大型バスは町の中心部を離れ、片側二車線の少し広い幹線道路へと出た。
道路脇には、先ほど立ち寄った一般向けのスーパーよりもさらに一回り大きな建物が静かに佇んでいる。日光に晒されて色褪せた巨大な看板には、かろうじて現役当時の文字の輪郭が残されていた。
『業務スーパー』
広大な駐車場にはあの日から放置されたままの一般車両が何台も斜めに停まったまま、静かに時間だけを止めていた。
これから都市部へ向かうにあたり、最後の大量補充を行う場所としてはここが最適の終着点となる。
大型バスが排気音を小さく響かせながらゆっくりと減速し、そのすぐ隣へ黒く輝く高級ヴィンテージカーも滑らかに並んだ。
プツン、とエンジンが止まる。
重苦しい一拍の静寂を置いて、プシューとエアーの音を立てて前方の扉が開いた。
「着いたぞ」
関口が最初にステップを降りて地面を踏みしめる。
そのすぐ後ろに烏丸が続き、足元ではハヤテが軽快に飛び降りた。
さらに車内からは、メイドゾンビや執事ゾンビ、そして最高級のロマネ・コンティを未だに腕から離さない老紳士ゾンビが音もなく続いていく。
運転手ゾンビはそのまま運転席に残って周囲の警戒に当たり、大型バスの車内でも残りのメイドゾンビたちがこれまでに調達した荷物を手際よく整理しながら、数人が待機体制に入っていた。
二人が近づくと、入口近くの特設棚でひたすら缶詰の品出しを続けていた、色褪せたエプロン姿の店員ゾンビがこちらへ気付いた。彼はぎこちない足取りで引き戸の前に歩み寄ると、錆びついたレールへ泥のついた手を掛けた。
ギィ……。
建物の歪みもあってか、重たい金属音を立てながら、彼は自分の身体の重みを使って強引に自動ドアを横へと引いた。
お客様の進路を塞ぐ障害物を排除する、それだけが彼の止まった脳に刻まれた義務のようだった。
扉が完全に開くと、彼は何事もなかったかのように、再び無言で元の棚の商品の整理へと戻っていった。
「行こうか」
「あ、うん」
二人は並んで薄暗い店内へと足を踏み入れた。
一歩入った瞬間、外の夏の日差しとは対照的な、少しひんやりとした無機質な空気が肌を撫でた。
どこまでも続く長いスチールの棚が何列も並び、天井近くのストックヤードまで、見たこともない量の段ボールやプラスチックケースがぎっしりと積み上げられている。
ここは、先ほどまでいた一般向けのスーパーとは明らかに雰囲気が異なっていた。
視界に飛び込んでくるのは、どれも桁違いの大きさを誇る大袋。
家庭用とは一線を画す巨大な業務用サイズ。
そして、すべての物資が箱単位で積み重なる無骨な光景。
ただの醤油やソースといった調味料だけでも、棚が何列も奥へと続いていた。
烏丸は物珍しそうに、自然と周囲を何度も見回した。
「普通のスーパーと雰囲気違うね」
「ああ、ここは飲食店などのプロが買い付けに来る場所だからな」
関口も歩調を合わせ、静かに店内を見渡した。
一年前のあの日、生き延びようとした人々がこの場所に一斉に押し寄せた生々しい痕跡は確かに残っている。
一部の棚の並びは不自然に乱れ、中身を引きちぎられたような破れた段ボールが奥の隙間に押し込まれていた。だが、その荒れ方は、関口がシェルターのモニター越しに見てきたどの廃墟よりも、思ったほど酷くはなかった。
むしろ、今は――。
おそろしく整っている。
通路に乱雑に散らばっていたはずの商品は綺麗に分類されて元の棚へ片付けられ、衝撃で倒れていたであろう重いスチール製の棚もすべて力尽くで起こされ、大型カートが行き交えるよう美しく整理されていた。
それは、言葉を失ったこの店の店員ゾンビたちが、この一年という歳月をかけて、ただ実直に、少しずつ元の形へと戻してきた確かな証だった。
*
執事ゾンビは、その大きな手で静かに買い物カゴを持ち、いつでも物資を受け取れるよう主の斜め後ろへと控えた。
烏丸は長い棚を一つひとつ物珍しそうに眺めながら、ゆったりと通路を歩いていく。
