海は今日も海だった。
ザザァ。
ザザァ。
白い波が寄せては返す。
空はどこまでも青く、潮風は穏やかで、水平線はどこまでも続いている。
何も変わらない。
本当に、何も。
変わったのは浜辺だけだった。
人間がいなくなってから、誰も掃除をしなくなったその浜辺には、あらゆる死体やゴミが転がっている。
波打ち際の流木に引っ掛かった、黒ずんだ腐乱死体。
半分白い砂に埋もれた、身元も分からない白骨。
遠い異国から何年もかけて流れ着いたらしい、色あせたプラスチックごみ。
ちぎれた漁網。
ラベルの剥がれたペットボトル。
カケラになった発泡スチロール。
穴の空いた壊れた浮き輪。
文字の読めない壊れた看板。
そして、なぜか奇跡的に壊れていない看板。
色々あった。
海だからだ。
潮の流れが、風の向きが、世界の終わりを詰め込んでこの場所に運んでくる。
流れ着く。
ここには、何でも流れ着く。
監視員ゾンビは、今日も錆びついた監視台の上にぽつんと立っていた。
ただ、立っているだけだった。
別に、どこを熱心に見ているわけでもない。
そもそも、何かを見ていても何の意味もなかった。
かれこれ一年以上もの間、この砂浜に海水浴客なんて一人も来ていない。
仮に来たところで、自分たちが本能のままに襲ってしまう。その結果、砂浜に転がる死体がまた一つ増える、ただそれだけの場所だった。
苦しかった。
生まれてから、いや、死んでからずっと、絶え間なく苦しかった。頭の奥を絶え間なくガリガリと削るような、あの悍ましい飢え。身体の奥からじわじわと腐り落ちていくような、不快な感覚。何をしようが、どこへ行こうが、その地獄は決して消えてはくれなかった。
だからこそ、ただ何も考えずに立っているしかなかったのだ。
その時だった。
遥か、遠く。
海沿いを走る一本の道路の向こうに。
一台の車が走ってくるのが見えた。
監視員ゾンビは、濁った目でそれをぼんやりと眺める。
車だ。
珍しいな。
湧き出た感想は、ただそれだけだった。
だが。
まさに、次の瞬間だった。
「(あ)」
苦しくない。
監視員ゾンビは唐突に、そう思った。
苦しくない。
今まで鉛のように重かった身体が、嘘みたいに軽い。
泥のようだった頭の奥が、驚くほどの速さで回り始める。
灰色にくすんでいた視界が、パッと鮮やかに澄み渡っていった。
久しぶりだった。
本当に久しぶりだった。
「(……あぁ)」
嬉しかった。
理由は自分でもよく分からない。
でも、涙が出るほど嬉しかった。
冷え切っていたはずの胸の奥が、ありえないくらいじんわりと温かかった。
「(ありがとう……)」
誰に向けたのか、自分でも分からない感謝の言葉だった。
そして。
数秒後。
手元にあった色あせた望遠鏡を覗き込み、はるか遠くの車内にいる烏丸の姿を捉えた。
その瞬間、覚醒した監視員ゾンビの脳が、ついに目の前の状況を100%理解した。
あの人のおかげだ。
ここに来る。
監視員ゾンビはそう思った。
客だ。
客が来る。
何があろうとも、あの人間は絶対にこの海へとやってくる。
なぜか分かった。
客だ。
客だ。
「(客だ!!!!!!!!)」
監視員ゾンビは、錆びついた監視台から転げ落ちるほどの勢いで、砂浜へと真っ逆さまに飛び降りた。
「(おい!! 起きろ!!)」
「(客だ!! 客が来るぞ!!)」
彼は砂まみれになりながら立ち上がり、周囲の物陰で死んだように佇んでいた地元のゾンビたちに向かって、声にならない絶叫を飛ばした。
「(え!?)」
「(客って……人間!?)」
「(マジで!?)」
