海辺のリゾートホテルを後にしてから、すでに数日が経過していた。
どこまでも続く海沿いの道を、一定の速度で滑るように走る高級ヴィンテージカー。その助手席で、烏丸は膝の上に広げた付箋だらけの観光雑誌を、目的もなくぱらぱらとめくっていた。
温泉街。博物館。展望台。観光列車。
行きたい場所や、あるいはただ、なんとなく気になっただけの場所。
烏丸のその時々の気まぐれが、雑多に詰め込まれた一冊だった。
「次、どこ行くかな」
誰に聞くでもなく、ぽつりと呟く。
広々とした後部座席では、新調したアロハシャツを着こなした老紳士ゾンビが、相変わらず無口なまま、品のある佇まいで静かに座っている。その足元では、旅の疲れが出たのか、ハヤテが小さな丸い塊になってすやすやと眠りの中に沈んでいた。
車内には、静かなエンジン音と、風を切る音だけが流れている。
烏丸はもう一度、雑誌の付箋に視線を落とした。
烏丸は、なおも気まぐれに雑誌のページをめくり続けた。
世界がまだ賑やかだった頃に作られた、有名な観光地。
きらびやかな高層ビルが立ち並ぶ、大きな都市。
色鮮やかなアトラクションが描かれた、遊園地。
青い光の中に魚たちが泳ぐ、水族館。
どれも悪くはない。
けれど、今の自分の気分とは、なんとなく違う気がした。
「うーん……」
ぺらり。
どれもなんだか違う。さらに一枚、ページをめくったその時だった。
カラフルな大特集の隅に、ひっそりと載っていた小さな白黒の記事が目に留まる。
【古書店が集まる商店街】
色あせた写真の中には、ひさしを並べた古びた本屋が、静かに佇んでいた。
「ここ」
烏丸のなかで、それは即決だった。理由は特にない。
ただ、なんとなくこの記事が気になった、それだけだった。
「本屋見たい」
誰にともなく意思を示すと、バックミラー越しに視線が合ったのか、後部座席の老紳士ゾンビが静かに、深く頷いた。新調したアロハシャツの襟が、その動きに合わせてわずかに揺れる。
足元のハヤテは、変わらず丸くなったまま気持ちよさそうに寝ていた。
目的地が決まった。車内の会話は、それだけだった。
相変わらず迷いのない運転手ゾンビのハンドルさばきで、高級ヴィンテージカーは滑らかに速度を上げ、海沿いの道から烏丸の付箋もついてない未知の町へと進路を変えた。
*
数時間後。
車は深い山に囲まれた、小さな地方都市の境界へと滑り込んだ。
かつては人口数万人程度だったろう規模の街。
世界が終わる前は、それなりに人々が行き交い、栄えていたのだろう。
けれど、今のこの街は耳が痛くなるほど静かだった。
シャッターを下ろした商店街も。
主を失った住宅街も。
役目を終えて消灯した信号機も。
すべてが、一年以上前からずっと深い眠りについたままのようだった。
そんな死に絶えた道を、ピカピカに磨かれた一台の高級ヴィンテージカーが滑らかに走っていく。
道の傍らで、犬の散歩(らしきルーティン)をしていた老人ゾンビが、不意に顔を上げた。
「あぅ……?(ん……?)」
流れる車の窓越しに、確かに「若い、生きている人間」の姿が見えた気がして、老人ゾンビはその場にピタリと立ち止まる。
「あぅ……?(なんだ……?)」
生きている人間が目の前にいる。
それなのに、どういうわけかどうしても襲いたくならない。
それは彼らの本能にとって、おそろしく不思議なことだった。
いつも頭の奥を削り続けていた悍ましい飢えも、引き裂かれるような苦痛も、あの人間を見た瞬間にふっと消え去ってしまった。怖くもない。腹も減らない。ただただ、あの車の中の存在が、気になって仕方がなかった。
