朝の光は、山の中では少しだけ遅れて届く。
障子の向こうが白く明るくなっていることには早くから気付いていた。けれど、烏丸はしばらくの間、ふかふかの布団の中から頑なに動こうとはしなかった。
昨夜、極楽の露天風呂でじっくりと蓄えた温もりが、まだ身体の奥深くにじんわりと残っている。
青畳の清々しい匂いと、歴史ある建物の木の匂い。そして、どこか遠くで絶え間なく流れ続ける湯の音。
目を閉じればいつでも二度寝の闇に落ちそうだったし、目を開ければそのまましゃっきりと起きられそうでもあった。
その、どちらともつかない曖昧な境界線で行ったり来たりしながら、布団の中でゴロゴロと転がっている時間が、烏丸にとっては妙に心地よかった。
足元を見れば、ハヤテがまだ丸くなって微睡みのなかに沈んでいる。
広縁の窓際に目をやると、老紳士ゾンビが静かに座っていた。昨夜と全く同じ場所、まったく同じ品のある佇まいのままだった。老紳士がそこにいてくれるだけで、静寂でも安心感があった。
ただ、窓の外の景色だけが、夜の闇から清々しい朝へと美しく変わっていた。
山の深い緑は、遮るもののない朝日を浴びて、朝露のせいで少しだけ白っぽくきらめいて見える。さっと風が吹き抜けるたびに木々が大きく揺れ、そのたびに、サラサラという葉擦れの音と一緒に、複雑な葉の影が障子の上を生き物のように滑らかに流れていった。
すべてが静かで、すべてが自分をもてなすためだけに存在している。
そんな贅沢な空間をひとしきり堪能した後、烏丸はようやく上半身を起こし、ぼんやりと窓の外の緑を眺めながら呟いた。
「いいとこだな」
誰に言ったわけでもない。
けれど、その微かな声に反応して、足元で丸まっていたハヤテの小さな耳がぴくりと動いた。
旅館の廊下は、驚くほど静かだった。
人の声はどこからも聞こえない。
それなのに、誰かがどこかで慌ただしく動いている、あの独特の気配だけは途切れることなく満ちていた。
鏡のように磨き上げられた床の上を、不規則な足音がタタタと遠くを通り過ぎ、やがて小さく消えていく。
烏丸が部屋を出て廊下の角を曲がると、客室係の旅館ゾンビが一体、両手いっぱいに真っ白なシーツを抱えて歩いてくるところだった。
客室ゾンビが烏丸に気付いた。
ピタリと立ち止まる。
濁った瞳の奥で、何かを少しだけ考える。
それから、抱えたシーツを落とさないよう静かに壁の端へと身体を寄せた。
完璧な所作で、烏丸に道を譲った。
烏丸はそんなゾンビのプロらしい心遣いを、特に気にする風でもなく「あ、どうも」と会釈して通り過ぎた。
旅館ゾンビは、そのまま烏丸の背中を静かに見送った。
しばらく見送る。
かなり見送る。
烏丸が廊下の角を曲がって、その姿が完全に視界から消え去ってからも、ゾンビはまだシーツを抱えたまま、じっとその方向を見送っていた。
「(起きてる……)」
「(昨日あんなに遅かったのに、もう起きてる……)」
「(肌ツヤもいい……元気そう……)」
「(良かった……俺たちの山菜と温泉、ちゃんと効いたんだな……)」
言葉にならない、けれど温かい安堵の空気だけが、誰もいなくなった廊下にぽつんと残された。
玄関へ降りると、受付ゾンビがいた。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ姿勢。
埃一つない受付台も、変わらず綺麗なままだ。
年季の入った帳面も置いてある。
インクの切れかけたペンも置いてある。
ただ、小さな花瓶に刺さった花だけが、昨日より少しだけしおれていた。
それが、ここで確かに時間が経過したことを教えてくれる唯一の目印だった。
烏丸は受付を少し見やって、そのまま開け放たれた玄関から外へ出る。
山の清々しい朝の空気が、ひんやりと冷たく頬に触れた。
玄関前に目をやると、車はもう出発の準備が完璧に終わっていた。
頼れる運転手ゾンビがすでに運転席に深く腰掛け、ハンドルを握っている。老紳士ゾンビも、いつの間にか指定席である後部座席に乗り込んでいた。その周りでは、メイドゾンビたちがトランクの荷物の最終確認を静かに行っている。
誰も急いでいない。
それなのに、すべてが必要なタイミングで完璧に終わっている。おそろしくスマートで、心地よい朝だった。
「じゃあ行くね。また来る!」
烏丸が車に乗り込みながら、何気なくそう声をかける。