関口は、そのさらに数歩後ろを歩いていた。誰に言われたたわけでもないというのに、移動を始めると自然と烏丸を見守るような位置に身体が収まるようになっていた。
そしてアロハシャツ姿の老紳士ゾンビは、一番後ろからその背中を静かに見守っている。
その瞳は、生きている人間のようにほとんど瞬きをすることはない。だが、その視線の矢印だけは、最愛の烏丸だけではなく、その一歩後ろを歩く関口の方にもじっと向けられていた。
烏丸が気になる商品を見つけて足を止めれば、関口も文句を言わずにその場で足を止める。
烏丸が深い棚の奥を覗き込めば、関口も急かすことなく彼が満足するまで同じだけ静かに待つ。
そこに周囲の危険がないか。
割れたガラス片などで足元は危なくないか。
背負ったリュックの荷物は重すぎないか。
関口自身は自覚すらしていないだろうが、彼は移動する烏丸に対して無意識のうちに細やかな視線を配り続けていた。
その不器用で真っ直ぐな振る舞いの一つ一つを、老紳士ゾンビは言葉もなくただ黙って見つめていた。
何も言わず見定める。
烏丸を守ろうとする視線。
急かさず待つ足。
重い荷物を自然に引き受ける手。
その一つ一つを、老紳士ゾンビは黙って見届けていた。
生前ならば、「まだ早い」と難癖の一つでも付けていたかもしれない。
だが今は違う。
(……任せられる)
言葉になることはない。
それでも、長い時間を掛けて見定めてきた答えが、その止まった心のどこかで静かに形になっていく。
この世を去る前からずっと一人だった自分にできた愛おしい孫。
その隣を歩く男ならば。
――家族が増えたな。
抱えたロマネ・コンティを腕に収めたまま、老紳士ゾンビの肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
*
生鮮食品以外の、これから先の長旅に必要となる保存性の高い物資を、執事ゾンビが迷いのない手つきで次々と買い物カゴへ入れていく。
そのすぐ横で、烏丸も棚に並ぶ見たこともない大袋の商品を興味深そうに眺めながら、一歩一歩を楽しそうに歩いていた。
気付けば、大型の買い物カートの中はすっかり物資でいっぱいになっていた。
びっしりと積み上がっているのは、何百食分もの缶詰や長持ちする乾麺。そして、大量のレトルト食品に巨大な業務用の調味料、さらにこれからの長旅で必要不可欠となる生活用品。
それらの総量を、執事ゾンビが手元の買い物リストと一つひとつ照らし合わせ、メイドゾンビと満足そうに深く頷く。
これだけの量があれば、この先しばらくは十分だった。
関口も、これ以上の積載はバスのバランスを崩すと判断し、静かに周囲を見回した。
「これくらいでいいだろう」
「うん」
四人はそのまま、購入した商品を袋に詰めるための、入口近くにある広い作業台へと向かった。
烏丸が自分のリュックを机に下ろし、荷造りを始めようとした、まさにその時だった。
近くの通路で黙々と段ボールを片付けていたエプロン姿の店員ゾンビが、ふらりと引き寄せられるようにこちらへ歩いてくる。
そして何も言わないまま、ガサリと音を立てて買い物袋を一枚、机の上で素早く広げた。
それを合図にするかのように、さらに別の持ち場にいた店員ゾンビたちも、吸い込まれるように次々と台の周りへやって来た。
彼らは流れるような美しい手つきで、カートから缶詰を種類ごとに素早く並べ替えていく。
重い缶詰は袋の下へ。潰れやすい軽い箱は上へ。持ち帰る途中で、袋が絶対に破れないようにするその手際は、生前とまったく変わらないほど、プロの品出し店員そのものだった。
「ありがとうございます」
烏丸が自然に頭を下げる。
店員ゾンビから返事はなかったが、烏丸から直に感謝の言葉を受け取ったその瞬間、彼らの袋へ商品を詰める手元だけがほんの少しだけ、誇らしげに丁寧になった。
その言葉のない健気なやり取りを特等席で見つめていた関口も突き動かされるように、自然と自分から手を伸ばしていた。
