数日ぶりに帰ってきた我が家の屋敷は、静かだった。
前庭の砂利を優しく鳴らして、あの黒い高級ヴィンテージカーと小型バスの二台が静かに止まる。
カチャリとドアが開くと、待ってましたとばかりにハヤテが先に地面へ飛び降り、嬉しそうに尻尾を大きく振った。長旅の少し凝り固まった身体を伸ばしながら、烏丸もその後に続いた。
久しぶりに見る、重厚な我が家の玄関。
見慣れた黒鉄のドア。
執事ゾンビが何度も磨いてきた、見慣れた真鍮の取っ手。
ほんの数日、旅行してきただけなのに、ずーーーーーーーっと続く長い塀に守られた我が家は、なんだか妙に懐かしくて。
「やっぱりちょっと落ち着くな」と、心から安心して、烏丸の口元には自然といつもの穏やかな笑みが浮かんでいた。
「――ただいま」
誰に向けたわけでもない、いつもの軽い挨拶を口にしながら、烏丸は真鍮の取っ手にそっと右手を掛けた。
そこで。
彼の動きが、ぴたりと、石のように止まった。
「……ん?」
違和感だった。
ほんの少しだけ。本当に、爪の先ほどのごくわずかな違和感。
鍵穴の周囲についた、目立たない細かな擦り傷。
ドアの木の縁の、ほんの数ミリの塗装の剥がれ。
真鍮の取っ手の、握ったときのほんのわずかな角度のズレ。
何をどう説明すればいいのかは分からない。論理的な理屈なんて何一つない。
でも。
世界が滅んでから何ヶ月もの長い間、毎日、毎日このドアに触れて、この我が家で快適生活を送ってきた人間だからこそ、肌の感覚で明確に分かってしまった。
「……誰か入った?」
烏丸は小さく呟いた。
隣でハヤテも「クン……」と鼻を鳴らし、不思議そうに首を傾げた。
お供の老紳士ゾンビの濁った視線が、品良く、けれど鋭く静かに玄関の奥へと向けられる。
後ろに控えるメイドゾンビたちの間にも、一瞬だけピリッとした空気が走った。
烏丸はゆっくりとドアを開けた。
「……そっか」
ぽつり。
誰もいない静寂の中に、小さな声が漏れた。
人が来ていたのだ。
ここに、複数人。
自分以外にも、確かにシェルターに生き残りがいた。
そして、彼らは探したのだ。
この広い屋敷を、必死になって、貪るように。何かを求めて。
「……そうだよな」
烏丸は少しだけ笑った。
けれどその笑顔は、どこか寂しそうで、壊れそうなほどに脆かった。
「普通、探すよな」
生きている人間を。
生き残るために利用できる物資を。
あるいは、この過酷なディストピアで縋り付き、依存できる何かを。
もし自分が逆の立場だったなら、飢えと孤独に耐えかねて、同じように必死になって誰かの痕跡を探し回ったかもしれない。彼らのした破壊行為を、烏丸は責める気にはなれなかった。
でも。
荒らされた部屋の真ん中で、烏丸は深く息を吐く。
彼らが求めていたものは、この家には何も残っていなかった。
結局、彼らにとってこの屋敷は、ただの「空っぽの廃墟」でしかなかったのだ。
「……」
長い、長い沈黙が、誰もいない部屋を支配する。
烏丸は荒れ果てたリビングのど真ん中で、ただぽつんと、彫刻のように立ち尽くしていた。
数日間の無計画な旅。
きらきら輝く海辺のリゾートホテル、初夏の風が通り抜ける錆びついた終着駅。
たくさんの健気なゾンビたちに囲まれて、彼らのおもてなしに助けられて、あひるさんを並べて、本当に、最高に楽しかった。
でも。
こうして荒らされた我が家に戻り「痕跡」を突きつけられて、見ないように目をそらしていた現実の重みが胸の奥にのしかかってくる。