旅館の玄関口で、受付ゾンビは深く頭を下げた。
旅館の窓という窓から、何体ものゾンビがこっそり外を覗いていた。
客室のカーテンの隙間。
二階の薄暗い窓。
非常階段の踊り場。
植え込みの物陰。
ありとあらゆる場所から、彼らは息を潜めて車を見つめている。
烏丸はそんな熱い視線には全く気付かない。
ただ、後部座席のハヤテだけが、何かに気付いたように何度も何度も後ろを振り返っていた。
車がゆっくりと滑るように動き出す。
お世話になった旅館が、バックミラーの中で少しずつ遠ざかっていく。
その瞬間だった。
二階の窓辺で、客室係のゾンビの一体が、名残惜しそうに小さく手を振った。
すると、それを合図にしたかのように別の窓でも手が振られる。向こうの窓でも振る。非常階段のゾンビも大きく振る。なんと、フロントにいたはずの受付ゾンビまで玄関先へ滑り出てきて手を振っている。
最後には、館内にいたかなりの数のゾンビたちが、ちぎれんばかりに手を振っていた。
「(また来て!!)」
「(また来てねーー!!)」
「(絶対、絶対来てねーー!!)」
「(次はもっと美味しい魚料理仕込んどくからーー!!)」
「(露天風呂、もっとピカピカに磨いとくからーー!!)」
静かな山の空気の中で、生きている烏丸には決して届かない、けれど最高に熱い見送りだけがどこまでも続いていた。
車は静かに山を下る。
曲がりくねった険しい急カーブを、運転手ゾンビの見事なハンドルさばきでゆっくりと降りていく。窓の外を流れる景色は、一分ごとに少しずつその表情を変えていった。
視界を遮っていた深い緑の木々が、次第に遠ざかっていく。
代わりに、頭上の青い空がどこまでも広く、大きく広がっていった。
世界は相変わらず、しんと止まったままだった。
それでも、太陽だけは生前と何ら変わらず普通に昇り、普通に青い空を渡っていく。その公平な光が、車のフロントガラスを白く照らしていた。
烏丸は助手席で、食洗機から厳選してきた観光雑誌を開いていた。ページの端からは、色とりどりの付箋が何枚も飛び出している。
車内に流れ込む風を受けて、ページをめくるたびにパタパタと小気味よく揺れた。
温泉。
(行った)
高原。
(草すべりしたいな…)
牧場。
(んー…)
湖。
(アヒルさんボート!)
海。
海。
海。
気付けば、同じページを何度も何度も指でなぞるように見ていた。
そこには、眩しいほどの青い写真がいくつも並んでいる。
どこまでも広がる空。
ぽつんと佇む白い灯台。
誰もいない美しい砂浜。
写真から今にも吹き込んできそうな潮風。
どれも、これまでの人生で行ったことのない場所ばかりだった。
「海だな」
ぽつりと呟く。
そのまま、未練を残さない手つきでパタンとページを閉じた。
それで、今日の目的地は決まった。
車内の誰も、後ろをついてくるバスも、誰一人として反対なんてしない。
だから、これで完全決定だった。
*
海が見えたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
山を降りてから延々と続いていた長い一本道が、不意に視界の先でパッと開ける。
それまで窓の外をせわしなく埋め尽くしていた木々の深い緑がぷつりと途切れ、その向こう側へ、圧倒的な密度の「青」が姿を現した。
それは、頭上に広がる空とは明らかに違う青だった。
もっと深く、もっと広くて、どこまでも世界の果てまで続いているような、重みのある色だった。
烏丸は吸い寄せられるように、窓際にぐっと身体を寄せた。
「海だ」
それは誰かへの報告でも、大層な感想でもなかった。
目の前の壮大な景色にただ圧倒されて、自然と口から溢れ出ただけの、素直な響きだった。
そんな感動の瞬間も、運転手ゾンビは特に表情を変えることなく、いつもと変わらぬ模範的な姿勢で淡々とハンドルを握っている。
けれど後部座席のハヤテは、野生の勘で何かが始まったことを察したらしく、シートの上で勢いよく立ち上がって、必死に窓の外を覗き込もうとしていた。
車は山道を完全に抜け、そのまま波打ち際に沿って走る海沿いの道へと滑り出る。
窓の隙間から、どこか懐かしく、少しだけ塩辛い潮の匂いが一気に流れ込んできた。
たまらなくなって、烏丸は窓を全開にした。
