迷いがない。
まるでこの道そのものを何度も通っているみたいだった。
後ろの黒い高級車も同じ距離を保ったままついてくる。
老紳士ゾンビは窓の外を見ているんのかどうかも分からない姿勢で、ただ静かに座っていた。
山はどんどん深くなって、街の気配はもうなかった。
*
温泉街に入ったのは、夕方が差し込む頃だった。
両脇には古びた木造の建物が整然と並んでいる。それなりに年季は入っているはずなのに、どこも崩れたり荒れ果てたりはしていない。
軒先の看板はすっかり色あせているのに、夕暮れを知らせる灯りだけは、まるで誰かが先ほど点したかのように温かく灯っている。アスファルトの隙間や石垣の向こうなど、あちこちから白く濃い湯気があちこちから立ち上り、街全体を柔らかく包み込んでいた。
人の姿は、どこにもない。
代わりに、たくさんのゾンビだけがそこにいた。
浴衣を着て下駄を鳴らしている者。湯上がりのようにぼんやりと佇む者。彼らは皆、思い思いにこの街の空気を楽しんでいるようにみえた。
彼らを乗せた車が、ひときわ風情のある旅館の前で静かに止まった。
受付には一体のゾンビがぽつんと立っていた。カウンターの上には、年季の入った古びた帳面。今にもインクの切れそうなボールペン。そして、埃一つなくピカピカに磨き上げられた受付台。
それらはすべて、彼らを迎えるために完璧に用意されていた。受付ゾンビは、生前から続けてきた大切な仕事を、今も変わらず健気に、そして丁寧に続けているらしかった。
受付ゾンビは、車から降りて館内へ入ってきた烏丸たちを静かに見つめた。濁ったその視線が、一瞬だけ手元の古い帳面へと落ちる。それから、再び烏丸の顔へと戻った。
烏丸は歴旅館の立派な玄関を見上げながら、
(記帳するのめんどくさそうだな……)
と、小さく思った。
すると、受付ゾンビはゆっくりと帳面を閉じた。
静かに、パタンと。
まるで最初からそんな手続きなど必要なかったかのように。そしてそのまま、何事もなかったような自然さで、廊下の奥へと身体を向けた。
「あうぅぅ…」
かすれた声。それは間違いなく、部屋への「案内」だった。
その声に反応して、隣にいた運転手ゾンビが軽く会釈を返す。案内する側の受付ゾンビも、分かっているとばかりに小さく頷いた。意思の疎通は、それだけで完全に終わっていた。
名前も書かない。
住所も書かない。
宿泊人数さえ、わざわざ数えているようには見えなかった。ただ、自分たちがここに辿り着いたという、その事実だけを何よりも大事にしてくれているみたいだった。
「楽だな、ここ」
烏丸は素直にそう言って旅館へ入った。
*
旅館の中は静かだった。
青畳のい草の匂いと、どこか懐かしい硫黄の湯の匂いが優しく混ざり合っている。廊下の床板は鏡のようにピカピカに磨き上げられていて、歩みを進めるたびに、自分の足音がわずかな残響となって心地よく返ってきた。
案内された部屋の障子を開けると、そこにはすでに真っ白な布団が敷かれていた。まるで自分たちが到着する時間を完全に予期して、誰かが先回りして整えておいてくれたみたいに、シワ一つなくきれいに並んでいる。
ハヤテが一番に部屋へ飛び込んだ。
畳の上をぐるぐる回って、匂いを確かめるように転がる。
烏丸はそれを見届けながら、吸い寄せられるようにそのまま布団へと倒れ込んだ。ふかふかの敷布団が、身体を柔らかく受け止めてくれた。
「こういうの、いいよな」
大の字になって天井の木目を眺めながら、ぽつりと言った。深い意味なんて何もない。
ただ、この至れり尽くせりな空間に身を委ねていたら、自然と口から溢れ出てきた言葉だった。
*
夕方の風呂は、外にあった。
露天風呂から立ち上る白い湯気が、夕暮れに染まり始めた低い山の空気に優しく溶けていく。頬を撫でる風は驚くほど冷たいのに、肌を包み込む湯はやけに柔らかく、身体の芯までじわじわと染み渡る。
烏丸は首まですっぽりと湯に浸かって、しばらくの間、何も言わなかった。ただコンコンと湧き出る湯の音だけが、静かに耳の奥に残る。
「……あったかいな」
出た言葉は、それだけ。大層な感想も、ひねった理屈もいらない。ただただ心地よいという事実だけが、そこにあった。
少し離れた場所で、ハヤテが足湯に前足をつけて固まっていた。最初は警戒していたが、すぐに温かさに慣れたらしい。今はただ、気持ちよさそうにぼんやりと湯面を見つめている。
老紳士ゾンビも、ハヤテと同じように、ただ足だけを湯に入れていた。
目を細めているだけで、無言だった。
でも、その沈黙は不思議と重くなかった。むしろ、どこか穏やかで優しい静けさだった。
山の夕方は、急ぐこともなくゆっくりと沈んでいく。空の色が濃い青から藍色へと少しずつ暗くなり、代わりに立ち上る湯気の白さだけが、暗闇の中にぽうっと浮かび上がっていった。
ただ静かに、時間が流れていった。
*
夜になると、旅館の灯りがぽつりぽつりと増えていった。
廊下の奥の暗がりで、ゾンビたちが静かに動いている気配が微かに伝わってくる。
でも、不快な音はほとんどしない。バタバタと騒がしい足音も、忙しない話し声も一切なく、ただ、必要なことだけが、必要な速度で淡々と進んでいくみたいだった。
部屋に戻った烏丸は、ふかふかの布団に再び寝転がったまま、ぼんやりと天井の木目を眺めていた。
ハヤテはもう、すっかり夢の中だった。烏丸の足元にぴったりと寄り添い、小さな丸い塊になって、安心しきったぬくもりの中に深く沈み込んでいる。
老紳士ゾンビは、少し離れた広縁の窓際に座っていた。
相変わらず動かない。もちろん喋らない。
ただそこにいた。
彼らの気配を感じながら、烏丸は天井を見つめたまま、頭の片隅でぼんやりと考える。
「ずっとこういうのでもいいな」
声は小さい。
自分でもほとんど意識していない。
外の風が一度だけ、障子を揺らした。
それだけで夜は終わっていった。
(第20話・完)