ゾンビ公認:この人間は食べられません   作:めぇ

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第23話:無計画旅行・終点までの道

 

翌朝、どこか懐かしい潮風が吹き抜ける漁港には、食欲をそそる香ばしい焼き魚の匂いが漂っていた。

海辺にぽつんと佇む小さな食堂の外では、元・漁師のゾンビたちが朝から何やらそわそわと、落ち着かない様子で包丁や網を手に動き回っていた。もちろん、旅の主役である烏丸がまだ起きてくる前のことである。

 

「(……焼けたか)」

「(いや、まだだ。皮目をもうちょっとパリッとさせろ)」

「(味噌汁の出汁は)」

「(バッチリできてる。地元のワカメもたっぷり入れた)」

「(刺身も一緒に出すか?)」

「(おいおい、朝だぞ。朝から刺身か?)」

「(……でも、あのなんか、普通に美味そうに食いそうだろ)」

「(……確かに食うな)」

 

全員の意見が、無言のまま綺麗に一致してコクコクと深く頷いた。

 

食う。

あの客は、出されたものをいつも本当に美味そうに食う。

朝から刺身だろうが、漬け丼だろうが、絶対に残さず綺麗に食う。

漁師ゾンビたちの間には、もはや揺るぎない確信があった。

 

そして実際に、スタッフゾンビに案内された海の見える食堂の窓際の席にて。

烏丸は目の前にずらりと並んだ圧倒的なボリュームの朝食を見て、期待通りに目をキラキラと輝かせていた。

 

香ばしく焼けた大ぶりの焼き魚。

きらきらと光る獲れたての生しらす。

タレがしっかり染み込んだ特製の漬け丼。

魚の旨味がこれでもかと溶け出した熱々のあら汁。

旨味が凝縮された干物。甘くてふっくらとした卵焼き。

 

「おお……すごいな」

 

烏丸が箸を手に取る間にも、厨房の奥から漁師ゾンビたちが次々と盆を持ってすり足で現れる。

 

小鉢。

小鉢。

 

「え、なんかどんどん増えてない……?」

 

小鉢。

また小鉢。

 

「多くない?」

 

もちろん理由は一つ、配膳の補助をしていた我が家のメイドゾンビたちが、漁師たちの「これもそちらのお坊ちゃまに!」という熱意を次々とスマートに受け取っては、テーブルの隙間に器を滑り込ませているからだった。

気づけばテーブルの上は、朝食のレベルを完全に超越した「漁港のフルコース」へと変貌を遂げていた。

 

烏丸はさすがに苦笑した。

けれど、そう言いながらも箸を伸ばし、普通に、なんの抵抗もなく食べ始める。

 

美味そうに。

本当に、見ているこちらまで腹が減ってくるような顔で、幸せそうに。

 

そして、あら汁をずずっとすすり、至福の吐息とともに呟いた。

 

「うまい」

 

その、たった一言が食堂の空気に落ちた瞬間だった。

厨房の奥にいた、ガチガチに緊張していた漁師ゾンビの一人が、力が抜けたようにガタッと壁に手をついた。

 

「(うまいってよ……)」

「(うまいってな……)」

「(そうかぁ……よかったぁ……)」

 

薄暗い調理場のあちこちで、言葉にならない静かな感動が、じわりと広がっていった。

世界が終わってから、一年もの長い時間。

命がけで海に出て魚を獲っても、それを食べて「うまい」と笑ってくれる客など、この世界にはもう一人もいなかったのだから。彼らの失われていた料理人としての魂が、烏丸の素直な一言によって、今確かに救われた瞬間だった。

 

 

 

 

 

朝食後。すっかりピカピカに清掃され、どこか誇らしげな空気が漂うホテルの広大なロビーで、烏丸はふかふかの特等席のソファに腰掛けていた。テーブルの上に付箋だらけの雑誌を所狭しと広げていた。

 

「次、どこ行こうかなぁ……」

 

そのすぐ隣には、昨日彼からプレゼントされたド派手な南国風のアロハシャツを、恐ろしいほどの品格で着こなした老紳士ゾンビが静かに座っていた。その少し後ろには、その奇跡のダンディズムにまだ視線で感動しているお供の執事ゾンビ。

さらに後ろには、烏丸の旅行鞄をいつでも持てるようスマートに控えている我が家のメイドゾンビたち。

そしてそのまた後ろには、昨夜メイドゾンビから直伝された神速の清掃技術を身につけたホテルスタッフゾンビたちが、ズラリと綺麗に並んでいた。

 