老人ゾンビの隣で、干からびたリードに繋がれたゾンビ犬も、同じように不思議そうに首を小さく傾げている。
車は彼らの前を通り過ぎ、そのまま古書店の集まる商店街の方へと向かっていった。
老人ゾンビは、しばらくの間その場に立ち尽くしていたが、やがて、「あぅ……!(こうしちゃ居られん……!)」と、一年ぶりに身体が軽くなった喜びを噛みしめるように、小走りで近所の仲間たちの元へと向かった。
その日、一年ぶりにこの街には「生存」以外のまったく別の話題が生まれた。
「(あれ人間だよね?)」
「(たぶん?)」
「(なんだあれ……)」
「(おい、ちょっと待て!!)」
「(今、高級車の中に誰か乗ってただろ!!)」
「(人間だ!! 若い生き残りだぞ!!)」
「(いやいやいやいや、ありえねぇ!!)」
「(でも見ろよ、なんか頭の痛いの消えたぞ!?)」
「(マジだ!! 身体が軽い!! なんだこれ!!)」
ゾンビたちの間で、そんな言葉にならない戸惑いと衝撃の会話が、静かに、けれど爆発的な勢いで確実に広がっていく。
声としてはただの、
「あ゛ぅ゛……」
「うぅ゛……」
という低いうめき声だ。それだけだった。
けれど、一年間ずっと耐え難い苦痛と飢えしかなかったこの街にとっては、それは十分すぎるほど大きな、世界のひっくり返るような大事件だった。
車が向かう先を凝視しながら、街全体のゾンビたちの脳細胞が一斉に目覚め始めていた。
*
商店街の駐車場で車を降りた瞬間、烏丸は子供のように目を輝かせた。
「うわ……」
見渡す限り、そこら中が本屋だらけだった。右を向いても左を向いても一軒、二軒、三軒と古びた看板が並んでおり、観光雑誌の小さな記事で見ていたよりもずっと数が多い。烏丸は「すごいな」と嬉しそうに呟くと、お目当ての場所に辿り着いた興奮に足を弾ませるようにして、さっそく歩き出した。
最初に入ったのは、ひさしが少し色あせた、ひときわ趣のある古本屋だった。烏丸が木製の扉をそっと引いて中に入ると、ドアの頭上で「ちりん」と小さな鈴が鳴った。
その心地よい音と同時に、カウンターの奥にいた店主ゾンビの身体が、彫刻のようにぴたりと固まった。
客だ。一年ぶりの、本物の客が自分の店にやってきたのだ。
しかも生きている若い人間で、なによりも、その客は今まさに、自分の愛する店に並ぶ本をとても真剣に見つめてくれている。
烏丸は静まり返った店内を、ゆっくりと歩いていった。
年季の入った棚を眺め、色とりどりの背表紙を追い、気になる一冊を棚から丁寧に取り出していく。そうしてひっくり返して帯を見つめ、ぱらぱらとめくってあとがきを読み、裏表紙に印刷された小さな出版社を確認する。
烏丸はそこに並ぶ一冊一冊を、まるでかけがえのない宝物を見つめるかのように、熱心に、そして嬉しそうに眺め続けていた。
「これ懐かしい」
「うわ」
「持ってたな、これ」
烏丸は本当に楽しそうに、次から次へと本を手に取っていった。
店主ゾンビはただ、その姿をじっと見つめたまま動けずにいた。
一年前、世界がこんな風に壊れてしまってからも。彼は毎日、毎日、誰も来ないこの薄暗い店の中で、変わらず本を並べ続けてきたのだ。ただそうしていないと、頭が割れそうな苦痛に呑まれてしまうから。
なのに今、目の前には、本当に本が好きな客がいて、自分の並べた本を楽しそうに読んでくれている。
店主ゾンビは言葉にできない感情に突き動かされるように、気づけば少し離れた場所から、烏丸の後ろをそっとついて歩き始めていた。
*
二軒目、三軒目、そして四軒目。
