烏丸は500mlのポカリと金色の解熱剤を大事に小脇に抱え、トボトボと来た道を引き返していた。
相変わらず頭はガンガンと痛むが、薬を手に入れたという安心感からか、先ほどよりも足取りはほんの少しだけ確かになっている。
アパートまであと少しという大きな交差点に差し掛かったときだった。
パトライトが虚しく回転し続ける、ベコベコに凹んだパトカーの横。
そこに、制服のあちこちを赤黒く染めた、元警察官とおぼしきゾンビが立っていた。ゾンビ警官は、フラフラと歩いてくるパジャマ姿の烏丸を見つけると、生前の習性が残っているのか、濁った眼光を鋭く光らせて、すっと片手を上に挙げた。
「ウアァァァ……(止まりなさい)」
その声は低く、威嚇するような不気味な響きを持っていた。
(……あ、職質か。さすがにこの状況でパジャマ姿は不審者すぎるもんな……)
思考が著しく低下している烏丸は、街の惨状を完全に棚に上げ、自分の格好の悪さのせいで警察に止められたのだとぼんやり納得した。面倒なことになったな、と思いながらも、烏丸はゾンビ警官の前で大人しく足を止める。
ゾンビ警官は烏丸を上から下まで観察した。
パジャマ。
サンダル。
ボサボサの髪。
そして死人みたいな顔色。
「ウアァ……(住所不定無職かな……)」
次の瞬間。
小脇の解熱剤が目に入った。
「……ウァ(違うわ。重病人だった)」
ゾンビ警官の強硬な態度が、目に見えてフニャリと軟化した。
「(あ……。ごめん、てっきり暴徒か何かかと思ったんだ……)」
ゾンビ警官は申し訳なさそうに、挙げた手をバツが悪そうに下ろした。
そして、ペコペコと何度も小さく頭を下げながら、道を譲るように横へと退く。
「(あ、間違えちゃってごめんね……。しんどいのに引き止めて悪かったわ……。お大事にね……)」
ゾンビのルールにおいて、今の烏丸は「絶対に刺激してはならない最優先保護対象」だった。ゾンビ警官は、早くお家に帰って寝なさい、と言いたげな、痛ましそうな視線で烏丸を見つめている。
「あ、どうも……お疲れ様です……」
烏丸は軽く会釈を返し、ゾンビ警官の横をすり抜けて横断歩道を渡り始めた。
本当にここだけの、彼にのみ適用される優しい世界だった。
――だが、世界はそんなに甘くない。
「た、助けてくれぇぇぇ!!」
烏丸が横断歩道を渡りきった瞬間、背後から絶叫が響いた。
別の路地から、血まみれの包丁を握りしめた男が、狂ったように走って交差点へと飛び出してきたのだ。パニックに陥り、他人の物資を奪って逃げてきた暴徒のようだった。
その男の姿を視界に捉えた瞬間。
さっきまで烏丸に「(すんません……お大事に……)」と優しさを振りまいていたゾンビ警官の顔から、一切の「優しさ」が消え失せた。
「ガアァァァァァァァァッ!!!」
鼓膜を突き刺すような、おぞましい咆哮。
ゾンビ警官は凄まじい速度でアスファルトを蹴ると、逃げてきた男に猛然と飛びかかった。そのまま男を地面に押し倒し、喉元へと容赦なく歯を突き立てた。
「ぎゃあああああああああ――ッ!!?」
肉が引きちぎれる音。
激しく飛び散る鮮血。
男は一瞬だけ痙攣したあと、瞬時に物言わぬ肉塊へと変わり、ゾンビ警官たちの貪り喰う咀嚼音だけが交差点に響き渡った。
凄まじいグロ描写が、烏丸のすぐ後ろで繰り広げられている。
しかし、歩いている烏丸は。
「(……あー、また耳鳴りしてきたな。キーンって鳴ってて後ろが騒がしい。早く帰ろ……)」
ちょうど耳鳴りのターンが再発したせいで、男の悲鳴も、肉の裂ける音も、何一つ聞こえていなかった。
烏丸は振り返る元気がなかった。
だから知らない。
自分がアパートへ入るまで、交差点にいたゾンビ警官がずっとその背中を見守っていたことを。
まるで、夜道を帰る子供を心配する保護者のように。
「……帰ったら薬飲んで寝よ」
その日の烏丸の関心事は、世界の命運ではなく、解熱剤を飲むタイミングだった。
(第3話・完)