どんなに楽しくても、世界はとうに滅びているし、感情や言葉を分かち合える「人間」はもういない。
きっと、この広い世界の、どこを探したって――。
「……一人か」
小さく呟いた。
「ずっと………」
誰にも聞こえない、自分の口元だけで消えていく掠れた声。
「まあ」
笑う。
いつものように、「思考放棄フィルター」で現実を覆い隠すように、無理やり。
「……そういうもんか」
これからも、自分はハヤテやゾンビたちとずっと旅を続ける。こことさよならして、一歩ずつ、思いついた場所へ進んでいく。
ずっと、ずっと、――…たった一人で。
それしか道はない。
この静寂の真ん中で、彼はそう自分に言い聞かせるしかなかった。
その時だった。
ふと、どんよりとした空気の漂うキッチンの片隅で、視界の端に食洗機が入った。
「……ん?」
烏丸はトボトボと近付いていく。
違和感だった。
今見えてる範囲の部屋中があれほどめちゃくちゃに引っ掻き回されていたというのに、なぜかその食洗機だけ、不思議と荒らされた形跡が一切残っていなかった。
烏丸は大きな取っ手に手をかけ、がちゃりと扉を開ける。
中に詰まっていたのは、食器じゃなかった。
雑誌。
大量の雑誌。
観光地をあちこち特集した旅行誌。
おいしそうなご飯が載ったグルメ誌。温泉や城の特集本。
「うわぁ……」
烏丸は思わず苦笑してしまった。入れた覚えがないのに、なんだかもの凄く久しぶりに出会えたような気がして無性に懐かしかった。
「よいしょ」
烏丸は食洗機の中から雑誌を次々と引っ張り出し、キッチンのカウンターの上へぽんぽんと並べていく。
――だが、その途中で、彼はふと手を止めた。
「……あれ?」
綺麗すぎる。
本と本がピシッと隙間なく噛み合い、背表紙の高さまで美しく整えられている。この詰め方は、絶対に自分じゃない。
誰かが。
自分がここに入れたものを、わざわざもう一度取り出して、整理し直している。
それも嫌がらせなんかじゃなく、本を傷つけないようにとても丁寧に。
よく見ると、棚の並びの順番まで、完璧に「あいうえお順」に揃えて並べ直されていた。
烏丸は眉をひそめた。
ここに侵入してきた人達は、遠慮なく部屋をめちゃくちゃに壊して回るような人達だったはずだ。それなのに、どうしてこの食洗機だけを見逃してこんなに几帳面に整えていったのだろう。
そして、烏丸は手元にあった一冊の観光雑誌を、何気なく手に取った。
ぱらり。
静まり返ったキッチンに、乾いた紙の音が響く。
ページをめくる。
いつかの夜、自分が思いつくままに貼り付けた、あの色とりどりの付箋たちがそこに並んでいた。
付箋。
付箋。
付箋。
付箋。
どれも、ささやかな旅行計画の跡だった。
そして、最後のページをめくった、その時だった。
「……ん?」
そこには、見覚えのない一枚の四角い付箋が、そっと貼り付けられていた。
自分の字ではない。
それは、見ただけでなんとなくその人の性格がわかるような几帳面で、どこか不器用なほどに真っ直ぐな、初めて見る筆跡だった。
そこに。
青いマジックで、短い文字が残されていた。
たった一言。
『行ってこい』
――その文字を見た瞬間、烏丸の動きが完全に止まった。
「……え」
そこから動けなくなった。
肺の中の空気まで凍りついたかのように、息をすることさえ忘れて、ただその青い文字を凝視し続けた。