烏丸は時間を忘れたように、ずっと楽しそうに商店街の本屋を巡り続けていた。
それに合わせるように、彼の後ろを静かについてくる商店街のゾンビたちの数も、少しずつ増えていく。
最初は最初に入った古本屋の店主ゾンビだけだったが、やがて近くの書店の店員たちが加わり十数体になり、気付けばいつの間にか何十体ものゾンビが、列をなすようにして烏丸の後ろを歩いていた。
けれど、誰一人として烏丸に近付こうとはしない。
誰一人として、彼に話しかけようともしなかった。
ただ、静かに、少しだけ離れた場所から見ているだけだった。
本を熱心に見て回る一人の青年を。
楽しそうに棚を眺めながら、時折嬉しそうに声を弾ませるその姿を。
本当に、それだけをただ見つめていた。
言葉はないけれど、ゾンビたちの間には不思議な空気が流れていた。ただ見ているだけで、胸の奥がほんのりと温かくなり、なんだか少しだけ嬉しかった。
*
夕方、最後に入った古書店は、ひときわ静寂に包まれた店だった。
烏丸は棚から一冊の本を抜き取り、ぱらり、とページをめくる。
あとがき。
奥付。
発行日。
出版社。
そこまで何気なく追っていた指が、ある文字の上でピタリと止まった。
「……新刊」
ぽつりと呟く。
車載の時計も見ていないような、時間から切り離された旅の中で、その言葉は妙に重く響いた。
途端に、店内の空気がしんと静かになる。
「……出てるかなって思った。あの続き」
烏丸は少しだけ、自嘲するように笑った。
そして。
「あ」
自分で、その事実の輪郭にハッと気付いた。
「出ないか」
誰も動かない。後ろについてきていた何十体ものゾンビたちも、彫刻のように静まり返っている。
「もう出ないもんな。新しいやつは、全部」
烏丸は改めて、目の前の巨大な本棚を見渡した。
本はたくさんある。この商店街の全てを合わせれば、何万冊、何十万冊もあるだろう。
でも。
増えない。
もう二度と。
誰も続きを書かない。
誰も新作を出さない。
誰も締切に追われない。
誰も本屋へ走らない。
誰も。
「……終わったんだな」
その言葉だけが、夕暮れの店内に静かに落ちた。
*
商店街のベンチで、買った本を膝の上にうず高く積んで烏丸はそこに腰掛けていた。
ハヤテは遊び疲れたのか、彼の足元で無防備に寝転がっている。
隣には、新調した派手なアロハシャツを着た老紳士ゾンビが、やはり静かに並んで腰掛けていた。
世界はすっかり、燃えるような夕焼けに包まれていた。
しばらくの間、誰も動かなかった。
ただ、冷たくなり始めた山の風だけが、商店街の通りを静かに吹き抜けていく。
やがて、烏丸がぽつりと口を開いた。
「さ、」
そこで、少しだけ言葉に詰まる。
自分の心の一番深いところにある輪郭を、どうにかして言葉に変えるように、もう一度ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……みんな、死んじゃったんだな」
それは、この旅が始まってから初めて口にする言葉だった。
世界が終わってしまったことは、もちろん知っている。少数の生き残りとゾンビしかいないことも、分かっている。
すべてを受け入れて、これまでゆっくり旅を続けてきた。
でも、自分から「寂しい」なんて言ったことは、ただの一度もなかった。
「知ってたんだけどさ」
「本屋に来たら、なんか、ちゃんと分かっちゃったな」
烏丸は膝の上の本に、静かに視線を落とした。
「もう、誰も続きを書かないんだな」
少しだけ、いつものように笑ってみせる。
でも、その顔はどこからどう見ても、寂しそうだった。
