山道を揺られながら進んでいた大型バスと、その後ろをぴったりと追随する黒い高級車の列が、ようやく開けた温泉街へと滑り込んでいく。
車窓を流れる木々ばかりの景色の中で、突如として現れたその圧倒的な佇まいを目にした瞬間、関口は座席で文字通り固まった。
「……ここは」
思わず、乾いた声が漏れる。関口はその名を知っていた。
国家公務員として行政の枢僚にいた時代、一度だけ見た国際会議の候補宿の資料の中に、その旅館の名があった。
時の政治家。
海外のVIP。
歴史に名を残す文化人。
そうした一握りの「選ばれた人間」しか立ち入ることすら許されない、日本でも最高峰に数えられる温泉宿だった。
予約は一年待ち。
一泊の宿泊費だけで、一般家庭の旅行予算が吹き飛ぶ。
そんな場所だった。
(……待て。)
車が止まり、外へ出る。
磨き込まれたの重厚な門構え、計算し尽くされた庭石の配置。廊下の一本木、さりげなく飾られた掛け軸や調度品にいたるまで、すべてが「本物」だった。しかも、これだけの格式でありながら、一切の嫌味がない。
(この旅館……私でも現役時代に泊まったことがないぞ……)
関口が内心で激しくビビり倒している一方で、大型バスから降りてきた烏丸は、まるで友達の家を自慢するように言った。
「いい旅館でしょ?関口さん。広いよねー」
友達の家にちょっと遊びにでも来たかのような、あまりにも軽い口調だった。
価値が分かっていない。この男、目の前にあるものの凄みがまるで見えていない。
関口は胸中で激しい温度差を感じながら、冷や汗の滲む手をそっと握りしめた。
だが、本番は玄関をくぐった先に待っていた。
一歩、足を踏み入れる。
そこには、一人の受付ゾンビが立っていた。旅館の制服は色褪せていたが、胸元の名札はヨレもゆがみもない。白手袋を嵌めた両手は腹の前で美しく重ねられ、背筋は一本の芯が通ったように真っ直ぐ伸びていた。
少しだけ朽ちた身体でありながら、その立ち姿には長年積み重ねた接客の癖が染みついていた。
烏丸の気配を察知した瞬間から、旅館中では再び血反吐を吐くような超特急の仕上げ掃除が行われていた。
廊下。
客室。
露天風呂。
厨房。
館内すべてが、数分前までとは別世界のように整えられている。
そして今、受付ゾンビは「ちゃんと受付するぞ」と心の中で深く、深く息を整えていた。
彼らは必死に、平静を装っている。
しかし、数週間ぶりに烏丸が戻ってきた喜びは隠せなかった。
宿帳を持つ手は微動だにしない。
それでも、白手袋の指先だけが、ほんのわずかに震えていた。
(また来てくれた……)
烏丸が目の前に立った瞬間、その背筋はさらにぴんと伸びた。
(来た)
(また来てくれた。嬉しい)
(あのお客様だ)
受付を支配する、言葉にならない歓喜。
受付ゾンビは生前と変わらぬ所作で、恭しく両手に宿帳を乗せた。
「あぅ……(よろければ……)」
そんな声だった。
そして、何気なく手元のボールペンへと視線を落とす。
(……あ)
最悪の事実に気がついた。インクが、切れかけている。
せっかくの「ちゃんとした受付」なのに、このままではお客様に文字を書いていただけない。
受付として、プロとして、これは致命的だった。
「あっ……あぅ……!」
受付ゾンビの目が見るからに泳ぎ始める。
必死に張り切ってペンを振る。ノックをカチカチ、カチカチと狂ったように繰り返す。だが、インクは一滴も出てこない。
(え、嘘)
(そんな)
(どうしよう)
(どうしよう)
受付ゾンビの脳内は完全に大混乱だった。
そんな焦りなど露ほども知らず、烏丸は以前より綺麗になったロビーへ感心したように辺りを見回していた。
そのまま、そのまま以前と同じように受付を素通りしようと歩き出す。
「行こっか、関口さん」
(あっ――!!)
その楽しげで悪気のない一言が、受付ゾンビの心臓を跳ね上がらせた。
(記帳!)
( 記帳してもらわないと……!)
(お名前を書いてもらわなきゃダメなのに!)
( でもペンが出ない!)
(出ない!!)
客が通り過ぎてしまうという恐怖と、インクが出ないパニックが混ざり合い、受付ゾンビは完全にキャパオーバーした。
涙目になりながら、両手で大事そうに古い帳面を必死に前に突き出した。
「あぅ……! ああぅぅ……!!」
必死だった。
烏丸はそれを見て、「?」と首を傾げた。
まったく事情が分かっていない様子だった。
これ以上待たせたら客が逃げてしまう――受付ゾンビが絶望の淵に立たされた、まさにその瞬間だった。
「烏丸」
横から関口が静かに声をかけた。
「なに?」
「宿では記帳する」
「えー」
口を尖らせる烏丸を、関口は厳格な眼差しで見つめた。
「"えー"ではない。宿泊名簿は宿にとって大切な記録だ。宿泊者として協力しなさい」
「なんで?」
「こういうものは、きちんと書くものだ」
「はーい」
完全に保護者だった。
そのやり取りを見上げていた受付ゾンビは思わず胸を押さえた。
(ありがとう……! 本当にありがとう、お父さん……!!)