今や、リゾートホテルの全員が息を呑んで彼の動向を見守っている。

 

「温泉、海の次は、やっぱり牧場かな。あ、でもこの滝の近くでカヌーっていうのも捨てがたいな……」

 

烏丸がペンを弄びながら悩む。

ゾンビたちは全員、心の中で(そこが良いです!)(いや、こちらのルートの方が景色が極上です!)と熱い思いを滾らせていたが、誰も彼に気の利いた助言をしてあげることはできない。

どれだけおもてなしの心が完璧に揃っていても、彼らの喉からはもう、うめき声しか出ない。ゾンビ同士には通じても、人間にはその声に込めた意志が通じないからである。

 

 

烏丸は広げた観光雑誌のページをめくりながら、本気で悩み込んでいた。

 

「山もいいなぁ」

パラパラ。

「……あ、洞窟もあるのか。涼しそうだな」

パラパラ。

「港町も面白そうだし、どこに行っても楽しそうだな」

 

その時だった。

ふと、大きなガラス窓の向こうへと烏丸の視線が向く。

 

 

遥か遠く。

青い海に沿ってどこまでも続く、緑の草原。

その美しい景色の真ん中を、不自然に横切るものがあった。

赤茶けてひび割れた、錆びついた古い鉄橋。

そして、初夏の青々とした草むらに半分ほど埋もれるようにして、どこまでも静かに伸びている二本の鉄の線。

 

「……線路?」

 

烏丸の呟きがロビーに落ちた、まさにその瞬間だった。

彼の後ろにズラリと控えていたゾンビたちが、一斉に彫刻のようにガチガチに固まった。

 

「(あっ……)」

「(そこ、見ちゃったか……)」

「(あっちの線路に目を付けちゃったか……)」

 

ホテルの支配人ゾンビも、屋敷のメイドゾンビたちも、お供の執事ゾンビまでもが、濁った目を丸くして一斉に息を呑んだ。

そこは、世界が滅び、人がいなくなってから、ずっと手付かずのまま遺棄されていた「終点」へと続く、誰も通れないはずの鉄路だった。

 

 

 

 

 

 

わずか十分後。

烏丸は、あの草に埋もれた古い線路の上を楽しそうに歩いていた。

錆びついたレールを平均台のようにして、両手を広げてバランスを取りながら一歩一歩進んでいく。

 

「へえ……面白いな、ここ」

 

彼は、本当に楽しそうに目を輝かせていた。

パンデミックで大学が停止し、自分の時間がぷつりと途切れてしまってから、こんな風にワクワクする「冒険」のような散歩をしたことなど一度もなかったからだ。

 

もちろん、彼自身は何も知らない。

自分の何気ない思いつき一つで、今この瞬間、線路の先がどうなっているのかを。

 

 

烏丸がのんきにレールを一歩踏みしめる、その遥か数十メートル先から終点へ向かうルートの陰では、凄まじい熱量の裏方たちが蠢いていた。

 

ガガガガッ! ドササササッ!

 

「(第2橋梁、ボルトの緩み及び強度の確認完了!!)」

「( 若旦那様がもし飛び乗っても絶対に崩れませんね!?)」

「(はい!!)」

「(よし次!!!)」

「(先のカーブに倒木あり!!)」

「( 全員で退かせ!! 急げ!!)」

「(手ぇ空いてたらすぐ来い!)」

「(はい!!)」

「(トンネル内の崩落及びゾンビ以外の危険生物なし!! 安全確保!!)」

「(先行保守班、これより終点方面の線路をすべて緊急整備いたします!!)」

 

ホテルのスタッフゾンビも、地元の漁師ゾンビも、そして烏丸家のメイドゾンビたちまでもが、線路沿いの草むらや暗闇をマッハの速度で先回りしながら、猛烈な勢いで「緊急線路保守」を進行させていた。

 

誰にも頼まれていない。

報酬が出るわけでもない。

 

ただ、自分たちの最愛の「お客様」や「若旦那様」が、歩くだけでいい顔をしてくれる。

 

そのたった一つの理由のために、彼らは生前のプロ意識のDNAを爆発させ、完全に自主的な、世界で最も過保護な鉄道保守事業をやってのけているのだった。

 

 

 

 

 

 

初夏の柔らかな草が、心地よい潮風に吹かれてサラサラと揺れている。

レールの脇からはきらきらと輝く海が見え、見上げる空はやけに広かった。

 