入ってくる風が、今までの爽やかで冷たい山の風とはまるで違っていた。
少し湿っていて、まったりとした塩の気配が濃く混じっている。
視線の先、はるか遠くの水平線近くで、白い波頭が音を立てて砕けていた。ただそれを見ているだけで、胸の奥がなんだか少しだけ嬉しくなった。
理由は自分でもよく分からない。
でも、確かに嬉しかった。
車はやがて、海岸近くの広々とした駐車場へと滑り込んだ。
もしこれがこうなる前の世界の夏なら、海水浴客の車でぎっしりと埋まっていたのかもしれない、そんな場所だった。
古びた売店もある。
色あせたつまみ付きのシャワーもある。
よしず張りの休憩所もある。
それらはすべて、かつての賑わいの名残をとどめたまま、綺麗に残っていた。
ただ、生きている人間だけが、どこにもいなかった。
代わりに、数体のゾンビたちが、ただぼんやりと広い海を眺めるようにして砂浜に立っていた。彼らもまた、潮風が気持ちいいのだろうか。
烏丸の目には、それが気の早い観光客の姿のように見えていた。
車が止まり、烏丸がドアを開けて外へと降りる。
すると少し遅れて、後部座席からハヤテが弾かれたように飛び出した。
見たこともない広大な青と白い砂に大興奮した様子で、ハヤテは砂浜へ向かって一直線に駆けていく。
「ハヤテ! 待て!!」
声を張り上げて呼びながらも、烏丸はその後ろ姿を笑顔で追いかける。踏み出した白い砂が、靴の裏でキュッ、キュッと心地よく柔らかく沈んだ。
波の音が、近づけば近づくほど、その音は身体に響くくらい大きくなっていった。一定の規則正しいリズムで延々と繰り返されるその音は、不思議なくらい烏丸の心を落ち着かせた。
海は、おそろしく広かった。
自分の頭の中で思っていたよりも。
観光雑誌の写真で見るよりも。
かつてテレビの画面越しに眺めた映像よりも。
生で見る本物の青は、ずっと、ずっと広かった。
遠くの方に、綺麗な水平線が見える。
右から左へ、どこまで視線を走らせても決して終わることのない、地球の丸みに沿った一本の線だった。
烏丸はしばらくの間、何も言わなかった。ただ白い砂の上に佇み、その圧倒的な広さを静かに見つめていた。
ザザァと波が寄せては、白く泡立って返る。
寄せては、返る。
人間がいなくなって世界が一度終わったことなんて、最初から何も知らないみたいに、ただそれだけを何百年も前からずっと続けている。
その境界線の向こう側では、昼下がりの太陽を浴びて、空と海がキラキラと眩しく光っていた。
一方で、ハヤテは完全に興奮の極みに達していた。
ざばんと押し寄せる波打ち際へ向かって、果敢に突撃していく。
大きな波が迫ってくる。
「わっ」と焦ったように短い足で慌てて砂浜へと逃げ帰る。
波が引いていく。
今度は勢いよくそれを追いかける。
また次の波が来る。
キャンと鳴いて逃げる。
そしてまた、楽しそうに追いかける。
ハヤテは、その終わりのない一人遊びを延々と繰り返していた。
ただそれを黙って見ているだけで、なんだか少しだけ面白かった。
都会の喧騒も、生き残るための必死さも、ここには一切存在しない。ただ広い海と、はしゃぐ愛犬と、それを静かに見守る自分たちがいるだけ。
「やっぱり、海にして良かったな」
ハヤテは一度も振り返らない。
たぶん、本人だって自分が一体何をしているのか分かっていないのだろう。ただ目の前の波が面白くて、ただ楽しい、それだけだった。
少し離れた場所では、老紳士ゾンビが海を見ていた。
綺麗に着こなした黒い高級スーツの裾を潮風にパタパタと揺らしながら、ただ静かに立っている。
その近くには、いつの間にか地元のゾンビたちも集まっていた。
生前は海の男、漁師だったのかもしれない。
それとも、港の倉庫で働いていたのかもしれない。
今となっては、もう確かめる術もなかった。
誰も何も言わない。
ただ全員で同じ海を眺めていた。
本当に、それだけだった。
時間は、おそろしくゆっくりと流れていく。
誰も急ごうとはしない。
そもそも、急ぐ理由なんてこの世界にはもう何一つない。
ただ頭上の青い空だけが、時間の経過を知らせるように、少しずつ、少しずつ傾いていった。
やがて烏丸は、白い砂浜へとその場に直接腰を下ろした。
お昼の太陽の光を吸い込んだ砂は、ズボンの上からでも分かるくらい少し温かかった。
強い海風が吹く。
烏丸の前髪が激しく揺れる。