しかし、まだペンの問題が解決していない。
受付ゾンビはハッと我に返ると、震える手でインクの出ないボールペンを関口へと差し出した。
カチ。
関口がノックする。
……やはり書けない。美しい欅の卓上で、受付ゾンビの身体が再びぴたりと固まった。
カチカチ、カチカチ。
関口がペン先を紙に滑らせ、ぐるぐると円を描くが、完全に干からびている。ペンのノック音が虚しく響く。
「あぅ……っ! あぅー!」
またしても激しく焦りだす受付ゾンビ。必死にペンを張り切って振り、何度もノックを繰り返すが、インクは一滴も出てこない。
受付の空気が静かに熾烈な修羅場と化していく。
その様子をじっと見ていた烏丸が、「あ」と声を上げた。
そのまま自分のバッグをごそごそと開ける。
取り出したのは、新品のボールペンだった。
「これ使う?」
烏丸はそれを、受付ゾンビへと差し出した。
(!!!!)
受付ゾンビの脳内で、言葉にならない大爆発が起きた。
まさか大事なお客様から、こんな最高の救いの手が差し伸べられるなんて。
しかも新品だった。
世界が終わってから一度も見たことがないくらい綺麗な、新品のボールペンだった。
透明な軸には傷ひとつなく、金属のペン先はまだ工場の輝きを失っていない。
感激のあまり胸を熱く熱く震わせながら、両手で大切そうに恭しく受け取った。
「……あぅ!」
受付ゾンビが深く頭を下げて、宝物を扱うように関口へ差し出した。
関口が宿帳へとペン先を落とす。
今度は滑らかに、黒いインクが走った。
元国家公務員らしい、寸分の乱れもない極めて美しい達筆で、自らの名前を宿帳へと記していく。
受付ゾンビは、その綺麗な文字を、まるで至高の宝物を見るようにじっと眺めていた。
宿帳に刻まれた、新しい宿泊者の名前。
一年ぶり。
本当に、一年ぶりの。生きた名前だった。
それだけで、受付ゾンビの胸は文字通りいっぱいだった。
「あぅ。」
受付ゾンビは深く頭を下げた。
そのお辞儀は、生前と寸分違わぬ、美しく洗練された角度だった。
烏丸も自然に頭を下げる。
「よろしくお願いします」
その温かい一言に。
受付ゾンビはもう一度、小さく頷いた。
嬉しそうに。本当に、本当に嬉しそうに。
そしてくるりと反転し、館内へと身体を向ける。
「あぅ。」
それは、誇り高きプロとしての「ご案内」の合図だった。
その声に合わせるように、廊下の奥から客室係のゾンビたちが静かに姿を現す。
荷物を運ぶ者。
廊下を先導する者。
客室の障子を開ける者。
そのすべての動きには、寸分の無駄も、余計な音もなかった。全てが流れるように自然だった。
関口は廊下を進みながら、思わず周囲を見渡す。
誰一人として、言葉は交わしていない。合図の目配せすらしていない。
なのに、全員の呼吸が、次の行動への連動が、まるで一つの精巧な組織のようにぴたりと合っている。
(……これが)
一流旅館。
本物の接客だった。
国家公務員として行政の枢僚にいた時代。
視察や接待で、名だたる最高級ホテルには何度も泊まった。国賓を秘密裏に迎えるための、海外の要人向け施設にも立ち入ったことがある。
だが。
ここまで自然で。
ここまで客に一歩の萎縮も、過度な緊張も与えず。
それでいて、五感のすべてにこれほど細やかな気遣いを感じさせる宿には、一度として出会ったことがなかった。
ここまでの宿を、私は知らなかった。
「……すごい。」
張り詰めた規律を重んじる関口の口から、思わず感嘆が漏れる。
その呟きを聞いた烏丸は、隣で不思議そうに笑った。
「そうなの?」
「……ああ」
関口は視線を落とさぬまま、静かに、しかし確信を込めて深く頷いた。
まだ、この時の関口は知らなかった。
自分が今、当たり前のように受けているこの極上の「おもてなし」が。
館内を静かに行き交う客室係の気配も。
磨き上げられた廊下も。
絶妙な温度に保たれた湯も。
受付で深く頭を下げたあの美しい所作も。
そのすべてが。
たった一人の青年が、この旅館にいてくれるからこそ成り立っているものなのだということを。
(第27話・『前編』 つづく)
・