烏丸は歩みを止め、足元の古い枕木を見下ろした。

「へぇ……」

 

その場にすとんと、しゃがみ込む。

指先で錆びついた犬釘をそっと触り、じっくりと観察を始めた。

 

「近くで見ると、なんか面白いな。一つずつ形が微妙に違ってて」

 

その何気ない一言に。

烏丸のすぐ後ろで、衣服の引っかかりを心配して控えていた、元・保線員(線路のメンテナンス係)のゾンビがピタリと足を止めた。

 

「(……面白いのか……)」

 

生前、自分が毎日、毎日見ていた景色だった。

何十年もの長い間、飽きるほどハンマーを叩き、レールの歪みを測り続けてきた。

だから、考えたこともなかったのだ。

こんな、ただ錆びついて草に埋もれていくだけの仕事の跡が、誰かにとって「面白い」なんて言ってもらえる日が来るなんて。

 

保線員ゾンビは、自分のゴツゴツとした油まみれの大きな手を静かに見つめた。

言葉は交わせない。けれど、自分の生きてきた証が、目の前の若者によって優しく認められたような気がして、彼の止まった胸の奥に、じわりと温かい誇りが蘇っていた。

 

 

さらに線路の上を歩いていくと、草むらのあちこちに初夏の柔らかな光を浴びて、小さくて白い花がぽつぽつと可憐に咲いていた。

烏丸はふと足を止め、その足元を見つめる。

 

「……綺麗だな」

 

その何気ない一言が、静かな風の中に落ちた瞬間だった。

車列の少し後ろからゆっくりとついて歩いていた、地元の元・ばあちゃんゾンビが、濁った目を小さく、本当に愛おしそうに細めた。

 

「(……昔から、ここに咲いてたねぇ……)」

 

その隣を歩く、麦わら帽子をかぶった元・おじさんゾンビが、深く、静かに頷く。

 

「(ああ、駅までの道に、毎年この季節になるといっぱい咲いてたな)」

「(あったねぇ。夕方になると、学校帰りの子供らが、お母さんへのお土産だって言って、よく引きちぎるみたいに摘んで帰ってたよ)」

「(懐かしいな。俺も生前、娘に一本もらったっけ。洗面所のコップに挿してあってさ)」

 

 

烏丸には、彼らの声は届かない。聞こえるのはゾンビのうめき声と、ただ葉っぱが擦れ合うカサカサという音だけ。

けれど、言葉を失った者たちの胸の奥で。烏丸の「綺麗だな」という一言を呼び水にして、止まっていたはずの、かつての暖かで何気ない日常の“思い出話”が、静かに、じわりじわりと始まり、波のように広がっていった。

 

世界が滅び、変わり果ててしまっても。

彼らがこの土地で確かに人と交わり、誰かを愛し、生きていたという大切な記憶の欠片が、烏丸のピュアな言葉によって、今、色鮮やかに呼び覚まされていくのだった。

 

 

 

そして、その時だった。

烏丸の視線が、ふとレールの脇の草むらへと向かった。

誰かに見られている気がした。

 

それは、欲を感じなかった。

烏丸の足がピタリと止まる。

 

草むらの、線路から少しだけ離れた場所。

背の高い初夏の草木に遮られた緑の陰に、小さな影がぽつんと佇んでいた。

 

肩には、雨風にさらされて形が崩れたぼろぼろのランドセル。頭には、すっかり色褪せてしまった、かつての通学用の黄色い帽子。

それは、まだ小さな小学生くらいのこどもゾンビだった。

 

 

こどもゾンビは、濁った目でじっとこちらを見つめていた。

烏丸と、ぱちりと目が合う。

焦ったように、小さな身体が草むらの奥へぱっと隠れた。

 

しかし、生い茂る草の隙間から泥のついた小さなスニーカーの足が丸見えになっていた。

お世辞にも、全然隠れられていなかった。

 

 

「……」

 

烏丸はしばらくその足先を静かに見つめた。

 

烏丸は急かすこともなく、その場にすとんと優しくしゃがみ込んだ。

そして、隠れんぼの続きをするみたいに、柔らかい声をかける。

 

「――おいで」

 

草むらの奥で、小さな黄色い帽子がびくりと跳ねた。

声をかけられた小学生ゾンビは、完全に想定外だったのか、草むらの中でガチガチに固まってしまった。

それと同時に、烏丸の後ろにずらりと並んでいた地元の大人ゾンビたちも、一斉に息を呑んで彫刻のように固まる。

 