ハヤテはさすがに遊び疲れたらしく、少し離れた安全な砂浜の上でペタンと伏せていた。時々、寄せてくる波をじっと見ている。
時々、主人のいるこちらをチラリと見る。
それからまた、忙しそうに波の方へと視線を戻す。
目が休まる暇もなさそうで、見ているだけで忙しそうだった。
烏丸は立てた膝を両腕で抱え込むようにして、ただ海を眺め続けた。
どれくらいそうしていたのかは分からない。
時計なんて最初から見ていなかった。
見る必要も、見る意味も、今の烏丸にはなかったからだ。
ただ。
なんとなく。
本当になんとなくだけれど。
こんな風に広い景色を、かつて誰かと一緒に見たことがあったような気がした。
思い出せそうで、どうしても思い出せない。
まるで遠い過去に置いてきてしまった、目覚め際の夢みたいな曖昧な感覚だった。
一緒の時間を過ごしたはずの、その人の顔も。
耳に届いていたはずの、その人の声も。
それが一体どこだったのかという、場所の記憶も。
どれだけ手繰り寄せようとしても、何一つ具体的な形としては浮かんできてくれない。
ただ、胸の奥に、言葉にできない小さな引っ掛かりだけが微かに残る。
烏丸は少しだけ首を傾げた。
それから、すぐに考えるのをやめた。
分からないものは、いくら考えても分からない。
今の自分には、目の前に広がる美しい海があった。
隣には大好きなハヤテがいた。
少し離れた場所には、いつも静かに寄り添ってくれる老紳士ゾンビもいた。
今の烏丸にとっては、それだけで、もう十分にすぎるほど満ち足りていた。
それで良かった。良いことにした。
波が寄せては、白く砕けてまた返す。
空は時間の経過とともに少しずつその表情を変え、鮮やかな橙色へと染まっていく。
水平線の向こう側へ、一日の終わりを告げる太陽の光がゆっくりと沈み始める。
どこまでも広がっていた海全体が、夕焼けの眩しいグラデーションを鏡のように映し出して、燃えるような赤に染め上げられていた。
「きれいだな」
今度は何かを考えるよりも先に、自然と言葉が口から出た。
誰もその呟きに答える者はいない。
けれど、少し離れた場所にいた漁師ゾンビらしき一体が、その言葉を聞いて、ほんの少しだけ誇らしげに胸を張ったように見えた。
気のせいかもしれない。
いや、たぶん気のせいだった。
夕暮れの海は、耳が痛くなるほど静かだった。
ただザザァ、ザザァと繰り返される波の音だけが、絶え間なく続いている。
遠くまで。
どこまでも、世界の果てまで。
その規則正しい音をただ静かに聞きながら、烏丸はしばらくの間、白い砂の上に腰を下ろしたままそこに佇んでいた。
もう帰ろうとは、露ほども思わなかった。
ここではないどこかへ行こうとも、今は全く思わなかった。
ただ、この贅沢で穏やかな時間の中に、身体ごと深く沈み込んでいた。
強い海風が、さっと砂浜を吹き抜けた。
その風に揺られて、ハヤテの小さな耳が優しく揺れる。
老紳士ゾンビの着こなした黒い服の裾が、バタバタと静かに揺れる。
水平線の向こう側で、今日という日の最後の光が、ゆっくりと、名残惜しそうに沈んでいった。
烏丸は、その光が完全に消え去るまで、じっと見送った。
何も言わずに。
ただ静かに。
そして、もう少しだけ、この心地よい場所にいようと思った。
その微かな空気の変化を、バックミラー越しに、あるいはただの野生の勘で察したのか、運転手ゾンビが小さく一度だけ頷いた。
車は海沿いの道を静かに外れ、かつては一大リゾートだったらしき海辺の巨大な観光施設へとゆっくり入っていく。
おそろしく広い駐車場。
立ち並ぶシャッターの閉まった土産物屋。
海を一望できる立派な展望デッキ。
そして、塩風で文字がすっかり色あせた看板。
どれも、昔はたくさんの観光客で賑わっていたのだろう、かつての栄華を色濃く残す場所だった。
そこにも、当たり前のようにたくさんのゾンビたちがいた。
彼らもまた、生前の営みを守るように、それぞれの場所で静かに佇んでいる。
烏丸は車の窓からそのすべてをゆったりと眺めながら、なんの気負いもなく小さく呟いた。
「今日はここ泊まろうかな」
誰も何も言わない。
海も、もちろん何も答えない。
ただ、夕暮れに染まった穏やかな波だけが、彼らを歓迎するように、ゆっくりと、ゆっくりと岸へ寄せ続けていた。
(第21話・完)