胸の奥が、どくんと大きく跳ねる。
ここに入ってきた人、家の中をめちゃくちゃに荒らすような人だけじゃなかったんだ。
静かに、けれど烏丸を肯定して見送ってくれた「誰か」が、確かにこの場所にいた。
怒るでもなく、連れ戻すでもなく、ただそこに遺していってくれた。
たった一言。
でも、今の烏丸にとっては、それだけで、これ以上ないほど十分にすぎる言葉だった。
喉の奥が、ぎゅっと熱く震える。
お腹の底からおかしさが込み上げて、笑いそうになる。
それと同時に、視界の端がじんわりと滲んで、泣きそうにもなる。
「…………なんだ」
誰もいない、荒れ果てた静かなキッチンに、掠れた呟きが落ちた。
「……いるじゃん」
「人間」が。
自分のくだらない付箋の計画を『行ってこい』と肯定してくれる、最高に不器用で優しい「人間」が、この滅びかけた世界の中に、ちゃんと、まだ生きている。
思考放棄フィルターを無理やり重ねて、「そういうもの」と諦めようとしていた胸の空白が、その青い四角い紙片の体温によって、一瞬で、完璧に満たされていく。
言葉は交わせなかった。
顔だって知らない。
けれど、この広い世界のどこかに、自分の旅路を送り出してくれている「人間」がいるのだという絶対的な確信を得た今。それが烏丸の心に、行く手を導く灯台のような、静かな光をともしたのだった。
*
その頃。
屋敷の二階。
かつて推薦が「潰れたお菓子の箱」を拾い上げた寝室の窓際。
推薦は、研究者たちに乱暴にひっくり返され傷だらけになった椅子にぽつんと座っていた。
今日は珍しく、シェルターの仕事を休んでいた。
提出すべき報告書もない。
形ばかりの無意味な合同会議もない。
ただ、シェルターには居たくなかった。
だから一人、循環の止まった重い空気の中で、ぼんやりと時間を潰していた。
そこで。
前庭の砂利を優しく踏みしめる、重厚な車の音を聞いた。
推薦は弾かれたように立ち上がる。
窓硝子ににじり寄り、そっと下の庭を見下ろした。
そして、彼の身体はその場で石のように固まった。
いた。
資料の写真で、何度も、何度も見たあの顔。
何百ページも読み込み、インクも擦り切れるほどチェックした行動記録。
管理システムのモニター越しに、何百時間、何千時間も見続けたあののんきな映像。
観測対象の、その中心にいる本人。
「彼」が、そこに立っていた。
推薦は低く、掠れた声を漏らした。
自分でも何を言ったのか聞き取れなかった。
ただ、ポケットに入れたままのあのお菓子の箱から抜き取った『楽しむぞ』の紙片が、じわりと熱を帯びたような気がした。
まさか、すでに旅立ったはずの彼らがこのタイミングで邸宅へ帰ってくるとは、元国家公務員の優秀な脳細胞をいくら回転させても計算外の出来事だった。
けれど、驚きと同時に、推薦の胸の奥には、自分でも驚くほどの激しい動揺と――そして、奇妙なまでの安堵が広がっていた。
一階のキッチンから、がちゃりと食洗機の扉が開く音が聞こえてきた。あそこに残したメッセージに、彼が気づくのはもう時間の問題だった。
推薦は静かに、けれど迷いのない足取りで、彼らの待つ一階への階段へと向かった。
「”機能”ではない」と自分に言い聞かせ続けてきた規律の男が、ついに、本物の「観測対象」の目の前へと降りていった。
*
推薦が一階へ向けて階段を降りる。
――その瞬間だった。
ガタタタッ!!