「(……今、おいでって言った)」

「(ああ、あの人、確かにそう言ったな)」

「(嘘だろ、俺たちバケモノなのに、子供を誘ってくれたぞ……)」

 

線路の上の風が、一瞬だけ止まったかのように思えた。誰もが言葉を失い、固唾を呑んで小さな黄色い帽子の背中を見守っている。

 

小学生ゾンビは、泥のついた靴先をもじもじと動かしながら、しばらくどうすべきか激しく迷っていた。

でも、自分に向けられた烏丸の視線が、どこまでも優しく、なんのトゲも恐怖も含んでいないことに気づくと。

 

おそるおそる。

本当におそるおそる、ガサガサと草を分けて、全然隠れられていなかった草むらから姿を現した。

烏丸はしゃがんだまま、その小さな身体を驚かせないように、そっと優しく片手を差し出した。

 

「――行こう」

 

小学生ゾンビは、目の前に出された烏丸の大きな手を見つめた。

汚れてカサカサになった自分の小さな手と、烏丸の体温のある手を、濁った目でじっと、じっと見つめる。

 

そして。

意を決したように、そっとその手を握り返した。

 

ひんやりとした小さな、でも確かにそこにいる手のひらの感触が、烏丸の手のなかに伝わる。

 

「よし」

 

烏丸は嬉しそうに少しだけ笑うと、小さな手を繋いだまま、ゆっくりと立ち上がった。

後ろで見守っていた地元のばあちゃんゾンビやおじさんゾンビたちはかつてないほどの激しい興奮で完全にパンクしかけていた。

 

「(……あっ、おい見ろ!!)」

「(手ぇ繋いだ!! 躊躇なく繋いだぞ!!)」

「(手ぇ繋いだぞ!!)」

「( 俺たちバケモノの手を、あんな普通に……!!)」

「(すげぇ……本当にすげぇ人だな……)」

 

ホテルの清掃班ゾンビも、地元の元漁師ゾンビも、お供の執事ゾンビまでもが、言葉にならない熱い感動でガタガタと全身を震わせ、心の中で大歓声を上げていた。

我が家のメイドゾンビたちは、小さな新入りのために鞄からサッと犬用のおもちゃ(ハヤテが貸してくれる気らしい)や、食べられないけれど持っているだけで嬉しくなる小さなお菓子を差し出せるよう、一歩引いた位置から完璧なサポートの補助に入っている。

 

アロハシャツを優雅に着こなした老紳士ゾンビも、その光景をじっと見つめ、品良く、けれど誇らしげに目を細めていた。

 

 

 

烏丸はそんな周囲には1ミリも気づかないまま、繋いだ手を優しく揺らした。

それから、二人で並んでゆっくりと歩いた。

 

錆びついた線路の上を、小さな手を繋いだままで。

すぐ横に広がるきらきらとした青い海を見ながら。

初夏の心地よい潮風を全身に受けながら。

 

 

烏丸は、レールの脇の草むらに、先ほどばあちゃんゾンビたちが懐かしんでいたのと同じ、小さくて白い花が優雅に一輪咲いているのを見つけた。

 

 

ゆっくり歩みを止め、その場に屈んで茎を指先で優しく一本摘み取る。

そして。

繋いでいない方の手で、その白い花を小学生ゾンビの目の前へとそっと差し出した。

 

「ほら、綺麗だよ」

 

小学生ゾンビは、差し出された白い花を濁った目でじっと見つめた。

かつて夕方になると、学校帰りに「お母さんへのお土産」にと、みんなで楽しそうに摘んで帰っていた思い出の白い花。

 

小さな指先で、その茎を折らないように、ぎゅっと大切そうに握りしめる。

言葉は返せなかった。けれど、黄色い帽子の下にあるその顔は、ほんの少しだけ、本当に嬉しそうに緩んでいるように見えた。

 

 

 

それをごく近くで見ていた地元のばあちゃんゾンビ。

 

「(あらまぁ……優しいお坊ちゃんだねぇ……)」

 

すっかり心が洗われたように、濁った目を細めてほっこりとしていた。

すると、烏丸はさらに足元へ視線を落とし、草むらからまた別の小さくて白い花をひょいと手際よく摘み取った。

そして、なぜかそのばあちゃんゾンビの目の前で、ピタリと足を止めた。

 

