「旅行準備しよう!」
「待て」
「?」
「今からなのか」
「今からだけど」
関口の手をぎゅむぎゅむと握ったまま、烏丸がそう言った。
関口はまだ階段の途中にいた。
数分前まで、自分はシェルター合同観測班の人間だったはずだ。
マニュアルを遵守し、規律に従い、報告書を書き、管理と責任の重さと人間関係にすり減っていた。
それが今は、たった今名前を知った青年の家にいる。
言葉を失った不気味なゾンビたちに囲まれている。
正体不明の旅行に誘われた。
そして、了承した。
意味が分からない。
本当に意味が分からない。
自分のこれまでの優秀な行政人生において、現在の状況を説明できる論理的な手順など一行も見当たらなかった。
とりあえず、関口は深く深呼吸をする。
まずは落ち着こう。そう思った。
そして。
烏丸が何か思いついたように部屋からからいなくなった。まさにその瞬間だった。
明らかに空気の鋭さが変わった。
ぞわり。
背筋に、おぞましい嫌な感覚が走った。
素早く振り返る。
老紳士ゾンビ、メイドゾンビ、運転手ゾンビ、執事ゾンビ。
屋敷中のゾンビ全員がこちらを見ていた。
さっきまでは、烏丸の一言で「同行者」として和やかに受け入れられたはずだった。
何かが違う。
明らかに違う。
濁った瞳。
微かに開く口。
爪が床を擦る音。
関口の首筋に冷や汗が伝う。
全員の唇がゆっくり開く。
奥の歯が見える。
今にもこの喉元へ飛び掛からんとする、剥き出しの狂暴な顔で固まっている。
関口は完全に無言になった。
あまりの殺気に息が詰まり、おそるおそる一歩後ろへ下がる。
すると、全員が一歩前へにじり寄ってきた。
(離れるな、ということか)
関口は恐怖のなかでそう勘違いした。若旦那様の傍を離れるなという、彼らなりの強い圧力なのだと。
だが、実際は違った。
ゾンビ達本人も、自分たちの身に何が起きているのか説明などできなかった。
ただ、彼らを無痛の安らぎで包んでいた烏丸の気配が、彼が部屋を出たことでほんの数メートルだけ薄れてしまった。
その瞬間、脳を苛む頭の痛みが戻る。
抑え込まれていた飢餓感が戻る。
そして、―――目の前に生きた人間がいる。
――襲いたい。
理由はもっと原始的で、もっと飢えていた。
関口がさらに一歩下がる。
大豪邸の玄関口へ向かって、烏丸との距離がさらに数センチ開いた。
老紳士ゾンビの喉が、低く鳴った。
ガルル、と肉食獣のような微かな地鳴り。
数秒前まで、烏丸の気配によって完全に消えていたはずの飢えが。
ほんのわずかに、けれど確実に喉の奥へ戻ってきていた。
目の前には生きた人間。
喰いたい。
けれど、あの子が「連れていく」と言った人間だ。
喰いたくない。
相反する二つの衝動が、ゾンビたちの止まった身体の中で激しくぶつかり合い、狂暴な表情となって関口を包囲する。
制御の利かなくなる境界線の一歩手前。
だからこそ、その佇まいは余計に怖かった。
関口は、恐怖で完全に無言になった。
「ねぇ、紐がどこにあるか知ってる?」
その時、烏丸が首を傾げながら部屋に戻ってきた。
その瞬間。
全部消える。
戻りかけていた頭の痛みも、這い上がってきた飢えも、暴れ狂いそうだった殺意も。
彼の絶対的な領域が再びリビングを包み込んだだけで、すべての狂気があっさりと霧散した。
老紳士ゾンビは何事もなかったように背筋を伸ばした。
アロハシャツの上着の裾をスマートに整え、品良く直立不動の姿勢に戻る。メイドゾンビたちも、何食わぬ顔で優雅に控えていた。さっきまで爪を鳴らして喉を鳴らしていたくせに。
烏丸が不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
関口はひきつった顔のまま、答えを絞り出した。
