朝、烏丸は特に理由もなく目が覚めた。
枕元を離れて窓の外を見ると、昨日感動したあの真っ白で綺麗な砂浜が、朝の光を浴びてきらきらと輝いている。
それを見つめながら、烏丸はふと思いついた。
「ちょっとこの辺、歩くか」
完全に“散歩の延長”のノリだった。
だが、その一言を溢した瞬間、廊下の向こうやロビーの方から、ガタタッ、ドササッという慌ただしい物音が一斉に響いた。
烏丸は不思議に思うも、「なんか崩れたんだな」と特に気にせず部屋を出た。すると、いつの間にかメイドゾンビを先頭に、ホテルのスタッフゾンビたちがゾロゾロと後ろについてくる。なんだか妙にソワソワしているような気がしたが、烏丸は後ろを振り返ることもなく「なんか今日、人(ゾンビ)が多いな」くらいにしか思っていなかった。
まずは昨日案内を見て気になっていた展望デッキ。
そこは埃も汚れもなく、とても綺麗だった。眺めも一望出来てとてもよかった。
「おお~」
烏丸は感嘆の声を上げ、いろんな角度から海を見始めた。
烏丸は基本素直な質なので、”立入禁止”と書かれたドアは一瞬見ただけで通り過ぎる。
後ろのスタッフゾンビたちが一斉に「あうぅ……」と小さく息を漏らした、その瞬間だった。
烏丸が、ある一角でピタリと足を止める。
「なんかここだけ、葉っぱが密集してるな?」
観葉植物の配置が、ほんの数センチだけ不自然にズレている気がした。
何気なくその隙間を覗き込んだ烏丸が、声を上げる。
「え、なにこれ?」
植物の影に隠されていたのは、壁と同化した小さな隠し部屋の扉だった。
烏丸がわくわくしてノブを回すと、すんなり開いた。
中は埃と湿気まみれのひどい状態の空間が広がっていた。元々質がよかっただろう椅子も、インテリアもひどく劣化したり、埃を被っている。内装と併せてデザインされただろう棚には古い冊子もあった。
ただ、そこから見下ろす海の眺めだけは、先ほどの展望デッキのどの位置の眺めより本当に極上だった。
烏丸はふむ、と頷く。
「ここ、掃除するか……」
その言葉が終わるより早く、メイドゾンビが弾かれたように部屋へ飛び込んだ。
どこからか取り出した掃除用具をもの凄まじい速度で操り、両手を残像のように動かしながら、一瞬で部屋をピカピカに磨き上げていく。終わると、スタッフゾンビに向かってフンスと鼻を鳴らし、烏丸にはこれ以上ないほど誇らしげに胸を張った。
烏丸は「早い。…すごい…」と感心した。
展望デッキの次は、途中にあった倉庫が気になった。薄暗い倉庫の中には、長年使われていなかったらしき浮き輪やカラフルなパラソルが並んでいた。烏丸はそれらをみて(まだ使えるな…)と思った。
「これ、持って行っても…」
スタッフゾンビが頷くより早く、メイドゾンビたちは無言で、けれど妙に手際よくそれらを抱えて運び出していった。
「え?いいの??」
スタッフゾンビ、メイドゾンビはそろって頷いた。あまりにも迷いのない肯定に押されながらも烏丸は納得した。
烏丸は連れ立って一度客室へと戻った。
窓際で静かに佇んでいた老紳士ゾンビの前に立つ。
「一緒行こ」
声をかけると、老紳士は小さく頷いた。
次に向かった先は、おそろしく広大なホテルの屋外プールだった。
水がきらきらと輝いていて、文句なしに綺麗だ。
「綺麗だな」
烏丸が呟くと、近くのパラソルの陰にいたスタッフゾンビたちが、嬉そうに体を小刻みに揺らした。
烏丸は部屋の荷物から、なぜか大量に持ってきていた黄色い「あひるさん」のおもちゃを取り出すと、プールへ一斉に投入した。水面を埋め尽くす大量のあひるさん。
「よし」
烏丸はプールに入り、そのあひるさんたちに囲まれながら全力で遊び始めた。
それも、かなり長時間をかけて。
おそろしく真剣に、全力で。
近くの物陰から、ゾンビたちが声を殺してじっと烏丸の様子を見つめていたが、烏丸は全く気付かず遊ぶ。
最後には老紳士ゾンビ、ゾンビメイドたちと一緒にあひるさんを並べ続けた。
プールで遊び疲れた烏丸が、次に向かったのは敷地内のお土産物屋だった。
昨日まではシャッターが閉まって錆びついていたはずなのに、なぜか一店舗だけ、明かりが灯って綺麗に開店していた。
「あ、開いてる」
烏丸は嬉しそうに中に入っていく。
カウンターの奥では、店員ゾンビが微動だにせず立っていた。
店内をうろうろしながら、烏丸はなぜか、すぐ隣に一緒にいる老紳士ゾンビへのお土産を物色し始めた。
棚の奥から見つけ出したのは、やけに派手な南国感あふれるアロハシャツ。烏丸はそれを、いつも高級スーツを着こなしている老紳士の体に当ててみる。
「似合う」
その場で着せてみると、どうだろう。
老紳士ゾンビの品のある白髪と佇まいに、そのシャツが恐ろしいほどに、滅茶苦茶に似合っていた。後ろで見守っていたメイドゾンビや店員ゾンビたちが、一斉にハッと息を呑んでガタガタと体を震わせる。お供の執事ゾンビにいたっては、ボロボロと音のない涙を流しながら、「あうぅ……(震え)」と蚊の鳴くような声を絞り出した。
老紳士ゾンビは表情を変えないまま、アロハシャツの袖を静かに見つめている。
烏丸はみんなの様子に深く頷いて、即座にお買い上げを決めた。
そこで手に入れた新しい水着に着替え、烏丸が次に向かったのは大浴場だった。
脱衣所を抜けて中に入ると広い湯船には、いつの間にか地元のゾンビたちが何体も先に入って、静かに湯に浸かっていた。
「まぁ、風呂だしな」
混浴状態の湯船に入りながら、烏丸は特に気にする風でもなく、ただ「広いな」とだけ思って肩まで浸かった。ゾンビたちものんびりと、ただ同じ温もりを静かに分け合っている。会話は一切ないが、不思議と平和な時間が流れていた。
──だが、夜になると、その静寂が少しだけ違う色を帯びた。
みんなが寝静まるか、それぞれの持ち場へと分散していった深夜。広い露天風呂に、烏丸だけがぽつんと入っていた。
昼間の賑やかさは嘘のように消え去り、暗闇の向こうから、ザザァ、ザザァと繰り返される海の音だけが、耳の奥に響いている。
烏丸は湯に浸かったまま、今日一日をぼんやりと思い返していた。
朝の散歩、隠し部屋、プールでのあひるさん、売店でのアロハシャツ。
どれも最高に楽しかった。
不満なんて何一つない。
でも。
「……やっぱりちょっと、さみしいかも」
声は小さかった。
楽しかったことは事実だ。でも、思い返してみても、誰かと会話を交わした記憶などない。肯定のようなうめき声はあっても、自分の声だけがそのまま潮風に吸い込まれて消えていったような感覚。
楽しさと引き換えに、胸の奥にぽつんと、名前のない小さな空白だけが残った。
烏丸は少しだけ首を傾げたが、すぐにそれ以上考えるのをやめて、夜の海を見つめ続けた。
(第22話・完)