烏丸はばあちゃんゾンビの白髪交じりの頭を見つめ、少しだけ首を傾げて微笑む。

 

「……なんか、似合いそう」

 

言うが早いか、烏丸はかつて女の子のゾンビにそうしてあげたのと同じ手つきで、ばあちゃんゾンビの耳の上の髪の隙間へ、小さくて白い花をひょいと優しく挿し込んだ。

 

 

ばあちゃんゾンビ、停止。

脳内ネットワークごと、完全停止。

 

「(……え? えぇ……!?)」

 

それと同時に、周囲の大人ゾンビたちも、あまりの衝撃的な出来事に彫刻のようにその場で完全停止した。

 

「(……今、花を挿したぞ……)」

「(若旦那様、おばあさまに花を……)」

「(まさか、ばあちゃんにまで花を挿して差し上げるとは……!!)」

 

ゾンビ達の間に、言葉にならない凄まじい大衝撃(とてつもないほっこり)が駆け巡る。

烏丸の身の回りの補助を担当する我が家のメイドゾンビたちも、「まぁ、お坊ちゃまったら本当にお優しいんだから」と言いたげに、一歩引いた位置から完璧な笑顔の補助(サポート)で見守っていた。

 

 

髪に花を飾られたばあちゃんゾンビは、しばらく信じられないといった様子でガチガチに固まっていたが。

やがて、生前の少女だった頃の記憶が何十年ぶりかに呼び覚まされたかのように、本当に、本当に嬉しそうに、照れたようにそっと俯いたのだった。

 

「(……何十年ぶりだろうねぇ、男の人にこんな綺麗な花を飾ってもらうなんて……)」

 

髪の白い花をそっと愛おしそうに撫でながら、ばあちゃんゾンビが心の中でぽつりと呟いた。

すると、すぐ隣を歩いていた、地元の元・麦わら帽子のおじさんゾンビが、ニヤニヤとした気配を隠しきれない様子で声をかける。

 

「(おいおい、天国のじいさんにも、生前そんなロマンチックなことは一度もやられたことないんじゃないか?)」

「(……ふん、うるさいね。じいさんは不器用な人だったからねぇ。でも、このお坊ちゃまはじいさんよりずっと男前だよ)」

「(はは、そりゃあ敵わねえな!)」

 

烏丸の耳には、彼らがただ「あうぅ……」「ううぅ……」と小さくのどを鳴らしているようにしか聞こえなかったけれど。

言葉を失った彼らの間に、かつての日常の縁側で交わされていたような、どこか照れくさくて温かい、少しだけ笑うような優しい響きのうめき声が、潮風に乗って静かに広がっていった。

 

烏丸はそんな地元のゾンビたちの和やかな空気(うめき声)に、「なんか楽しそうだな」と微笑みながら、繋いだ小学生ゾンビの手を優しく引き、再び青い海に沿って伸びるレールの上を歩き始めた。

 

 

 

 

 

やがてどこまでも伸びるレールの先に、ぽつんと小さな駅のシルエットが見えてきた。

それは、真っ青な海をすぐ目の前に見下ろす、古びたローカル線の「終点駅」だった。

 

世界が滅びてからというもの、そこにはもう誰もいない。

錆びついた改札を抜けてやってくる電車も、二度と来ない。

けれど。

今日、この終着駅は、不思議なくらいに少しだけ賑やかだった。

 

 

 

改札の前までたどり着き、そのどこまでも平和で愛おしい光景を少し後ろから見つめながら。髪に白い花を挿してもらったばあちゃんゾンビは、胸の奥から溢れ出す温かい記憶のなかで、静かに、深く思った。

 

「(……本当に、懐かしいねぇ……)」

 

 

パンデミックが起きてすべてが壊れてしまう、ずっと、ずっと昔の毎日も。

この季節になると、夕方の潮風のなかを、こんな風に黄色い帽子をかぶった子供たちが笑いながら駅まで全力で走っていた。お母さんの待つ家に帰るために、小さな手を繋いで、花を持って、レールの横を駆けていた。

 

まるで、あの日々の、何気なくて一番大切だった夕暮れ時みたいだった。

 

 

 

ザザァ、ザザァと、変わらない海の音がホームに優しく響き渡る。

草むらの小さな白い花たちが、初夏の海風を受けて健気にサラサラと揺れる。

 

