山の奥。
人のいなくなった温泉街は、今日も静かだった。
あちこちから湧き出る白い湯気だけがゆっくりと昇り、色褪せた看板が風に揺れる。
ひっそりと佇む旅館の受付には、一体のゾンビがぽつんと立っていた。
生前から続けてきた仕事を、今日も続けている。
乾いた指先で、古びた帳面を開く。
意味もなく、閉じる。
そして、また開く。
そこに、明確な意志や特別な意味など何一つない。
ただ、そうしていないといけなかった。
そうして「生前の役割」をなぞっている間だけは、脳髄の奥底を執拗に埋め尽くそうとする、あのじっとりとした強烈な飢餓感と、肉体が朽ちていく引き裂かれるような苦痛が、ほんの少しだけ遠のいてくれるからだった。
旅館の奥、廊下の向こうでもまったく似たような光景が繰り広げられていた。
厨房のゾンビは、錆びついた包丁をただじっと握りしめている。客室係のゾンビは、シワ一つ許さない手つきで、何度も何度も布団の端を整え続ける。清掃係のゾンビは、這いつくばるような姿勢で、すでに鏡のように光る廊下をひたすら磨き上げている。
誰も来ない。
もう一年も。客なんて来ない。
来ても襲ってしまう。
それでも、彼らは生前の形をなぞり続けている。
そうしないと、頭が割れるほど苦しいからだ。
「(客、来ねぇなぁ……)」
「(来るわけないだろ。人間なんかもう絶滅しかけてんだから……)」
「(だよなぁ……)」
言葉にならないうめき声と諦めの混ざったそんな空気が温泉街全体に漂っていた。
その時だった。遥か山道の向こうから、不意に、微かなエンジン音が響いて聞こえた。
街の全員が、ピタリと動きを止めた。
受付ゾンビが勢いよく顔を上げる。
厨房ゾンビが驚きのあまり包丁を床に落とす。
客室係ゾンビが、敷きかけの布団を抱え込んだ姿勢のまま凍りつく。
「(え?)」
「(今の音、何?)」
「(車……か?)」
「(いやいやいやいや、そんなはずがない)」
「(人間!? まさか人間が来たのか!?)」
静寂に包まれていた温泉街が、一瞬にして音のないパニックでざわついた。
客が来るなんて出来事は久しぶりすぎて、誰一人として目の前の状況を正しく理解できない。
やがて、うっそうと茂る木々の隙間から、見慣れない車列が姿を現した。
それは先頭を行く大型のバス(運転手ゾンビが転がす車)だった。そしてその後ろをぴったりと追随する、ピカピカの高級車だった。
人間がいた。
正確には、烏丸がいた。
その瞬間だった。
苦痛が、消えた。
頭の奥を絶え間なく削り続けていた、あの悍ましい飢餓感が。内臓を直火で焼かれているようだった、あの凄まじい飢えが。死んでからずっと続いていた、ありとあらゆる不快感が。
すべての苦しみが、ふっと消え去った。
「(あっ)」
「(消えた)」
「(消えたわ)」
「(うわぁ……何これ……)」
「(久しぶりだ、この感覚……)」
「(生き返る……!)」
温泉街全体が、一瞬だけ水を打ったように静まり返った。
誰も、指一本すら動かせない。
苦痛から解放されたその瞬間が、あまりにも、あまりにも気持ちが良かったからだ。彼らはただその至福の余韻に浸り、放心していた。
そして。
数秒後。
全員が同時にまったく同じ結論を弾き出した。
「(客だ!!!!!!)」
その瞬間、温泉街が爆発した。
受付ゾンビが古い帳面を小脇に抱えて廊下を猛ダッシュする。
客室係ゾンビがふかふかの布団を両腕に抱えたまま、もの凄い勢いで階段を駆け上がる。
厨房ゾンビが勢いよく冷蔵庫の扉を開け放つ。
清掃係ゾンビは、今までチマチマと使っていたモップをその場に豪快に投げ捨てた。そんな悠長な道具を使っている場合ではない。
「(部屋!!)」
「(部屋!! 部屋だ!!)」
「(部屋まだ三〇二号室、血まみれだぞ!!)」
「(うわマジだ!! 床が濃い茶色じゃねえか!!)」
「(誰だよ、一週間前にあそこに死体放置したやつは!!)」
「(お前だよ!!)」
「(俺かよ!!)」
二階の廊下では、客室係のゾンビたちが文字通り転げ回りながら大パニックを起こしていた。
驚異的なスピードで、真っ白なシーツが宙を飛ぶ。
ふかふかの枕が正確なコントロールでベッドへと飛ぶ。
換気のために窓が次々と叩き開けられる。
何年も放置されていた、血で染みだらけのカーテンがもの凄い勢いで一気に引き剥がされた。
