大型バスは、朝の山道をゆっくりと走っていた。
窓の外では初夏の陽射しを浴びた木々が流れ、木漏れ日が規則正しく車内へ差し込んでは消えていく。
運転席では運転手ゾンビが今日も正確なハンドルさばきで山道を進み。
後方ではメイドゾンビたちが収納ケースを点検し、執事ゾンビは今日の買い物リストを静かに見直していた。
老紳士ゾンビは相変わらず、一本のロマネ・コンティを大切そうに抱えている。
その中央、お気に入りの窓際の席へ腰掛けた烏丸は、流れるように去っていく緑の景色をぼんやりと眺めていた。
そのすぐ隣には、関口が座っている。
旅へ出てから、移動中の座席は自然とこの位置へ落ち着いていた。
大型バスへ乗り込み、隣へ関口が腰を下ろす。文字にすればそれだけのことだったが、烏丸にとっては、それがもう旅の当たり前の日常になっていた。
「関口さん」
「ん?」
「今日は町なんだよね」
「ああ」
「楽しみ」
屈託なく笑った。
やがて、バスが山を下るにつれて、窓の外の景色が少しずつ変わり始める。
鬱蒼としていた木々が徐々にその数を減らし、代わりに錆びついたガードレールや、傾いた道路標識が目立ち始めた。営業を終えてから久しいガソリンスタンドの無機質な計量器、ガラスの割れたコンビニや朽ちた住宅が。
そして。
アスファルトの向こう側を、重い足取りでゆっくりと歩く人影が、ぽつりぽつりと見え始めた。
一人。
二人。
十人。
さらに道路が広く開けたその先にも、無数の影が揺れている。
烏丸は嬉しそうに座席から身を乗り出し、窓硝子へ顔を近づけた。
「いっぱい居る」
「……ああ」
関口も外を見た。そこに歩いているのは、衣服こそ泥や煤で汚れているものの、紛れもない全員がゾンビだった。
誰も走らない。
誰も襲わない。
それぞれが、まるで生前の仕事をそのまま続けているかのように、静まり返った町の中をそれぞれのペースで静かに動いていた。
ある者は、毛先の抜けた箒を持ったまま固執するように道路の端を淡々と掃いており。
ある者は、庭先で植え込みの手入れを器用に続けている。
またある者は、破れたゴミ袋を両手で抱えて、あてもなく歩いていた。
この町だけは、誰に命じられるでもなく、不器用で静かな毎日がそのまま続いていた。
関口は、その異様でありながらもどこか穏やかな光景を、バスの座席からじっと見つめる。
生きている人間は一人もいない。
視界に映るすべての住民がゾンビだ。
それなのに、どうしてだろう。胸の奥を占めるのは、張り詰めた警戒心ではなく、妙な安心感だった。
(……本当に、逆転しているな)
すこし前までの自分であれば、「町」や「市街地」という言葉を聞いただけで、生存者との衝突や物資の奪い合いといった最悪のシミュレーションしか頭に浮かばなかったはずだ。だが、いま目の前にある場所にいるのは、利害で裏切る人間ではなく、ただ生前のルーティンを守り続けるゾンビたちだ。
彼らの密集地帯に向かっているというのに、他ならぬ自分自身が深く安堵している。
そんなかつての常識がひっくり返ってしまった現状に、関口は少しだけ自嘲気味に苦笑するのだった。
その時、前方の広々とした道路沿いにひときわ大きな建物が姿を現した。
色褪せた巨大な看板、そして何百台もの車を収容できるであろう広大な駐車場。
それは、かつて地域の生活を支えていた地域密着型の大型スーパーだった。
最初からルートに組み込んでいたのか、運転手ゾンビは生前と変わらぬ手つきでカチカチと静かにウインカーを出すと、大型バスの巨体を揺らしながらゆっくりとハンドルを切った。バスは吸い込まれるように、広々としたスーパーの駐車場へと滑らかに入っていった。
大型バスはゆっくりとスーパーの駐車場へ停車した。
周囲には乗り捨てられた車が何台も並んでいる。
一年という歳月の中で塗装は色褪せ、ガラスは砂埃に曇っていたが、広い駐車場そのものは思いのほか綺麗だった。
「着いた」
関口のその声を合図に、烏丸は「うん」と素直に座席から立ち上がる。