誰の手にも届かないはずだった遺棄された終点駅は、烏丸たちのたった一日の「無計画な散策」によって、今日だけ、ほんの少しだけ。

あの暖かくて優しかった、かけがえのない“昔の時間”を、完璧に取り戻していたのだった。

 

 

 

 

 

 

線路の本当の終点は、潮風にさらされてひっそりと佇む、小さな木造の駅舎だった。

 

白い壁はあちこちが剥がれ落ちて崩れ。

窓ガラスはとうの昔に割れ去り。

「〇〇駅」と書かれていたはずの駅名の看板も、錆びと汚れで半分ほど文字が消えかかっている。

ひっそりと静まり返った待合室。

かつて多くの人が腰掛けたであろう、角が丸くなった古い木のベンチ。

そして、湿気と日焼けで端がボロボロに色褪せた、一枚の観光ポスター。

かつて多くの人々が利用していたであろう場所は、すっかり時代の遺物と化していた。

 

それでも、烏丸はどこまでも楽しそうだった。

 

 

「――駅だ。終点だったんだ」

 

烏丸は少し目を丸くした。

 

「すごい」

 

本当に嬉しそうだった。

 

肩の荷物をベンチに下ろし、どこか誇らしげに壊れかけた駅舎を見上げる。

まるで博物館の展示品でも眺めるように、その一つひとつをじっくりと見て回る。

 

「へぇ……」

 

烏丸は、待合室の壁に残されたその色褪せた観光ポスターの前で足を止めた。顔を近づけ、じっと観察する。

 

「これ、印刷じゃなくて手描きだ。すごいな」

 

その呟きが誰もいない駅舎に響いた瞬間、髪に白い花を挿してもらったばあちゃんゾンビの胸の奥が、小さな電気信号のように跳ねた。

 

「(……ああ、そうだよ。それ、何十年も前に地元の学校の中学生たちが一生懸命描いたんだよ)」

 

すぐ後ろに控える、麦わら帽子のおじさんゾンビも濁った目を細めて心の中で頷く。

「(懐かしいな、当時、町のコンクールで大きな賞も取ったポスターだったんだ。自慢のポスターだった)」

 

世界が滅び、人間が消え去ってからというもの、このポスターに目を留める者など誰一人としていなかった。

もう、誰も覚えていない。誰も気に留めないはずの、何でもない過去の遺物。

 

でも、烏丸はいつもの素直な調子で、ただ目の前にあるその小さなことを普通に褒める。

 

「――めちゃくちゃ上手いな」

 

烏丸の手をそっと握ったままの小学生ゾンビも、彼の視線の先にある色褪せたポスターをじっと見つめていた。

 

ばあちゃんゾンビは、自分の記憶が、そしてこの町がかつて誇っていた大切な「思い出」が、目の前の優しい人の手によって優しく掬い上げられたような気がして、なんだか少し、本当に嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

 

パンデミックが起きて、自分の大学生活も日常もすべてが途中でぷつりと途切れてしまったけれど。烏丸はこうして自分の足で歩いて、一本の線の「終わり」を見届けられたことが、なんだか妙に嬉しかった。

 

「昔は、ここに普通に電車が来てたんだろうな。みんなここから、学校に行ったり仕事に行ったりしてたのかな」

そう言って、烏丸は待合室の片隅にある古びた木のベンチへ深く腰掛けた。

 

しばらくの間、誰も喋らない無言の時間が流れる。

ただ、割れた窓から吹き込む夏の終わりの潮風と、ザザァ、ザザァと繰り返される波の音だけが、静かに駅舎を優しく満たしていく。

 

そして、烏丸は海を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「……いい駅だな、ここ」

 

彼の小さな呟きがホームへ抜けていった瞬間、その場にいたゾンビたちの時が、またしても一斉に止まった。

 

帽子がすっかりボロボロに擦り切れた元・駅員のゾンビが、濁った目を限界まで見開いて駅舎を見回す。

「(……いい駅か。長年、毎日毎日、ただここで切符を切り続けて、当たり前すぎて気づきもしなかったな……)」

 

その隣で、制服の胸ポケットが破れた元・車掌のゾンビも、静かに頷いた。

「(――そうだな。本当に、静かで、海がよく見えて、いい駅だな……)」

 

髪に白い花を挿してもらった地元のばあちゃんゾンビも、愛おしそうに目を細めて昔を振り返る。

「(昔はねぇ、朝夕になるってぇと、学生さんや仕事帰りの人らで、本当に賑やかでいい駅だったんだよ)」

 