烏丸はゆっくりと夕暮れの空を見上げた。
「……さみしい」
その震えるような一言に、老紳士ゾンビは静かに隣へと視線を向けた。
本当の孫ではない。血の繋がりなんてどこにもない。
それでも、この一年の旅路の中で、ずっと本物の孫のように慈しみ、思ってきた大切な子だった。
この一年間。
この世界で旅を始めてからも、烏丸はいつも平気そうな顔をしていた。
いつだって前を向いていた。ゾンビたちに囲まれながら、笑っていた。
けれど、違ったのだ。
平気だったわけでも、傷ついていなかったわけでもない。
この子は、ちゃんと寂しかった。ちゃんと悲しかった。
ただ、それでも壊れてしまわないように、必死に前を向いて歩き続けていただけだったのだ。
老紳士ゾンビは、アロハシャツの袖を揺らしながら、静かに、優しく烏丸の隣へ肩を寄せた。
その仕草にぬくもりを感じて、烏丸は少しだけ、今度は無理をせずに笑った。
「ありがと」
夕焼けの光が、二人の影を長く、静かに伸ばしていた。
*
日が沈んで、車へ戻った。
買った本は、おそろしく大量だった。
助手席の足元。
後部座席。
トランク。
車内のあちこちが、本でいっぱいになっている。
ハヤテは遊び疲れたのか、シートの上でもうぐっすりと眠っていた。
高級ヴィンテージカーが、静かに走り出す。
窓の外には、夕焼けに赤く染まりながらゆっくりと遠ざかっていく、本のある街の景色。
しばらくその流れる影を眺めていた烏丸が、ぽつりと言った。
「次の町も、行きたいけど」
少しだけ、間を置いて考えて、そして。
「一回、帰ろうかな」
その言葉に、後部座席の老紳士ゾンビが静かに顔を上げた。
「なんか」
烏丸は窓の外、広がる残照を見つめながら、少しだけ笑う。
「家の本棚、見たくなった」
今すぐ読みたい本がある。
家に置いてきた本棚の前に立って、確かめてみたい記憶もある。
今の烏丸にとっては、ただそれだけで、もう十分すぎるほど帰る理由になっていた。
今はそれだけで十分だった。
「帰ろう」
その言葉が風に乗って響いた瞬間。
後続車の小型バスに乗っていたメイドゾンビたちが、一斉に顔を上げた。
(第24話・完)
第24.5話:本屋の閉店後(おまけ)
烏丸が車に乗って去っていった後。
夕闇が静かに降りてくる商店街に、本屋ゾンビたちはただ佇んでいた。
この一年、誰一人として本を買いに来る者などいなかった。
誰にも開かれることのない店の扉。
埃をかぶっていくばかりで、二度と更新されることのない新刊コーナー。
ただ狂わないためだけに、誰も来ない空間で本を並べ直すだけの、永遠に続くかと思われた止まった時間。
そこへ突然、一人の青年が現れたのだ。
店主ゾンビは、烏丸が先ほどまで立っていた本棚の前に、ゆっくりと歩み寄った。
そこには、棚から抜かれたままになっている本の、ぽっかりとした小さな隙間。烏丸が嬉しそうに指先でなぞり、選んでいった、少しだけ乱れた背表紙の並び。
そして、古いレジの上へと視線を移すと、そこには綺麗に揃えられた状態で、ちゃんと置いていかれた代金が静かに載っていた。
一年前、世界が止まってしまってから、一度として動くことのなかった店のシステムが、確かにそこでは現役のまま動いていた。
店主ゾンビは、その本を愛おしそうに両手で抱え、元の正しい位置へとそっと戻した。
そして。
一年前からずっと空っぽのまま、白紙が続いていた、
「本日のお客様数」
と書かれたカウンターの古いメモ帳を開く。
彼は、震える手でインクの切れかけたボールペンを握りしめ、
『1』
と、力強く、静かに書き込んだ。
(第24.5話・完)