客室へ案内されるとまず目に飛び込んできたのは、窓いっぱいに広がる鮮やかな夕暮れの山並みだった。
箱庭には、ミリ単位の乱れもなく丁寧に手入れされた美しい苔庭が広がり、縁側には風鈴がひとつだけ、透明な音を立てて揺れている。
関口は思わず、胸の奥で小さく息を止めた。
「……これは」
部屋そのものが、一つの完成された美術作品のようだった。
たしかに豪華ではある。だが、これ見よがしにそれを誇示するような、品のない派手さは一切ない。
清々しいい草の香りが残る青畳。
長い年月を経て静かに息づく床柱の、深い木の香り。
そして、計算し尽くされたかのように心地よく通り抜ける風の音。
そのすべてが、訪れた客の心を静かに、そして完璧に落ち着かせるためだけに存在しているようだった。ほんの数時間前まで、ここがほんの少しだけ埃が積もっていたことなど、いまのこの清浄な空気からはとても想像すらできない。
「広いね。前の部屋と違う雰囲気だ」
烏丸は背負っていたバッグを気軽に畳の上へ置いた。
相変わらず、ここがどれほど特別な格式を持つ場所なのかを気に留める様子もない。
「関口さん、好きなところ使っていいよ」
「……いや」
関口は、張り詰めていた口元をわずかに緩めて苦笑した。
「これは君の部屋だ。私が決めることではない」
「え?」
「私は隅で十分だ。……というより、壁際の方が落ち着く」
「??なんで? 変なの」
烏丸は楽しげに笑いながら、さらに大きく窓を開け放つ。
さえぎるもののない山の冷涼な風が、一気に部屋の奥へと流れ込んできた。
タイミングを見計らったように、廊下から客室係のゾンビが静かに現れた。
呼吸の音もしない。衣擦れの音すらしない。ただ、手入れされた白手袋の手がしなやかに、迷いなく動く。
音もなく湯呑みを置き、音もなく急須へ湯を注ぎ、そして、音もなく一礼して去っていく。
その一連の動作のすべてが、あまりにも自然で、流れるようだった。
関口は思わず、その背中を目で追ってしまう。
(速い)
(だが、急いでいるようにはまるで見えない)
(ただ、必要な気配だけを空間に残して、音もなく消えていく……)
国家公務員として行政の枢僚にいた時代。
国賓の対応を任されるような、世界に名だたる最高級ホテルでもこれほどの所作は見せられなかった。客が「何かをしてもらった」と意識するよりも先に、そこにあるべき必要なものだけがすべて完璧に揃っている。
これこそが、かつての世界でも失われて久しい、接客の究極形だった。
「関口さん、お茶どうぞ」
烏丸が、自分の前に置かれた湯呑みを差し出してくる。
「ありがとう」
関口はそれを受け取り、一口、喉に含んだ。
(……!)
美味い。
あまりの美味さに、湯呑みを戻す手が思わず止まった。
「…………」
何だ、これは。
雑味も渋みも、一切がない。ただ、澄んだ茶葉の香りだけが鼻腔へと心地よく抜けて残る。何より、今この瞬間に飲むお茶として、温度までが完璧だった。熱すぎず、ぬるくもない。
喉を優しく潤す、至高の適温。
「美味しい」
「……ああ」
張り詰めていた心が、その温もりにわずかにほどかれ、自然とそう答えていた。
その頃。
二人がくつろぐ客室のすぐ外、静まり返った廊下では。
用件を終えて退室した客室係のゾンビたちが、胸の前で小さく、だが力強く拳を握りしめていた。
(お茶を、飲んでくださった)
(お連れ様のお口に、ちゃんと合った)
(良かった……)
誰も、言葉は交わさない。うめき声すら出さない。
ただ静かに、旅館としての誇りが満たされた喜びを、その朽ちかけた身体の奥で熱く噛み締めているのだった。
ほどなくして、ふたたび障子が開かれ今度は茶菓子が運ばれてきた。
漆塗りの器に静かに鎮座していたのは、実に見事な仕まいの上生菓子だった。世界が崩壊する前、厳重に密閉され奇跡的に保存されていた貴重な材料をすべて注ぎ込んで作られた、この旅館が持つ最後の在庫であり、職人たちの最高傑作だった。
「わあ」
烏丸がパッと目を輝かせる。
「和菓子だ」
「いただこう」
関口も静かに黒文字(菓子楊枝)を取る。
一口、口へと運んだ。
(…………)
甘い。
暴力的な甘さでは決してない。素材の風味を極限まで引き出した、どこまでも繊細で上品な味わいだった。