ぬるい夏の風が、草むらを揺らしながらホームを吹き抜けていく。青々とした初夏の草が、レールの隙間からサワサワと音を立てて揺れる。遥か遠くの青い空で、海鳥がのんびりと一鳴きして白い影を落とした。

 

 

烏丸には、彼らの声は一切届かない。

聞こえるのは、彼らがのどを小さく鳴らす「あうぅ……」「ううぅ……」という静かなうめき声だけ。

けれど、言葉は交わせなくても、この廃駅に集まったゾンビたちの心は、今、不思議なくらいに完璧に揃っていた。

 

「(……ああ、本当に、いい駅だったな……)」

 

 

 

誰もいない。

電車も来ない。

ここには本当に、何一つとしてない。

 

でも、烏丸はただそれだけで、心から満足そうに、いつもの穏やかな笑みを浮かべて海を見つめていたのだった。

 

 

 

 

終着駅のノスタルジックな空気を十分に満喫した烏丸が、鞄を肩にかけ直して立ち上がろうとした、まさにその時だった。

コンクリートのホームの端、初夏の青々とした草むらの隙間に、何か小さな四角い影が半分ほど埋もれているのを、彼の視線が捉えた。

 

烏丸が近づいてその場にしゃがみ込む。

その一連の仕草を見た瞬間、後ろに控えていたホテルのスタッフゾンビも、地元の漁師ゾンビたちも、一斉に肩を震わせた。

 

「(……また何か見つけたぞ)」

「(あの人、今度は一体何に目を付けたんだ!?)」

 

烏丸が草の根元からそっと引き抜いたのは、一冊の古い「駅ノート」だった。

表紙はすっかり日焼けして色褪せ、角はボロボロに擦り切れている。けれど、頑丈なビニールカバーに守られていたおかげで、雨風に耐えて奇跡的に中のページは無事なまま残っていた。

 

がちゃりと木のベンチに戻り、烏丸がそっと最初のページをめくる。

そこに広がっていたのは、世界が滅ぶよりずっと昔、この終着駅を訪れた名もなき旅行者たちの、色鮮やかな生きた足跡だった。

 

「楽しかった」という何気ない旅の感想。

「またいつか来ます」という力強い応援メッセージ。

ページいっぱいにクレヨンで描かれた、不器用で可愛い子供の電車の絵。

日常が途切れてしまう前の、一番眩しかった人間の世界の記憶が、そこにぎっしりと詰まっていた。

 

 

「うわぁ……」

 

烏丸の口から、感嘆とも吐息ともつかない小さな声が漏れる。

その姿を後ろから覗き込んだ元・駅員のゾンビは、濁った目を限界まで見開いて、心の中で激しく動揺していた。

 

「(……まだ、あのノートが残っていたのか……。生前、毎晩終電が行ったあとに俺が読んで、待合室の机にそっと片付けていた、あの駅ノートが……)」

 

烏丸のピュアな好奇心によって、かつて自分が確かに管理し、愛されていた駅の記憶がまた一つ、完璧な形で掘り起こされた瞬間だった。

 

「よし、予定変更」

 

烏丸はそう呟くと鞄を再びベンチへドサリと置き、繋いでいた小学生ゾンビを隣に座らせた。

結局その日は、そこから夕暮れのオレンジ色の光がホームを優しく染め上げるまで、烏丸は時間を忘れて、一ページ一ページを本当に愛おしそうに、最後の最後まで駅ノートを読みふけり始めた。

 

 

 

 

そして、いよいよ夕日が海を真っ赤に染め上げ、辺りに濃い夜の帳が下り始めようとする頃。

 

 

大満足で古い駅ノートを閉じた烏丸は、隣で一緒にのぞき込んでいた小学生ゾンビの手を優しく繋ぎ直し、ようやく重い腰を上げた。

 

鞄を肩に担ぎ歩き出す。

改札の前に差し掛かったところで、烏丸はふと足を止め、お世話になった小さな駅舎を振り返った。

 

 

「――また、来たいな」

その、なんの衒いもない、素直でピュアな一言が夕暮れのホームに響いた。

 

 

 

「(……次、またあのお坊ちゃまが来てくれるってよ……!)」

「(ああ、聞いたか! 『また来たい』って言ってくださったぞ……!)」

「(こんなボロボロの廃駅を、気に入ってくれたんだ……!)」

 

ゾンビたちの止まっていた胸の奥に、かつてないほどの熱いプロの情熱がメラメラと燃え上がる。

 