プシュー、とバスの乗降ドアが静かに開いた。
最初に外へと飛び降りたのはハヤテだった。白い砂の上に着地するとすぐさま辺りを見回し、細い耳をぴんと立てる。警戒するように風の匂いを確かめて鼻を鳴らしたものの、危険がないと判断したのか、何事もなかったかのように尻尾をひとつ大きく振った。
関口はその様子を確認してから烏丸を先に降ろし、続いて自分も固い地面へ降り立った。
その間にも、屋敷のゾンビたちは流れるような慣れた動きで荷台を開け、それぞれの役割に従って蜘蛛の子を散らすように駐車場へ散っていく。執事ゾンビは折り畳み式の大型カートを押し、メイドゾンビたちは空の収納ケースを抱え、運転手ゾンビは飲料のダースを積み込むための台車を静かに引いていった。
誰一人として指示を受けない。それでも全員が自分の仕事を完璧に理解している。
その統率された光景は、もはや一つの完成された組織そのものだった。
「行こうか」
「ああ」
二人は並んでスーパーの入口へ向かって歩き出した。
自動ドアは当然、電気の途絶えた世界でもう動いていない。入口の分厚いガラス扉は、中途半端に半開きのまま止まっていた。
そのすぐ近くで、色褪せたエプロンを身にまとった一体の店員ゾンビが、買い物カートを一台ずつ丁寧に揃えていた。乱雑に放置されたカートを引っ張り、向きを合わせ、ガシャリと音を立てて一列に並べ直す。
「(お客様が困らないように。次の方が、すぐに使えるように)」
止まった脳の底に残る生前の執念だけで、彼はその不器用な作業をただ繰り返している。
烏丸がその横を通り抜ける。
店員ゾンビの、カートを押し込もうとした手が、一瞬だけピタリと止まった。
カタカタと首を傾げ、その濁った瞳がゆっくりと烏丸の姿を映し出す。ほんの数秒、それだけだった。
「ぐぅ…(あ……。いらっしゃいませ)」
彼は再び何事もなかったかのようにカートを押し込み始めた。
その少し先では、もう一体の店員ゾンビが入口脇へ積まれていた買い物かごを美しく重ね直していた。
「(買い物には、これが必要。綺麗に揃えておかなくては)」
さらに店舗の奥へ進めば、古びたモップを持った清掃員ゾンビが床の一点をひたすら磨き続け、日用品売り場では別の店員ゾンビがトイレットペーパーを棚へ几帳面に補充しているところだった。
洗剤、ティッシュ、キッチンペーパー。
紙製品や消耗品が並ぶ棚だけは、一年前からほとんど変わらないほど綺麗に整えられていた。
「(ここを空っぽにしてはいけない。売り場を、守らなければ)」
誰も烏丸たちに接客はしない。いらっしゃいませの声も掛けない。
それでも、烏丸が通路を歩けば、その進行方向にいたゾンビたちは誰に命令されるでもなく、自然と少しだけ身体をずらして通路を空ける。重たい物資を載せた台車を押していた店員ゾンビも、烏丸の気配を察した瞬間に静かに立ち止まる。
烏丸が通り過ぎると、彼らはまた、何事もなかったかのように自分の仕事へ戻る。それだけだった。
命令もない。合図もない。なのに全員が、そうするのが当然であるかのように流れるように動いていた。
関口はその様子を、ただ静かに見つめる。
(……旅館だけじゃない)
あの最高級旅館だから、プロ意識の強い支配人たちが特別だったのではない。
このどこにでもあるありふれたスーパーも、外の道路も、この町というシステムそのものが烏丸という絶対的な存在を中心に、ごく自然に歪な調和を保って動いている。
その圧倒的な異様さに、関口の心にはもう驚きすら浮かばなかった。むしろ、生きている人間は一人もおらず、周囲を埋め尽くしているのはゾンビだけというその事実に、妙な安心感を抱いていた。
(やはり、この世界は、本当に逆転している)
関口がそんなことを考えている間にも烏丸は興味津々に、まるでテーマパークにでも来たかのように店内を楽しそうに見回していた。
「あっ」
烏丸の足がぴたりと止まった。
何かを見つけた子供のように目を輝かせる。
