「噛まれてないの?」
物陰から現れた男女は食料不足で頬は痛々しいほどにこけ、衣服も泥と埃で黒ずんで薄汚れていた。それでも、そのギョロついた瞳だけは異様なほどに強く、強い不信の光を宿してただ泥臭く生き延びようという執念だけをギラギラと宿していた。
その時だった。
烏丸の足元で、ハヤテが低く喉を鳴らした。
「ヴゥ……」
いつも嬉しそうに尻尾を振っているはずのハヤテの、初めて聞くような鋭い唸り声だった。
烏丸が驚いたように振り返る。
「ハヤテ?」
それは明確に、目の前の人間たちを警戒するような、獣の本能が放つ唸り声だった。
だが、その場から飛び掛かろうとはしない。
烏丸はゆっくりと砂の上にしゃがみ込み、ハヤテの首元を手のひらで優しく撫でた。
「大丈夫だよ」
その温かい声に応えるように、ハヤテは喉の力を抜き、小さく鼻を鳴らす。
続いて関口も、烏丸の隣へ静かに腰を落とした。そして無言のまま、ハヤテの冷たい背を大きな手で軽く撫でた。
ハヤテは一度だけ、信頼を寄せるように関口を見上げ、小さく尻尾を振る。彼が自分の新しい仲間であると、この優秀なゾンビ犬も本能で認めているようだった。
それだけで十分だった。
(……分かった)
関口はハヤテの言いたいことを察し、静かに立ち上がる。
一方、やつれた男女はその一連の光景を、息をするのも忘れたかのように食い入るように見つめていた。
所々毛が無い、紛れもないゾンビ犬。それなのに、目の前の生存者へ牙を向けるどころか、ごく自然に二人へ身体を預けてぬくもりを感じている。そして、その横にいる二人も、その異常事態を当たり前のように平然と受け入れている。
男が小さく、喉の奥で息を呑んだ。
「……従わせてるのか」
生きたままゾンビ犬を飼い慣らすその圧倒的な違和感に圧倒される。だが、その驚きは、すぐに腹の底から突き上げてくる切実な空腹の痛みに飲み込まれていった。
「お願いです」男は縋り付くように、一歩だけ前へ出た。
関口は、その動きを鏡のように映して一歩だけ下がる。
社会人としての危機管理マニュアル通り、一定の安全距離は絶対に崩さない。
その冷徹な拒絶の圧に押され、男もそれ以上は近付けなかった。
「食べ物……ありませんか」
返事はない。
烏丸も、関口も、静かに彼らを見つめるだけだった。
「缶詰一つでも」
沈黙。
「何日も、まともに食べてなくて……」
なおも縋るように、乾いた唇から言葉を重ねる男の袖を、隣の女性が小さく引っ張って制した。
「……もうやめて」
その声には諦めと、他者への深い拒絶が混じっていた。
男はやり場のない怒りを噛み殺すように、悔しそうに口を閉ざした。
女性は改めて二人を見た。
服装。
背負った荷物。
無駄のない立ち姿。
そして、ハヤテ。
何一つ見逃すまいとするように、その鋭い視線だけが静かに動く。
「旅ですか」
関口は短く答えた。
「ああ」
「どこから?」
「旅をしている」
「目的地は?」
「旅だ」
「何人で?」
「……」
答えない。
女性はそれ以上追及しなかった。
それで十分だった。
旅。
食料。
荷物。
そして、この滅びた世界にはおよそ不釣り合いな圧倒的な精神的余裕。
この二人は、自分たちより遥かに安全に生き延びる術を持っている。
女性は男へ一瞬だけ視線を送った。
男もその意味を理解し、小さく頷く。
その瞬間、ハヤテが再び低く唸った。
「ヴゥ……」
今度はさっきよりも、わずかに低い。
関口だけが、その変化に気付く。
(……方針を変えたな)
奪うか、あるいは取り込むか。彼らのギョロついた目の奥の色が変わったのを、関口の危機管理センサーが正確に捉えていた。
「……もしよければ」
女性が静かに口を開く。
その声には、先ほどまでの刺々しさは消え、不自然なほどの穏やかさが混じっていた。
「私たちと、一緒に暮らしませんか」
烏丸は少しだけ目を丸くした。
「ここには私たち以外にも仲間がいます」
「みんなで助け合って生活しています」
「人数が増えれば、その分だけ生き残れる可能性も――」
「断る」
女性の言葉を、関口は途中で遮った。
短く、はっきりと。
そこには一切の交渉の余地を与えない鋭さがあった。
女性はなおも諦めない。
「話だけでも――」
「断る」
今度は男が口を開く。
「でも、この世界じゃ一人じゃ――」
「一人じゃない」
男は言葉を失う。
女は黙って関口、いや烏丸の反応を見ていた。
揺らぐとすれば、関口ではない。
そう判断したのだろう。
関口はそれ以上何も言わなかった。
必要以上の情報は、一つたりとも渡さない。会話そのものが、相手へ材料を渡すことになる。
その一歩も引かない張り詰めた様子を少し後ろから見ていた烏丸が、そっと関口を見上げる。
(……あげないの?)
荷物、いっぱいあるのに。
そんなことを言いたげな顔だった。
関口は、烏丸のその視線を受け止め、小さく首を横へ振る。
烏丸は少しだけ困ったように眉を下げ、もう何も言わなかった。
「……そうですか」
女性は静かに息を吐いた。
諦めたようにも見えるが、その目だけは違った。
関口と烏丸。
そしてハヤテ。
三者をゆっくりと見比べる。
その視線に、値踏みするような重さが混じる。彼らが今この過酷な世界でどれほどの価値を持っているのか、それを冷酷に計算しているかのような目だった。
関口は無言のまま、迷いなく踵を返した。
「あっ……」
男性が慌てて呼び止めようとする。
しかし、女性がそっとその腕を掴み、目を合わせて止めた。
男性は手をゆっくり下げた。
関口と烏丸は何も言わず、その場を離れた。
割れたガラスを踏みしめ、廃水族館の出口へ向かって歩き出す。
背中へ。
じっとりと肌に貼り付くような、湿った視線だけが、いつまでもどこまでも続いていた。
*
海岸沿いの遊歩道を歩く。
先ほどまでの張り詰めた緊張感をかき消すように、ただ白い波の音だけが周囲に静かに響いていた。
烏丸が、ぽつりと口を開いた。
「……人間だったね」
「ああ」
少し歩いてから、烏丸がまた静かに尋ねる。
「どうして食べ物、あげなかったの?」
関口は真っ直ぐに広がる海を見たまま、抑えた声音で答えた。
「情報も食料も、同じだ」
「一度渡せば、次も求められる」
烏丸はそれ以上口を挟まず、関口の言葉を静かに聞いていた。
「……人間と生活するのは嫌か」
関口の予期せぬ問いに、烏丸は少しだけ歩みを緩め、考えた。
それから、いつものおおらかな調子を取り戻したように、小さく笑う。
「関口さんがいるから、十分だよ」
初夏の穏やかな潮風が、二人の間を通り抜けていく。
「それに……今くらいが、ちょうどいい」
その言葉に、関口は何も返さなかった。
ただ、その意味を噛み締めるように、小さく頷くだけだった。
(第29話 おわり)
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