「(――よし、次までに駅舎を全部完璧に掃除するぞ!!)」

「(待合室の割れた窓ガラスも、どこからか新しいのを探してきて嵌め直そう!!)」

「(あの壊れかけた木のベンチも、大至急ガタつきを修理しろ!!)」

「(半分読めなくなってた駅名標も、明日の朝一番で真っ白に磨き上げるか!!)」

「(ホームの横の草むらを開墾して、あの白い花をたくさん植えた綺麗な花壇も作ろうじゃないか!!)」

 

 

おもてなしの限界を軽々と超越した、世界で最も過保護で熱い鉄道復旧計画が、彼らの無言の視線のレーザーによって一瞬で可決・成立した。烏丸の補助に徹する我が家のメイドゾンビたちも、「ふふ、楽しみですわね、お坊ちゃま」と言いたげに、一歩引いた位置から完璧に誇らしげな笑顔で見守っていた。

 

こうして、世界が滅び、二度と誰も来ないはずだった寂しいローカル線の終着駅は。

たった一人の大切な「宿泊客(烏丸)」にまた喜んでもらうため、それだけの為に。

 

翌朝の日の出とともにゾンビたち総出による大真面目な奇跡の“鉄道復旧工事”が始まってしまうのだった。

 

 

(第23話・完)

 




読後推奨(おまけ)


第23.5話:無計画旅行・終点から車までの道

そして、可愛いかったのはこの散策の本当の帰り際だった。

小さな駅舎を後にして、烏丸たちが待たせてあった小型バスと高級ヴィンテージカーの元へと歩いていく道すがら。
黄色い帽子をかぶった小学生ゾンビは、烏丸の大きな手を、まだどうしても離したくないといった様子でぎゅっと握りしめていた。
烏丸も名残惜しい気持ちを感じたのか、小さな歩幅に合わせて、ゆったりと歩いた。

けれど、楽しい駅の時間はもう終わる。
車のドアの前にたどり着いたところで、烏丸は繋いでいた小さな手を優しく解き、その場にすとんとしゃがみ込んだ。

小学生ゾンビの濁った目をまっすぐに見つめ、優しく微笑む。
「――ありがとう、今日は楽しかったよ」
そう言って、大きな手のひらで、黄色い帽子の頭をぽん、ぽん、と優しく撫でた。

小学生ゾンビ、その場で完全硬直。

動かない。
まばたきもしない。

後ろで見ていた元駅員ゾンビが、
「(あっ)」
と小さく固まった。

「(落ちたな)」
「(落ちたな)」
「(完全に落ちたな)」

そんな劇的なドラマが小さな身体の中で起きていることなど、烏丸が知る由もない。

烏丸は「じゃあね」と手を振りながら、何事もなかったように高級車のふかふかの座席へと帰っていった。
ハヤテも「ワン!」と短く吠えて、彼の後に続く。

パタン、と車のドアが閉まり、二台の車列が静かに夕暮れの道を走り去っていく。


その後。車が見えなくなるまでホームの端で見送っていた小学生ゾンビの周りに、地元の大人ゾンビたちが一斉に、ガタガタと音を立てながら物凄い勢いで集まってきた。

「(……おい、今、触られたのか……!?)」
「(あの人に、頭をぽんぽんってされたのか……!?)」
「(すげぇ……信じられねぇ、お前、頭撫でてもらったんだぞ……!!)」
「(いいなぁ……! 俺もちょっとだけでいいから頭ぽんされたかったなぁ……!)」

ホテルの清掃班も、地元の元漁師も、髪に花を挿してもらったばあちゃんゾンビまでもが、何度も頭の花に触れては、まるで世紀の英雄を囲むかのように、羨望と大絶賛の視線を小学生ゾンビに浴びせていた。

本人は、心拍も止まっているし言葉も出せないから、何も言えない。
ただ、大人たちの狂乱(お祝い)の中心で、彫刻のように硬直したまま。
烏丸から「ほら」ともらった、あの小さくて白い花を、小さな指先でぎゅっと、本当に大事そうに握りしめたまま、夕暮れのホームにぽつんと立ち尽くしていた。

夕暮れの風が吹く。
花びらが一枚だけ、ひらりと揺れた。

小学生ゾンビは動かない。

車が見えなくなっても。
周りの大人たちが帰りはじめても。
日が沈み始めても。

ずっと、その花だけは離さなかった。


(第23話・本当におわり)
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