海岸を離れ、二人は山道をゆっくりと歩いていた。
潮の香りは次第に薄れ、代わりに湿った土と青々とした木々の匂いが鼻をくすぐる。
ハヤテはいつものように烏丸の少し前を歩いていたが、何度か立ち止まっては後ろを振り返っていた。
ぴんと耳を立て、低く鼻を鳴らす。
「どうした?」
烏丸が首を傾げる。
ハヤテは何も答えず、もう一度だけ自分たちが歩いてきた後方へ視線を向けたあと、烏丸の足元へ小走りで戻ってきた。
関口だけが、その一連の様子を静かに見つめていた。
(……追ってきてはいない)
ひとまずは安心していい。
それでも、相手が何を考えているか分からない生身の人間だからこそ、絶対に油断はできなかった。
「今日はこの辺りで野営にする」
「わかった」
烏丸はいつもの調子で笑った。
その屈託のない笑顔を見て、関口もようやく強張っていた肩の力を少しだけ抜いた。
*
山間の開けた場所へ、大きな大型バスが停まる。
ピカピカに磨き上げられた高級ヴィンテージカーも、その横へ静かに並んだ。
車が停止するやいなや、いつものように屋敷のゾンビたちが慣れた手付きで野営の設営を始める。
ベテランの運転手ゾンビがどこかから頑丈な薪を運び。
執事ゾンビが手際よく折り畳み机と椅子を広げ。
メイドゾンビたちは持参した調理器具を並べ、夕食の支度を始める。
その甲斐甲斐しい様子を特等席から眺めながら、老紳士ゾンビは今日も大切そうに、腕の中に一本のロマネ・コンティを抱えていた。どことなく嬉しそうだった。
烏丸が今日も怪我もなく、無事に自分の元へ帰ってきた。
彼らにとっては、本当にそれだけで十分にすぎる理由だった。
「今日もありがとう」
烏丸が穏やかに笑う。
その声に応えるように、屋敷のゾンビたちは一斉に、静かに、深く頭を下げた。
夕食を終える頃には、辺りはすっかり深い夜の帳に包まれていた。
「眠い……」
大きな欠伸をした烏丸の背中を、メイドゾンビがそっと優しく押して大型のテントへと案内する。
「おやすみ」
そう言ってシュラフの中へ潜り込んだ烏丸は、日中の疲れもあったのか、ものの数分で健やかな寝息を立て始めた。
ハヤテはその枕元へと寄り添うように伏せる。しばらくの間、烏丸の無防備な寝顔をじっと見守っていたハヤテだったが、主人の安全を完全に確認すると、音もなく静かに立ち上がってテントの外へと出た。
パチパチと薪のはぜる音が響く、焚き火の前には、関口と屋敷のゾンビたちが自然な佇まいで一堂に集まっていた。関口は座ったまま異形たちの顔を一人ずつ見回し、静かに口を開く。
「報告する」
焚き火の火が、夜風に煽られて小さく揺れた。
「廃水族館で生存者二名を確認」
「男女」
「どちらも深刻な栄養失調」
「精神状態はかなり切迫していた」
ゾンビたちは一切のうめき声も立てず、ただ静かに元管理官の言葉を聞いている。
「建物周辺には新しい生活痕が複数」
「焚き火跡」
「加工された木材」
「踏み固められた地面」
「足跡」
「最低でも、あの二人だけではない」
関口はそこで一度言葉を切り、少しだけ間を置いた。
「建物の奥にも、ある程度の規模の生活圏がある可能性が高い」
その分析に、執事ゾンビがゆっくりと理解を示すように頷く。
「こちらの服装や装備も、完全に観察されていた」
「途中までは明確な食料目的」
「しかし途中から、こちらの戦力や情報収集へと切り替えた」
「女性の方が主導していた」
「あれは交渉ではない」
「奪えるか否かの、値踏みだった」
焚き火が、暗闇の中でぱちりと寂しく鳴る。
「現時点で追跡は確認できなかった」
「だが、油断は出来ない。警戒は継続する」
これで、関口からの報告はすべて終わった。
しばらくの間、山間に心地の悪い静寂が流れた。
やがて、執事ゾンビが足元から一本の枯れ枝を拾い上げると、灰の混じった地面へ滑らかに線を引いた。
自分たちが歩いてきた海岸。
先ほどまでいた灯台。
人間の潜む廃水族館。
そして、今こうして火を囲んでいる現在地。
言葉を介さないゾンビが描いたとは思えないほど、簡潔で正確な地図だった。
運転手ゾンビが、その線から伸びる先の一本の道路を泥のついた指でそっとなぞる。
メイドゾンビはバスのトランクに収められた保存食のケースへ軽く触れ、それから地面の地図を冷静に見つめた。
最後に、アロハシャツを着た老紳士ゾンビが遠くの山の向こうにある町の方向を見つめ、小さく首を横へ振る。
誰も、一言も喋らない。
それでも、その場にいる全員の思考が、全く同じ結論へと確実に近付いていた。
その時だった。
「ヴゥ……」
暗闇から現れたハヤテが、低く喉を鳴らした。
全員の濁った視線が、一斉にハヤテへと集まる。
ハヤテは廃水族館のある方角を一度だけ鋭く見つめたあと、関口のすぐ隣へと静かに座った。
耳を伏せ、短く鼻を鳴らす。
そして、老紳士ゾンビと同じようにかつて栄えていた町の方向を見つめ、もう一度だけ、小さく唸った。
関口はハヤテのその賢い瞳を見つめ、静かに頷いた。
「……追跡の可能性は低い」
「だが、あの規模なら人間はまた現れる」
ハヤテは一度だけ、ふさふさとした尻尾を静かに振った。まさにその通りだ、と同意するような仕草だった。
関口は再び、地面の地図へと視線を落とした。
「やはり、中途半端な人里は避けるべきか」
執事ゾンビは、その問いに静かに首を横へ振った。
そして持っていた枝を大きく動かし、現在のルートからさらに遠く離れた場所――かつて何百万もの人々が暮らしていた、巨大な都市の跡へと深い印を付けた。
関口はそれを見て、鋭く目を細める。
「なるほど」
皮肉なものだった。
人口が少ない中途半端な地方都市ほど、生き残った僅かな生存者たちが限られた物資にしがみつき、飢えから互いを激しく奪い合う。だが、かつて人間が溢れかえっていた大都市は。今となっては、そのほとんどがゾンビで埋め尽くされている。
烏丸と共にいる自分たちにとって、その膨大な数のゾンビは、むしろ人間を寄せ付けない壁になる。生き残った狂暴な人間同士が最悪の確率で遭遇する可能性は、むしろ大都市の方が圧倒的に低くなるのだ。
物資、道路、宿泊施設もまだ残っている可能性が高い。
腕の中に最高級のロマネ・コンティを抱いたまま、老紳士ゾンビも静かに頷いた。
執事ゾンビは地図を見つめたまま枝を置いた。
しばらく様子を見ていた関口は、静かに地図を畳む。
「次の目的地を変更する」
焚き火が静かに揺れる。
「次は――大都市へ向かう」
誰も反対しなかった。
運転手ゾンビは大型バスへ目を向ける。
メイドゾンビは翌朝の準備を始める。
執事ゾンビは地図を丁寧に片付けた。
ハヤテだけが一度、烏丸の眠るテントを振り返る。
小さく尻尾を揺らし、安心したようにその場へ伏せた。
準備は、もう整っていた。
(第30話 おわり)
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