「…………いや」
言えなかった。
「君が居なくなっただけで、彼らが私を食おうとした」なんて、この青年に言ったところできっと信じるはずがなかった。
関口は、『烏丸の気配という名の安全圏から一歩でも出たら、自分は一瞬で噛み千切られる』というこの世界の絶対的なルールを、命がけで理解した。
”一度シェルターへ戻って最低限の連絡と自分の荷物の回収、引き継ぎの手続きをしたい”
そんなことはもう口が裂けても言い出せそうになかった。
烏丸はいつものおおらかな調子で、楽しそうに言った。
「よし、じゃあ旅行の準備をしよう!」
*
旅行準備は、烏丸の部屋ですぐに始まった。
だが、その手伝いをしていた関口は、途中から明らかに口数が減っていった。
理由は、至極簡単なことだった。
荷物が、圧倒的におかしい。
がちゃりと大きな旅行鞄が開かれる。
関口が中を覗き込む。
旅行雑誌。
本。
旅行雑誌。
観光雑誌。
観光雑誌。
漫画。
・
・
・
ぬいぐるみ×3つ。
カラフルな浮き輪×5個。
黄色い、ゴムのあひるさんのおもちゃ×30個。
幼児が砂場で使うための、プラスチック製の「砂場セット」。
そして、大量のおやつ。
そこには、サバイバルに必要な防寒着も、医療キットも、保存食の類も一切見当たらなかった。あるのは、青年とは思えない幼児が思いつく限りの「楽しい無駄」だけだった。
関口は無言で一度、旅行鞄のチャックを閉じた。
深く息を吐き、もう一度だけ開けてみた。
当然だが、中身は1ミリも変わっていなかった。
「……おい、烏丸」
関口が据わった目をした。
「ん? 何、関口さん」
「服はどこだ」
「?着てる」
烏丸はごく当然のように、自分の胸元をパタパタと叩いた。
「替えは」
その問いかけに、烏丸が口を開きかけた、まさにその時だった。すっと後ろで黙ってやり取りを見守っていた我が家のメイドゾンビが、烏丸が用意したカバンとは別の鞄を差し出した。中には歯ブラシ、着替え等の一式が、1ミリの乱れもなく綺麗に整頓して収まっていた。主人の生活お世話係としての、言葉の要らない完璧なプロの仕事だった。
一瞬ビクッと関口の体が跳ねた。
しばらくして、消え入りそうな声で「……医療キットは」と声を絞り出した。
「ん、と。なんとかなるよ。たぶん」
烏丸はいつもの「思考放棄フィルター」を発動させて、ふわりと笑った。
関口は諦めず、鞄のポケットから飛び出していた、とあるお洒落な家電のコードを引っ張り出した。
「……では、このヘアドライヤーは」
「電気ない」
「……」
正論だった。
ぐうの音も出ないほどの、圧倒的な正論だった。
世界は滅び、インフラはとっくに停止しているのだから、コンセントに挿すタイプのドライヤーなど、ただの重いプラスチックの塊にすぎない。分かっている。分かっているが、何故だろう、もの凄く悔しかった。
(これだから一般人の感覚は……!)と、関口は心の中で歯噛みした。
関口は眉間のシワを深くしながら、カウンターの上の黄色い物体を指差した。
「そのアヒルは」
「いる」
「なぜ」
「いるから」
会話が、一歩も先へ成立しない。
いるから、いる。
そこに一切の論理はなく、ただ烏丸の「持っていきたい」という名のキラキラした無邪気な瞳だけがそびえ立っていた。
「………………………そうか」
関口は諦めた。諦めて、さらにその横にあった別のバッグをがちゃりと開けた。
ボール。
ボール。
ボール。
フリスビー。
ボール。
おやつ。
ボール。
毛布。
関口は黙った。
「……犬の荷物の方が多くないか?」
ハヤテがそのツッコミを待っていたとばかりに、嬉しそうにちぎれんばかりに尻尾を振った。
烏丸も、笑顔で深く何度も頷いた。
「ハヤテ大事だから」
「そうか……」