「(急げ急げ急げ急げ!! 間に合わせろ!!)」
「(客だぞ!!)」
「(何年ぶりだと思ってる、客だぞ!!)」
「(粗相の無いようにもてなすんだ、客だぞ!!)」
一年ぶりの客だった。
一方、厨房もまた別の意味で地獄と化していた。
調理担当のゾンビが、完全にテンパりながら冷蔵庫にすがりついている。
冷蔵庫が開く。
閉じる。
開く。
閉じる。
「(食材が全部腐ってる!!)」
「(知ってるよ!! ずっと放置されてんだから!!)」
「(どうする!? 何食わせる気だ!?)」
「(どうしようもねぇ!!)」
「(……山菜!!)」
「(そうだ、山菜だ!!)」
厨房ゾンビたちが、裏口から怒涛の勢いで山へと飛び出していった。
「(採れぇぇぇ!! むしり取れぇぇぇ!!)」
「(今なら苦しくない!! 身体が軽い!!)」
「(いくらでも走れるぞ!!)」
間違いなく、彼らの人生(と死後)の中で一番やる気に満ちあふれた、命懸けの山菜採りだった。
その頃、外の露天風呂もひっくり返るほどの大騒ぎだった。
「(湯船きれい!?)」
「( 苔生えてねぇだろうな!?)」
「(たぶん!!)」
「(たぶんじゃダメだろ!!?)」
「(もう一回洗うぞ!! 全員タワシを持て!!)」
全員で露天風呂を磨く。
全力で磨く。
岩を磨く。
床を磨く。
桶をミリ単位のズレもなくきれいに一列に並べる。
「(客だぞ!?)」
「(客だぞ!?)」
誰もが、それ以外の語彙を忘れたように同じ言葉しか言わない。
客だった。
久しぶりの。
本当に、本当に久しぶりの。
おもてなしする相手だった。
山道のカーブを抜け、ついに車列が旅館の目の前へと近付いてくる。
ダッシュでロビーへ滑り込んだ受付ゾンビが、大急ぎでカウンターの定位置へ戻る。
どれだけ猛ダッシュしようとも、息は一切切れていない。
ゾンビだからだ。
でも。
指先が、そして視線が、何となく落ち着かなかった。
「(帳面……)」
手元の古い帳面を見る。
かすれかけたペンを見る。
そして、目の前に立つ烏丸を見る。
「(あ)」
何となく分かった。
この人に、何も書かせたくない。
たぶん、これを書くのを面倒くさいと思う。
そんな気がした。
だから、迷うことなく帳面を閉じた。
パタンと、静かに。
その無駄のない動きは、まさにプロのそれだった。
客の気持ちを最優先にする。
それこそが、この旅館がずっと大切にしてきた精神だった。
「(これで良し……!)」
「(いや、宿として良しじゃない気もする)」
「(ホントは帳簿つけなきゃダメ)」
「(でも、そう望んでるから良しだ)」
「(うん、良しだな)」
脳内での高速の葛藤を終え、完璧なプロの顔に戻る。
そして。
旅館へ入ってきた烏丸が、心底感心したようにぽつりと言った。
「楽だな、ここ」
その言葉が耳に届いた瞬間、受付ゾンビは、誰にも気づかれないほどほんの少しだけ、誇らしげに胸を張った。
「(やった……!)」
「(褒められたぞ!!)」
「(嬉しい……)」
「(頑張って本当に良かった……!)」
フロントで受付ゾンビが密かに歓喜に震えていた、まさにその頃。
旅館のバックヤード(裏側)では、さらに壮絶な歓喜の嵐が吹き荒れていた。
「(布団間に合ったぁぁぁぁ!! )」
「(死体片付けたぞ!!)」
「(三〇二号室、完全セーフ!!)」
「(こっちも山菜山ほど採れたぞ!!!)」
「(露天風呂もピカピカだ!! 苔ひとつねぇ!!)」
「(よっしゃあああああ!!!!!)」
烏丸には決して見せない、誰も見ていない場所で。
温泉街のゾンビたちは静かに、だが熱く喜んでいた。
山の夕方は、そんな彼らの健闘を称えるようにゆっくりと沈んでいく。
白く清らかな湯気が優しく空へ昇り、彼らの努力の結晶である館内の灯りが、一つ、また一つと温かく点いていく。
そして最高のクオリティにまで磨き上げられた、あの露天風呂では。
「あったかいな」
首まで浸かった烏丸が、心底幸せそうにそう呟いた。
少し離れた場所。
物陰でこっそり湯加減を窺っていた、あのタワシを振り回していた清掃係ゾンビの耳に、その至高の褒め言葉が届く。
彼は胸を熱く熱く震わせながら、そっと力強く拳を握りしめた。
「(勝った……)」
「(何にだよ)」
「(知らんけど勝った……)」
温泉街の夜は、久しぶりに少しだけ賑やかだった。
(第20.5話・完)