「関口さん、あっち」
その細い指の先には――色鮮やかなポップが残る、お菓子売り場があった。
*
「関口さん!」
烏丸は子供のように嬉しそうに声を弾ませ、お菓子売り場へ向かって小走りで駆けていく。
「走るな」
すぐ後ろから関口が注意の声を掛ける。
「はーい」
返事だけは素直だったが、弾むような足取りはほとんど変わらない。
関口は思わず小さく息を吐いた。
「まったく……」
辿り着いたお菓子売り場は、一年前のあの日から時間が止まったかのようだった。
紫外線で少しだけ色褪せたパッケージの箱。
ほんの少し埃を被った棚。
それでも商品はミリ単位の狂いもなく綺麗に整列し、倒れたまま放置されている物は一つもなかった。
(お客様が喜んでくださるように。おやつを選びやすいように)
店員ゾンビたちが今日まで、生前の義務感と本能で丁寧に管理してきたのだろう。
烏丸は並んだ棚を一つひとつ楽しそうに眺めながら歩いていく。
「あ」
棚の一角で、烏丸の足がぴたりと止まった。
色とりどりの小さな箱が並んでいる。
「チョコエッグだ」
心底嬉しそうな声だった。
箱を一つ、そっと持ち上げる。もう一つ。さらに別の種類も見つける。
「関口さん、見て」
烏丸が振り返るが、その両手にはもう三つ目の箱が握られていた。
関口は少しだけ眉を上げた。
「駿」
「んー?」
「二つまでだからな」
その言葉が突き刺さった瞬間、烏丸の動きが完全に静止した。
両手に抱えた三つの丸い箱と関口の顔を交互に見比べ、それからもう一度だけ未練がましく手元の箱へと視線を落とす。
「……えぇ」
あからさまに肩を落とし、少しだけ不満そうな声を漏らす。
「一つ戻してこい」
「えー」
「二つ」
「むぅ……」
烏丸は名残惜しそうに棚を見つめる。
どれを諦めてどれを戻そうか、本気で悩み始めた。
その微笑ましい様子を少し離れた通路の陰から、老紳士ゾンビが静かに見守っていた。
その腕には今日も、あの大切なロマネ・コンティがぎゅっと抱えられている。
彼の濁った瞳は、悩む烏丸ではなく、厳しい父親のように立ちはだかる関口の方へと真っ直ぐに向いていた。
関口は視線に全く気付かない。ただ腕を組み、真面目な顔で幼児の決断を待っているだけだった。
「決まった?」
「まだ……」
「早くしろ」
「全部かわいい……」
「二つ」
「……はい」
烏丸はしばらく葛藤したあと、ようやく一つを棚へ戻した。
それでも残した二つの箱は、またダメだと言われないように大事そうに胸へ抱え込む。
「これにする」
「そうか」
関口は自然に頷く。
それが終わると、役目を終えたはずの自分も何となく目の前の棚へ目を向けた。
チョコエッグの小さな箱が整然と並んでいる。
そのカラフルな光景を見た瞬間、関口の脳裏の何かが静かに引っ掛かった。
(……何年ぶりだ)
気付けば、自分も棚の前へ歩いていた。
昔、世界がこうなってしまうよりずっと前のことだ。
休日になると小さな手に服の裾をぎゅっと引っ張られて、近所のスーパーのお菓子売り場へ連れて来られた。
「これ!」
「あれ!」
嬉しそうに玩具付きのお菓子を胸に抱える、我が子の小さな姿。
『一つだけだぞ』
そう言って、泣きそうな顔をさせて困らせたことも、一度や二度ではなかった。もう二度と戻らない、思い出すこともないと思っていた、遠い過去の記憶だった。
「関口さん?」
烏丸が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「……。関口さんはどれにする?」
「私か」
「うん」
関口は少しだけ、自嘲ではない笑みを浮かべた。
棚をゆっくりと眺めて一つ手に取り、また戻し、さらに別の箱を持つ。
「……これにしよう」
「やった!」
烏丸は自分のことのように嬉しそうに笑った。
(第31話・『前編』 つづく)
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