その場の空気が一瞬で跳ね上がる。
しかし次の瞬間、全員の視線が自分たちの足元へと落とされた。
そこにあるのは、何年も放置され続けた、あの凄惨な「世界の終わりの残骸」だった。
五分後。
海岸全体が、ひっくり返るほどの大騒ぎだった。
「(おい待て、この砂浜を見ろ!!)」
「(死体だらけじゃねえか!!)」
「(死体拾え!!)」
「(死体だ!!)」
「(おい、死体めちゃくちゃ多いぞ!!)」
「(海だからな!! 流れ着くんだよ!!)」
元清掃員ゾンビが必死に叫ぶ。
叫んでいる、つもりだった。
「あ゛ーーーーーっ!!」
だった。
だが、覚醒した周囲のゾンビたちは全員、その意味を100%完璧に理解した。
死体だ。
ゴミだ。
回収だ。
とにかく急げ。
客が来る。
客だ。
「(流木もどけろ!!)」
「(ゴミもだ!!)」
「(ちぎれた網も!!)」
「(隠せぇぇぇぇ!!!!!)」
「(死体を遠くの砂に埋めろ!!!!!)」
「(ゴミを全部拾い集めろ!!!!!)」
「(とにかく全部、目につくものは全部片付けろ!!)」
一年以上も身体を蝕んでいた、あの悍ましい苦痛はもうどこにもない。
羽が生えたように身体が軽い。
走れる。
動ける。
客を迎え入れるためなら、いくらでも力が湧いてきた。
だから、いくらでも頑張れる。
苦痛から解放されたゾンビたちは、全員どこか、ちょっと嬉しそうだった。
「(楽だ……)」
「(嬉しい……)」
「(こんなに身体が動くなんて……)」
「(ありがたい……)」
砂浜を血眼で走り回りながら、彼らの間にはそんな言葉にならない幸福な感情が漂っていた。
その結果。
浜辺の清掃速度は、人間の常識を遥かに超越して異常な域に達していた。
流れるような死体回収。
ミリ秒単位のゴミ回収。
一網打尽の漂着物回収。
そして、完璧なまでの砂浜整地。
全力。
全員、死力を尽くして全力。
かつてこの場所が、生きている人間たちで賑わっていた「海岸リゾート」として始まって以来、間違いなく過去最高の本気だった。
*
そして。
烏丸が、何気なく呟いた。
「今日はここ泊まろうかな」
その言葉が風に乗って響いた瞬間、その場にいた全員の動きがピタリと止まった。
海風がさっと吹き抜けた。
誰も動かなかった。
数秒の間、世界が完全に静止する。
少し前にようやく砂浜の大掃除を終えて「フゥ……」とひと息ついていたゾンビたちの脳細胞に、その言葉の持つ意味が、凄まじい衝撃波となって突き刺さった。
泊まる。
あの神様のような人間が、日帰りではなく、ここに一晩「泊まる」と言ったのだ。
ということは、あの至福の時間が、苦痛のない奇跡のような時間が、明日まで、あるいはそれ以上ずっと続くということ。
「(泊まる!!!!!!)」
今度は、背後にそびえ立つホテル(観光施設)側が文字通り大爆発した。
*
ホテル。
フロント。
客室。
清掃。
全滅。
完全なる大パニックだった。
「(泊まる!?)」
「(泊まるの!?)」
「(聞いてないぞ!!)」
「(絶対日帰りだと思った!!)」
「(俺もだ!! さっき砂浜のゴミ拾っただけで終わりだと思ってた!!)」
フロントゾンビがカウンターをガツガツと叩いてパニックを表現する。
客室係ゾンビが動転のあまり階段を文字通り転げ落ちていく。
清掃ゾンビはさっき拾い上げたばかりのモップを、今度は天高く放り投げた。
「(客室だ!! 急いで客室を用意しろ!!)」
「(どこ使う!? どの部屋にする!?)」
「(オーシャンビューだろ!!)」
「(最上階の一番いい部屋だ!!)」