「……」
関口の手が、またしても止まる。
美味しさのあまり、無言で今までになく咀嚼し続ける。
―――お茶だけでなく、添えられた菓子にいたるまで一切の妥協がない。かつて国を背負う人間たちを唸らせてきた日本最高峰の技術が、いま、この壊れた世界で完璧に再現されていた。
「どう、関口さん?」
「……美味い」
烏丸はそれを聞いて、本当に嬉しそうに笑った。
「でしょ」
まるで、自分が褒められたかのように誇らしげな笑顔だった。
目の前の一流の品々にビビり倒し、圧倒されている関口さんを、この無垢な青年はただ楽しそうに見つめている。
*
夕方になり、烏丸ご一行は露天風呂へ案内された。
そこは豪快に岩が組まれた、見事な岩風呂だった。
その向かいには、夕暮れに染まる山並みを見渡す絶景が広がっている。
白く清らかな湯気が、冷涼な山の風に優しく溶けて消えていった。
「……」
関口は、静かに湯の中へと身体を沈めた。
熱すぎない。
ぬるすぎない。
それは身体の芯から自然と力が抜けていくような、絶妙な温度だった。
(……)
気付けば。
鉄板のように強張っていた肩の力が、完全に抜けていた。
(ここ一年。こんな風に湯へ浸かったことがあったか)
いくら頭を巡らせても、思い返すことすらできない。
世界が崩壊してからのシェルターでの日々。そこでの入浴は、ただ限られた時間の中で、身体の汚れを義務的にシャワーで洗い流すだけだった。
休むためではない。
清潔にし、不衛生による死を防ぐだけの…明日も生き延びるための入浴。ただそれだけだった。
常に責任を背負い周囲を警戒して、張り詰めていた四肢が温泉の柔らかい湯にじわじわと解きほぐされていく。
「気持ちいいねぇ、関口さん」
向こうの湯船で、首まで浸かった烏丸が笑う。
「……ああ」
また、余計な思考を挟むことなく、自然と答えていた。
*
風呂から部屋に戻る頃には、すでに真っ白な布団がシワ一つなく敷かれていた。まるで定規で測ったかのように角がピシッと整っている。
自分たちが部屋を空けていた、ほんの二、三十分の間の出来事。誰がいつ入ってきて、どうやって敷いたのか。
音ひとつ、気配ひとつすら、廊下ですれ違うことさえなかった。全く気付かなかった。
それだけではない。
卓上には、火照った身体を労るような、絶妙に冷えた湯上がりのお茶まで静かに置いてある。
「……」
関口はそれらを見つめ、ハハ、と思わず乾いた笑いを漏らした。
「どうしたの、関口さん?」
不思議そうに尋ねる烏丸に、関口は湯呑みを手に取り、少し考えるように間を置いた。
「いや」
そして、静かに、重々しく言葉を紡ぐ。
「ここは」
「うん」
「人を駄目にする宿だな」
「え?」
烏丸は、『宿がおもてなしすることは当たり前のことでしょ?』首を傾げる。やはり分かっていない。
「……そうかな?」
「そうだ」
関口の返答は、即答だった。
「何もしなくても、必要な物が全部先回りして出てくる。座ればお茶が出る。菓子が出る。風呂へ行けばすぐに布団が敷かれる。歩けば道が整っている」
関口は一度言葉を切り、真面目くさった顔で湯呑みを見つめた。
「これは……駄目になる。人間としての機能が損なわれる」
あまりに大真面目なトーンの分析に、烏丸は思わず吹き出した。
「あはは! そんなことないよ」
「ある。断言する!」
関口はぴしゃりと言い放った。
「ここへ一週間いたら、私は社会復帰できん。二度と元の過酷な任務には戻れん体になる」
「そこまで?」
「そこまでだ。国家の危機管理を担う者としては、最も警戒すべき恐怖の空間だ」
珍しく、冗談ではなく本気の真顔だった。そのあまりにも頑なで極端な生真面目さに、烏丸はついに笑いが止まらなくなった。
「あははは! おかしいよ関口さん!」
部屋の外。
襖一枚を隔てただけの静まり返った廊下では。
用件を終えて控えていた客室係のゾンビたちが、彫像のように静かに固まっていた。
誰も言葉は交わさない。だが、彼らの脳裏には、室内の関口が漏らした重々しい呟きが、はっきりと
(――褒められた)
(駄目になる宿、と仰ったぞ)
(……それ、我々にとって最高の誉め言葉では?)
