ゾンビ公認:この人間は食べられません   作:めぇ

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第28話:漂着物

 

潮の香りが、ぬるい風に乗って運ばれてくる。

 

鬱蒼とした山道を抜けた先で、一気に視界が開けた。そこに広がっていたのは、どこまでも遮るものなく続く、圧倒的な青い海だった。登り始めたばかりの朝日を浴びて白くきらめく波が、ゆったりとしたリズムで砂浜へ打ち寄せては、静かに引いていく。

 

「わぁ……!前より綺麗になってる……!!」

 

烏丸が、子供のように無邪気に目を輝かせた。

 

「どう? 関口さん。ここ、すごく綺麗でしょ!」

 

弾むような声を上げるが早いか、彼は靴を脱ぎ捨てて白い砂浜へと勢いよく駆け出していく。

足元では、ハヤテも歓喜したように短く吠えて後を追い、水飛沫を上げながら楽しそうに波打ち際を走り回っていた。

 

「……ああ」

 

関口は、大きく広がる静かな海を見渡し、小さく頷いた。

これほど穏やかな海を、ただの美しい景色として、何の損得もなく眺めたことなど一度もなかった。

 

視認できる海岸線に危険は見当たらない。

徘徊するゾンビの気配すらなく、ただ心地よい潮風だけが二人の間を静かに吹き抜けていく。

 

(……)

 

ふと、昨夜まで身を寄せていたあの温泉旅館のことを思い出す。

 

あの宿を発とうとした、今朝の玄関口。

見送りに並んだゾンビたちの中で、フロントに立つ支配人ゾンビと、ほんの一瞬だけ真っ直ぐに目が合った。

あの濁った瞳の奥。その目だけが。

 

(余計なことを)

 

そう言われたような気がした。

 

だが、次の瞬間には生前と何一つ変わらぬ、背筋の伸びた美しい所作で深々と頭を下げていた。

 

 

 

関口は思考を振り払うように、小さく首を振る。

 

昨日、あのタイミングで宿を発ったのは正しい判断だった。

そう自分に言い聞かせて結論づけ、砂を踏みしめて歩き出した。

 

「関口さん!」

 

前方をハヤテと楽し気に歩いていた烏丸が、何かを見つけて勢いよく振り返る。

 

「あそこ! 灯台!」

 

彼の指差す岬の先、青い空に向かって白い灯台がぽつんと孤独に立っていた。

 

「行こう!」

「ああ」

 

二人は初夏の柔らかな潮風を全身に受けながら、あの白い灯台へ向かって、のんびりと歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

灯台へ続く海岸には、流木や大小さまざまな貝殻、長い年月をかけてどこからか流れ着いた漂着物が、あちこちに小さな山を作っていた。

 

「あっ!」

 

烏丸が砂浜にすとんと、楽しそうにしゃがみ込む。

草むらの隙間の砂へ半ば埋もれていた何かを細い指先で摘み上げると、朝の陽の光を反射して、小さな金色の円盤がきらりと眩しく光った。

 

それは、小さな灯台の記念メダルだった。

世界が完全に崩壊してしまう前、この観光名所の灯台を訪れたかつての人々へ、記念に販売されていたものなのだろう。

 

「かわいい」

 

烏丸は小さく呟き、まるで砂場で最高のお宝を見つけた子供のように嬉しそうにじっくりと眺めると、それを傷つけないように大切そうにリュックのポケットへしまった。

 

関口は思わず、その幼児のような無邪気さに苦笑する。

 

「そんな物まで拾うのか」

「旅の思い出だから」

 

屈託なく笑う。

その笑顔に、関口も小さく笑みを漏らした。

 

「……また荷物が増えるぞ」

「大丈夫、大丈夫」

 

軽い足取りで歩いていく烏丸の背中を見つめながら、関口は静かに肩を竦めた。

本人は旅をしているつもりなのだろうが、関口には砂浜で宝探しをする子供にしか見えなかった。

 

 

 

 

 

 

灯台へ登り、海を見渡した烏丸が、小さく声を上げる。

 

「あれ」

 

関口も視線を向ける。

海岸線の先に、巨大な建物が半ば崩れたまま静かに海を見下ろしていた。

 

色褪せた看板には、かろうじて文字が残っている。

『○○水族館』

 

「前は読めない……けど、水族館だ」

烏丸が呟く。

 

「行ってみる?」

「……そうだな」

 

二人は灯台の急な階段を降り、海沿いに伸びる古い遊歩道を歩き始めた。

 

 

 

近づくにつれて、その建物の傷み具合がありありと見えてくる。

かつて数多の魚たちが泳いでいたであろう巨大水槽は無残に叩き割られ、周囲の床には鋭利なガラス片が陽の光を反射しながら、あちこちへ散乱していた。入口には太い蔦が複雑に絡みつき、長い年月、人の手が入っていない廃墟のように見えた。

 

だが。

 

「……」

 

関口の足が、ピタリと止まった。

視線を地面へと鋭く見下ろす。

 

(新しい)

 

風に消されかけている砂の上の足跡。一部だけ執拗に踏み固められた地面。隅に残された煤けた焚き火の跡。そして、最近刃物で切り出されたような生々しい断面を持つ木材。

 

明らかに、誰かがここで生活している。

 

ゾンビではない。

規律と防衛本能を捨て、泥臭く今を生き延びようとしている、生身の人間の痕跡だった。

 

 

その張り詰めた空気を、肌に触れる微かな風から察したのだろう。

 

烏丸も静かに周囲を見回し、その端正な表情を曇らせた。

さっきまで真っ青な海を前にして幼児のようにはしゃいでいた無邪気な笑顔は、もうどこにもなかった。

 

「……」

 

烏丸は足元の生々しい生活ゴミを少しの間だけ見つめてから、関口を見上げる。

 

「……ここ、行くのやめよっか」

 

その声の温度は、驚くほど静かで、冷え切っていた。

その表情を見ただけで、関口には理由が分かった。

 

関口は彼の心情を汲み取るように、短く頷いた。

 

「ああ」

 

二人はそれ以上何も言わず、来た道を引き返そうと砂を踏みしめて踵を返した、その時だった。

 

「ま、待って」

 

割れたガラスの建物の奥から、喉を掻き切るような、切羽詰まった高い声が響いた。

 

二人が弾かれたように振り返る。

巨大水槽の物陰から、薄汚れた衣服を身にまとった、酷くやつれた男女が震えながら姿を現した。

彼らは自分たちの目を疑うように、信じられないものを見るような顔で囁くように聞いた。

 

「あなたたち……」

「噛まれてないの?」

 

生身の人間。

食料の不足にふらついた体。利害、そして他者を信じられないという圧倒的な疑心暗鬼でギョロついた目。

関口だけが、静かにその表情を険しくした。

 

(……来たか)

 

 

ゾンビよりも。

人間の方が、厄介なこともある。

 

 

(第28話 おわり)

 

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