もう、これ以上この幼児と犬に論理的なツッコミを入れる気力すら、綺麗さっぱり残っていなかった。
*
老紳士ゾンビが、ふと思い出したように烏丸を地下へ誘った。
烏丸と関口は不思議に思いながら地下へ降りた。
そこは、広大なワインセラーだった。
関口は扉を開けた瞬間に、彫刻のようにその場で完全に固まった。
そして。
数秒後。
「……待て」
と、掠れた声を絞り出した。
さらに数秒後。
「待て待て待て待て待て」
と、今度はその視力のいい目を限界まで見開いて、ガタガタと目に見えて震える声で言った。
さすがの烏丸も不思議に思ったのか、横から首を傾げて覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「どうしたじゃない」
関口の脳内にある、元国家公務員としての、そしてかつて高級な社交の場に出入りしていた大人の知識が、目の前の光景に強烈な
地下の棚には、壁一面を埋め尽くすほどの無数のワインボトルが整然と並んでいた。
その保存状態は、まさに奇跡的だった。
世界が滅び、地上のインフラが完全に停止しているというのに、分厚いコンクリートと老紳士ゾンビの執念の管理、烏丸がコストゴから持ち帰った発電機によって、室内の温度も湿度もほぼ完璧に維持されていた。
地上があのいかれた(※関口さんの主観です)研究者たちによってどれほどめちゃくちゃに荒らされようとも。
このセラーだけは、奇跡の無傷のまま生き残っていたのだ。並んでいるのは、どれも世界中の愛好家が全財産を投げ打ってでも欲しがるような、年代物の最高級品や希少品ばかり。
規律の男・関口准。
これまでの行政人生のどの瞬間よりも激しく、人生で初めて本気で興奮していた。
「……全部回収する」
関口は、誰に確認するでもなく鋭く即答した。
烏丸が不思議そうに、パチパチと目を瞬かせる。
「そんなにすごいの?」
「そんなにだ」
関口は完全な真顔だった。
規律に縛られていた国家公務員時代にすら、一度も周囲に見せたことのないほどの、おそろしく真剣な真顔だった。
その瞬間だった。
隣に立っていた老紳士ゾンビが、その関口の真顔をじっと見つめ、深く頷いた。
ゆっくり。
本当に、とても深く。
(お主……この価値が、ちゃんと分かっておるな……)
言葉を失ったゾンビの顔に、ありありとそんな気高き富豪の魂が浮かんでいた。
関口も視線を感じて、顔を上げた。
老紳士ゾンビを見る。
老紳士ゾンビも、濁った目を細めて関口を見つめ返す。
世界が滅びてからというもの、この地下セラーの美学を本当の意味で理解してくれる人間など一人もいなかった。だが今、目の前に完璧な熱量を持った大人の男がいる。二人の間に、言葉の要らない静かで熱い友情が生まれた。
――そんな気がした。
「よし……これより緊急搬出を行う。一本たりともここに残して行くなど言語道断だ。すべて運び出すぞ」
関口が鋭い指揮官の顔で言う。
老紳士ゾンビが、満足そうにコクりと頷く。
そして。
老紳士ゾンビは棚の最奥へ手を伸ばすと、ある一本のワインボトルを両腕でぎゅっと、愛おしそうに大切に抱えた。
ぎゅっ。
そのまま彫刻のように固まり、その場から絶対に動かなくなった。
関口はそれを見て、眉をひそめて声をかけた。
「おい、それもバスへ運ぶ。離しなさい」
老紳士ゾンビは、静かに、けれど断固とした意志を込めて首を横に振った。
「いや、運ぶ。置いていくわけにいかないだろう」
またしても、頑なに首を横に振る。
「何なんだ、それは」
関口は不審に思い、抱えられたボトルのラベルを正面から覗き込んだ。
そして、その場に石のように固まった。
「……ロマネ・コンティ」
関口は、思わずその名前を呟いた。
その瞬間。