「(露天風呂付きスイート!!)」
「(よし、全部磨け!! 埃一つ残すな!!)」
全員、凄まじい速度で四方八方へと散っていった。
*
ホテル自体は、一年放置されたにしては意外なほど綺麗だった。
客室係のゾンビは毎日、真面目に布団を整え続けていた。
清掃係のゾンビは毎日、床が鏡のようになるまで廊下を磨き上げていた。
フロントのゾンビは毎日、欠かさず受付の定位置に立ち続けていた。
だから、ホテルとしての基本部分は何も問題はなかった。
本当に問題なのは、別の場所だった。
長年、誰も、ゾンビですら使っていなかったエリア。
展望デッキ。
大宴会場。
大浴場。
非常口。
そして、暗い倉庫。
烏丸が気まぐれに「ちょっと見てみようかな」と言い出しそうな、まさにその辺りだった。
「(展望台に鳥の巣があるぞ!!)」
「(撤去だ!! 今すぐ鳥にお立ち退き願え!!)」
「(手すりが潮風の塩で真っ白だ!!)」
「(磨け!! 削り落とせ!!)」
「(急げ!! 間に合わなくなるぞ!!)」
*
一方。
お土産物屋さん。
ここは完全に放置されていた。
売店ゾンビたちが、錆びついたシャッターの前にぞろぞろと集まる。
「(客だな)」
「(客だな)」
「(泊まるらしいな)」
「(らしいな)」
沈黙。
「(ホテル終わってねぇだろ)」
「(終わってない)」
「(客もう入館するぞ)」
「(するな)」
「(そうだな…)」
さらに沈黙。
「(土産物屋は?)」
「(無理)」
「(だよな)」
「(だよな)」
重苦しい沈黙。
「(……やる?)」
「(無理)」
「(無理だな)」
「(明日やろう)」
「(明日か)」
「(今日は寝てもらおう)」
「(そうしよう)」
「(徹夜か…)」
全員が、深く、静かに頷いた。
今はホテル側が最優先。
ここを今から現役のお土産屋に戻すのは、物理的にどう考えても無理だった。
明日。
明日、客が起きてくるまでに頑張ろう。
全員で協力して、一晩かけてなんとかしよう。
そういう、非常に大人の結論になった。
たぶん。
*
夕方。
海は、燃えるような赤に染まっていた。
浜辺は、息をのむほどに綺麗だった。
不気味な死体は、どこにもない。
色あせたゴミも、ない。
波に洗われた流木も、ほとんどすべて消え去っていた。
「きれいだな」
その何気ない一言が、潮風に乗って響いた瞬間。
少し離れたゴツゴツとした岩陰で、今しがた限界突破のクリーン作戦を終えたばかりの砂浜整備班のゾンビたちが、静かに固まった。
「(今の、聞いた?)」
「(聞いた)」
「(……きれいだって)」
「(きれいだってよ……)」
じっとりとした、けれど震えるような沈黙。
それから。
「(頑張って、本当に良かったな)」
「(……良かった)」
誰かが声にならない意識を漏らした。
岩陰の全員が、深く、深く頷いた。
彼らの胸の奥には、一年ぶりに味わう圧倒的な「達成感」と「おもてなしの喜び」が満ちあふれていた。
海風が優しく吹く。水平線の向こう側へと、今日という日の太陽がゆっくりと沈んでいく。
そして。
烏丸の為に少数残された砂浜班が最高の涙を流している、そのすぐ背後の巨大な海辺のリゾートホテルでは。
「(最上階終わったか!!)」
「(まだ!!)」
「(これ終わる?!!)」
「(うるせぇ急げ!!)」
「(終わらすんだよォ!!)」
「(客寝るぞ!!)」
「(分かってる!!)」
客室を、展望台を、大浴場を突貫工事で磨き上げるホテル班のゾンビたちが、まだ死ぬほど忙しく走り回っていた。
(第21.5話・完)