(よし、もっと頑張ろう)
衣服こそ僅かに色褪せているものの、白手袋を嵌めた全員の頭が、暗がりの中で深く、深く、意思を一つにして頷いた。
かつて世界が崩壊する前。
この日本最高峰の宿で、一流の旅館従業員として汗を流していた頃。
何よりも嬉しかった、命を救われるようだったあの言葉。
「また来たい」
関口が真顔で放った「社会復帰できん」という降伏の響きは、彼らにとって、まさに以前烏丸が言った一言に値した。
その至高の称賛の言葉と寸分違わないものとして、胸の奥へと熱く、深く突き刺さった。
客を喜ばせたい、ただそれだけのために。
彼らは生前の形をなぞるのではない、本物の「プロの誇り」をその瞳に再びギラギラと蘇らせ、次なるおもてなしの戦場へと、静かに闘志を燃やすのだった。
夕食の時間が近づく。
障子を閉め切った客室のなかにいても、廊下の向こうから静かに漂ってくる、極上の出汁の香りが鼻腔をくすぐった。
炭火でじっくりと燻された芳ばしい焼き魚の匂い。そして、ふっくらと艶やかに炊き上げられた、純白の米の甘い気配。
ぐう、と。
関口の腹が、静かに鳴った。
その音を、すぐ隣にいた烏丸の耳が聡く捉える。
烏丸は悪戯っぽく笑った。
「関口さん、お腹すいた?」
「……少しな」
「ご飯、楽しみだね」
「……ああ」
その返事は、関口が自分で思っていた以上に、驚くほど柔らかいトーンだった。
長年、冷徹な規律と任務の中に身を置いてきた関口自身、自分の声がこれほど優しく丸くなっていることに、まだ気付いてすらいなかった。
ただそれほどまでに。
鉄板のようだった肩の力が、芯から抜けていた。
周囲への果てしない警戒も。
一歩判断を間違えれば死に至る世界の、あの息の詰まるような緊張も。
この宿へ来て、彼らの神業のような先回りのおもてなしに身を委ねてからというもの、すべてが嘘のように綺麗に剥がれ落ちていた。
人生で、本当に初めて。
心のどこかで、「今日は、休んでもいい」――そう、心から思えていたのだ。
そして、今自分が味わっているこの極上の安らぎが。
いつ崩壊してもおかしくない束の間の奇跡であることを――――……関口は、まだ知らない。
*
客室係のゾンビたちに案内された一室で、烏丸と関口が談笑しちょうど一つの話に区切りがついた。
そこへ、タイミングを見計らったように料理を乗せたお膳を両手に抱え、料理人や仲居のゾンビたちが静かに姿を現した。
お膳の上に並ぶ料理は、一品、また一品と、寸分の狂いもない絶妙な間で運ばれてきた。
焼き物。
煮物。
刺身。
椀物。
どれも温度が違う。
香りが違う。
盛り付けが違う。
そのすべてに、こちらの進み具合を完璧に見計らったプロの眼差しが宿っていた。
関口は余計な思考を挟む隙すらなく、ただ箸を止めることだけを忘れて食べ続けた。
(ああ、本当にすごい)
それしか、言葉が浮かばなかった。
国家公務員として贅を尽くした会合を重ねてきた関口の引き出しを以てしても、この壊れた世界で提供される一皿一皿の完成度には、ただ圧倒されるしかなかった。
食べ終えた頃。
客室係は、やはり音もなく食器を下げていく。
器が擦れ合う音がしない。
閉まる襖も、いっさいの音を立てない。
その一連の流れるような引き際を、静かに見送りながら。関口は、不意に思った。
(私は)
今日一日。
何一つ、気を遣っていない。
重い荷物を自分で持つことも、次の行動や予定を考えなくてもいい。
死と隣り合わせの世界で、周囲を警戒しなくてもいい。
全部、自分が動くより先に彼らが、完璧に先回りしてお膳立てをしてくれている。
視線の先では。烏丸が畳へ寝転びながら、無邪気な横顔でメイドゾンビを見上げた。
「この旅館、やっぱり好きだなぁ」
と、心底幸せそうに笑っている。
その笑顔を、その烏丸の無自覚な佇まいを見た瞬間。
――その瞬間、じわじわと身体を満たしていた極上の安らぎのなかで、関口はふと息を止めた。
今日一日に起きた奇跡のような出来事のすべてが、関口の脳裏で、音を立てて一本の美しい線になった。
(……違う)
脳裏に去来したのは、今日一日のあまりにも完璧すぎたもてなしの記憶だった。
玄関の受付で、震える指先で宿帳を差し出してきた白手袋の受付係。
寸分違わぬ絶妙の間で、一番美味しい温度の茶を淹れて去った客室係。
露天風呂を完璧に整え、音もなく真っ白な布団を敷き、あの至高の料理を運んできた者たち。
そのすべての所作を思い返した時、関口の思考に冷徹な違和感が突き刺さる。
誰一人として、自分を見ていたわけではなかった。彼らの極上のプロフェッショナルな眼差しが向けられていた先は、最初から、ずっと。
隣にいる、烏丸だった。