老紳士ゾンビは、自分の最高峰の秘密基地を守るように、即座にボトルを胸元へ抱き締めた。
ぎゅっ。
「……待て」
ぎゅっ。
「それは、今この世界で絶対に気安く飲むな」
関口が息を呑んで静止をかけると、老紳士ゾンビは静かに深く頷いた。
(言われんでもわかってる。だからこそ、私が命に代えても守るのだ)
言葉を失ったその顔から、ありありとそんな声が聞こえそうな表情だった。
ぎゅっ。
「……危険だ。それを私に渡してください」
関口が説得を試みるが、老紳士ゾンビは、さらにボトルを愛おしそうに強く強く抱き締めた。
ぎゅうううう。
絶対に、渡さない。
「分かってるなら離せ!!」
関口が、生まれて初めて規律を忘れて本気で叫んだ。
車より高い、人類の至高の液体なのだ。割れたら世界の終わりより大損失だった。
すると。
どこからともなく、我が家のメイドゾンビたちが音もなく一斉に現れた。
そして、最高級ボトルを抱いた老紳士ゾンビの周囲を完璧なフォーメーションでガチッと囲む。
それは、まるで国家元首の要人警護セキュリティだった。
ロマネ・コンティ護送隊。
地下室の片隅で、言葉の要らない最強のフォーメーションが瞬時に結成された。
「何なんだお前達は!!」
元国家公務員の、魂の底からの悲鳴が地下室に響き渡った。
そんな大人の全力の狂乱劇を少し離れた位置から眺めながら、烏丸は笑った。
「あはは、本当にそれがお気に入りなんだね」
久しぶりに、穏やかで嬉しそうな声を上げて。
誰に言葉が届かなくても関係なかった。
ハヤテが嬉しそうに足元で吠え、屋敷中がかつてないほどに、本当に楽しそうな空気に包まれていたからだ。
*
気付けば、すっかり夕方だった。
地下から総出で回収した高級ワインは、とてつもない山になっていた。
だが、何の問題もなかった。
大型バスがある。
いつの間にか小型バスから、屋敷のゾンビたちの圧倒的な実務能力(調達力)によって大型バスへとグレードアップしていた。
荷物は、いくらでも積める。
烏丸の幼児のような旅行鞄も。
付箋だらけの大量の本も。
ハヤテのおもちゃも、おやつも。
そして、関口と老紳士ゾンビが命がけで死守したワインの木箱も。
コストゴの発電機だって。
全部、何一つ置いていくことなく持っていける。
関口はすべての積み込み作業を終えて、ふぅ、と深く息を吐いた。
そこで、ふと気付く。
シェルターにいた頃。
こんなことで本気になって騒いだり、ましてや笑ったりしたことなど、ただの一度もなかった。
毎日が、退屈で重苦しい会議。
追われるような報告書。
押し付けられる責任。
冷徹な数字。
徹底された管理。
他人の評価。
シェルターでの無理解。
自分の人生には、そんな冷たいものばかりが、隙間なくぎっしりと詰まっていたはずだった。
だが今、目の前では。
烏丸が次の旅行雑誌を楽しそうに読んでいる。
ハヤテはボールを誇らしげに咥えている。
老紳士ゾンビは、自分の腕の中のロマネ・コンティを未だにぎゅっと抱いている。
そして、メイドゾンビ達は完璧なフォーメーションでそれを護衛している。
意味が分からない。
客観的に見れば、本当に意味が分からない光景だった。
なのに、そんな社会人としての正論を覆い隠すように胸の奥が少しだけ、本当に少しだけ、楽しかった。
その時、観光雑誌をめくっていた烏丸が、無邪気に顔を上げた。
「関口さん、どこ行く?」
「君はどこへ行きたいんだ」
烏丸は、その答えを待ってましたとばかりにおおらかに頷いた。
「じゃあ、今から決める」
「関口さん」
「何だ」
「いい温泉と海辺のリゾート、どっちがいい?」
「知らん」
「じゃあ両方行こう」
「そうか……」
関口は、窓の向こうの夕日を見つめながら遠い目をした。
(第26話・完)