リビングの影、廊下の奥、そして烏丸の後ろに控えていたゾンビたちが、一斉に弾かれたように動いた。
老紳士ゾンビ。
メイドゾンビたち。
運転手ゾンビ。
ありとあらゆるゾンビが。
彼らの濁った瞳の奥に、これまで烏丸に向けていたものとは180度違う、明確で苛烈な「敵意」が灯る。
ここは我が家だ。
大切な烏丸の家だ。
そこへ、見知らぬ生身の人間が侵入して潜んでいた。
ならば、烏丸の安全のために、その脅威を即座に排除する。
あと一歩。
近づいたら襲う。
それは彼らにとって、生前の防衛本能のDNAが弾き出した、あまりにも当然の行動(ホスピタリティ)だった。
「――っ」
推薦も足を止め、思わず身構えた。
凄まじい質量を伴った殺気が、張り詰めた空気となって階段の踊り場を支配する。推薦も、これだけの数のゾンビに一斉に囲まれれる経験は初めてだった。
生き残れる、ここから無事に脱出するなど一瞬で無理なことを理解せざるを得なかった。
次の瞬間。
キッチンで付箋を握りしめていた烏丸が、弾かれたように振り返った。
そして、喉が張り裂けんばかりの声で叫ぶ。
「待って!!」
ぴたり。
烏丸の「お願い」はここでも神速で発揮された。彼の一言で、突撃しかけていた老紳士ゾンビもメイドゾンビたちも、ピタッと彫刻のようにその場で完全に動きを止めた。
「……え」
推薦は信じられないように目を見開いた。
ゾンビが。自我を失ったはずのバケモノたちが、ただの生き残りの青年の「命令(声)」一つで、完璧に制御されている。何百時間も映像を見てきたはずなのに、その関係性を目の前で生々しく突きつけられ、規律の男は言葉を失った。
烏丸はゆっくりと息を整えながら、階段の途中に立つ推薦をじっと見つめた。
初めて見る顔。
どこか堅物そうで、この世界に似合わないピシッとした雰囲気を持った、完全に知らない大人。
でも。
不思議だった。
烏丸の「思考放棄フィルター」の奥にある本能が、静かに告げていた。
この人は、家の中をめちゃくちゃに荒らしていったような人達とは、明らかに違う。
敵じゃない。
なぜだか、そんな気がした。
だから。
烏丸は興奮のままに桜色に染まった頬で、この胸の鼓動を信じるように、自然な調子で声をかけた。
「旅行行く?」
烏丸は、まるで昨日も会っていた友達を誘うような軽さで、そう尋ねた。
推薦は黙る。
数秒。
十数秒。
もっと。
世界からすべての音が消え去ったかのような、長い、長い沈黙。
推薦の頭の中で、元国家公務員としての、そしてシェルターの合同観測班としてのあらゆるマニュアルと計算が、猛烈な速度で火花を散らして回転していた。だが、目の前に立つ青年のあまりにも邪気のない瞳を前に、そのすべてが意味をなさなくなっていく。
推薦はようやく、重い口を開いた。
「……どこへ」
「知らない」
「知らないのか」
「今から決める」
沈黙。
再び、リビングを深い静寂が満たす。本当に長い沈黙だった。
推薦は、大真面目に考えた。
規律に従うべきか。
この突飛な誘いを断るべきか。
今すぐシェルターへ戻り、彼らの帰還を報告すべきか。
自分の義務のすべてを、必死に天秤にかけた。
そして。
色々考えた末に出てきた答えは一つだけだった。
”疲れた”
少しだけ。
本当に少しだけ。
すり減るような管理社会の数字と、シェルターの中で孤立している自分に、疲れてしまったのだ。
食洗機に丁寧に並べ直した、あの真っ赤な丸だらけの観光雑誌。
ポケットの中で小さく重い、あの歪んだ文字の『楽しむぞ』という紙片。
それらが、規律に縛られていた彼の背中を、優しく、けれど決定的に押し出す。
だから。
「……行く」
推薦は、そう答えた。
烏丸の顔に、いつもの、いや。
いつもよりとても"うれしい"が溢れた笑顔が、ふわっと広がる。
「よかった」
その瞬間だった。
一触即発の体勢で推薦を取り囲んでいたゾンビたちの空気が、一斉に、ガラリと変わった。
刺すような明確な敵意も、張り詰めていた殺気も、綺麗さっぱり消え去っていく。彼らは推薦を、烏丸の安全を脅かす「侵入者」「危害」「危険」ではなく、これから一緒に同じ道を進む「大切な同行者」として、完全に、無条件で受け入れたのだ。
最愛の若旦那様である烏丸が、この人を連れていくと言った。
彼らにとっては、本当にそれだけで十分にすぎる理由だった。
しばらくの間、心地よい静けさが二人の間に流れる。
そして。
烏丸は持っていた付箋をポケットに仕舞うと、今度は推薦に向けて、そっと右手を差し出した。
「
推薦は、差し出されたその温かい体温のある手を見つめ返し。
そして。
自分のこれまでの肩書をすべてその場に置き去るように、静かに、しっかりと握り返した。
「……関口、
(第25話・完)
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