畳の上に寝転び、無邪気に笑う青年を見つめる旅館ゾンビたちの眼差し。それは人間を貪り喰らう獲物として見る、怪物の濁った情動では断じてない。
大切な人が、私たちのお客様が、ようやくここに帰ってきた。ただ、それだけを純粋に喜ぶ、愛おしげな人間の顔だった。
(そうか……)
(合点がいった)
関口の胸の奥へ、静かに、だが抗いようのない確信を伴って答えが落ちる。
この日本最高峰の旅館が突然息を吹き返したのも。
怪物の群れが奇跡的に理性を保っているのも。
すべては――烏丸が、今ここにいるからだ。
あの青年がこの空間に身体を置いている、ただそれだけの時間。彼らは脳髄を削るような悍ましい飢えを忘れ、腐敗の痛みを忘れ、生前の人間としての誇りを取り戻すことができる。だからこそ、受付は受付として、料理人は料理人として、仲居は仲居として、この宿は本来あるべき姿へと還ることができたのだ。
(……ならば)
烏丸がここを去れば、どうなるか。
彼がこの場所から一歩でも離れてしまえば、この静かな笑顔も、この満ち足りた温もりも、この美しい旅館そのものも、すべてが一瞬にして終わる。彼らは再び、本能のままに人を喰らうしかない狂気の地獄へと叩き落とされてしまう。
関口は、自分の膝の上で静かに拳を握りしめた。
(この子を、一人では歩かせられない)
それは、上層部から命じられた任務だからでも観測対象としての合理的な判断でもなかった。
烏丸が歩みを進めるその足跡だけが、この狂った世界のなかで人とゾンビが互いの尊厳を保てる「帰る場所」になる。その本質を、いま自分の身体で理解してしまったからだ。
(絶対に死なせてはいけない)
そして――あの冷酷なシェルターに連れ戻したくない。
このまま、無邪気な笑顔でいさせてやりたい。
あそこで――――便利な「抗体保持者」という名の”装置”として消費させるわけにはいかない、絶対に。
(それでもなお)
関口は初めて、任務や義務のすべてを削ぎ落としたところで、心の底から強く思った。
(……もう少しだけ)
隣を見れば、満腹になった烏丸が、なんの警戒もなく眠そうに欠伸を噛み殺している。
そのあまりにも無防備な横顔を見つめながら、関口の口元から、ふっと小さく優しい笑みが零れ落ちた。
それは任務ではない。
義務でもない。
かつて家族を失った、一人の大人として。
ただ、この青年には、この穏やかな時間の中で無邪気に笑っていてほしい――そう願ってしまった。
(もう少しだけ、この子をここへ居させてやりたい)
*
夜。温泉旅館は、耳が痛くなるほどの深い静まり返りを見せていた。どこか遠くで鳴く秋虫の音だけが、遮るもののない山の漆黒の闇へと、静かに、優しく溶けていく。
烏丸は一足先にそのふかふかの温もりへと潜り込み、今日一日の余韻を噛みしめるように、満足そうな顔で天井の木目を眺めていた。
「今日は楽しかったなぁ」
何気なく溢された、子供のように純粋なその一言。
それを隣の布団で聞いていた関口は、何も言わずに静かに目を閉じた。昼間、自分自身が辿り着いてしまったひとつの答えが、どうしても脳裏を離れてくれない。
この宿は、烏丸がいるから宿でいられる。
その事実だけが、胸の奥へ重く沈んでいた。
もし、明日ここを発てば。
受付は。
仲居は。
料理人は。
客室係は。
もう、旅館ではいられない。
彼らは再び、ただ飢えだけに支配された怪物へと戻るのだ。
関口は静かに、障子へと視線を向けた。
しんと静まり返った廊下を、白手袋をはめた客室係が、音もなく歩いていく。
厨房では料理人たちが、明日の朝のための仕込みを、もう始めさせているのだろう。
誰も急いでいない。
誰も焦っていない。
そして恐ろしいことに、誰一人として、烏丸を引き留めようとはしていない。
ただ、明日の朝も、このお客様に喜んでもらおう。
それだけを考えて、彼らは動いている。
純粋で、濁りのない、その善意こそが何よりも恐ろしかった。
彼らには、「見送る」という発想が最初から存在しないのだ。
また来てほしい。
ではなく、明日も。
明後日も。
この宿で笑っていてほしい。
それが、彼らにとってあまりにも自然すぎる願いなのだ。
「明日、どこ散策しようかな」
烏丸が眠そうに笑う。
関口は返事をしなかった。
ただ静かに布団へ横になる。
(……まずい)
(次の目的地を決めて、一刻も早くこの宿を発たせなければ)
(このままでは──)
関口の焦燥を置き去りにしたまま、障子の向こうでは、明日の朝を迎える準備だけが何事もないように静かに続いていた。
この旅館の誰もが。
また来てね、ではなく。
また明日も、ここにいてねと信じて。
(第27話・『後編』 おわり)
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