崩れそうな重い物資の箱を横からしっかりと支え、袋の口を店員ゾンビが詰めやすいようにそっと押さえ、詰め終えた大きな袋をスマートに台の横へ寄せていく。
関口と店員ゾンビたちの呼吸は、不思議なほどに完璧に合っていた。
少し離れた場所で、老紳士ゾンビはその様子を静かに見つめていた。
その視線は烏丸へではなく、ただ実直に作業を手伝う関口へと真っ直ぐに向いている。
作業の合間、関口はふと背後に強い視線を感じた。
弾かれたように振り返る。
老紳士ゾンビと、ぱちりと目が合った。
生前と変わらぬ気品をたたえた、瞳。
そこにはシェルターの外で遭遇する怪物のような敵意も、他者を寄せ付けない警戒も一切なく。
ただどこか温かく、まるで自分の息子を見定める父親のように、静かに自分を見つめていた。
(……何だ)
関口は眉をひそめたが、迫り来る旅の進行を優先させるためそれ以上は深く考えず、再び目の前の作業へと意識を戻した。
袋詰めが終わり、店員ゾンビたちはまるで最初から何もなかったかのように、それぞれの持ち場へと戻っていった。
烏丸はその小さくなっていくゾンビたちを静かに見送って、ふわりと小さく笑った。
「優しいね」
その衒いのない一言に促されるように、関口は売り場の奥へと消えていく店員ゾンビたちの背中を目で追った。
優しい。
その言葉は決して間違っていない。彼らは確かに烏丸へ対して純粋な好意と献身を向けている。
これまでに見てきた観察でも、立ち寄ってきたあの温泉旅館でも、先ほどの一般向けスーパーでも、彼らが訪れる先々で起きる現象はすべて全く同じだった。
(……なんだ?)
それなのに、胸の奥に冷たい違和感が引っ掛かる。
烏丸は、周囲のゾンビたちが自らに向けてくる、そのあまりにも巨大な好意の重さに、これっぽっちも気付いていないように見える。関口がいたシェルターの観察にも終始気付いてなかった。
関口は、胸の内の疑問を抑えきれずにふと尋ねた。
「駿」
「ん?」
「気付かないのか」
「何が?」
「人間も、ゾンビも。みんながお前を見ていることだ。その異様な視線の集まり方に、違和感を覚えないのか」
関口の少し硬い問いかけに、烏丸は改めて店内のあちこちで働きながら烏丸をチラチラ見やる店員ゾンビたちの姿を見つめ、少しだけ考えるように視線を彷徨わせた。
「……見てるね」
あまりにもあっさりと、他人事のように言う。
関口は思わず眉をひそめた。
「分かっているのか。彼らがどれほど狂信的にお前を最優先しているかを」
「うん。分かってるよ」
「なら、なぜ」
「でも」
「全部気にしてたら、……疲れちゃうから」
烏丸は困ったように笑った。
関口は、その予想外の言葉に思わず口を噤んだ。
烏丸は棚の向こうの薄暗い通路で、黙々と缶詰のラベルを揃え続ける店員ゾンビの背中を遠い目で見つめながらぽつりと静かに続けた。
「少し前はね」
「嬉しい人も」
「悲しい人も」
「怒ってる人も」
「期待してる人も」
「なにか利用できるって思ってる人も」
「みんな見えてたよ」
烏丸の目はどこか遠くを見ていた。
「だから今は、本当に大事そうな気持ちほどあんまり見ないようになっちゃった」
「その方が、楽だから」
その告白の響きは、あまりにも軽やかだった。
だが、かつてシェルターという狭い閉鎖空間で生きてきた関口だからこそ、その軽やかさの裏にある底知れない痛みの意味が瞬時に分かってしまった。
烏丸はシェルターへ来る前から、毎日何十人、何百人もの視線と、そこに渦巻くドロドロとした感情を浴び続け、晒され続けていたのだ。
未来への過度な期待。
世界の特効薬という名の傲慢な利用価値。
生き残りたいという醜い執着。
歪んだ正義感による保護欲。
そして、新種の珍しい研究対象を見るような、冷たい視線。
それらすべてをまともに受け止め、一人で正面から噛み締め続ければ。
人間の心など、大人の男であっても一瞬で粉々に壊れてしまう。
だから彼は無意識のうちに、壊れそうになる自分を必死に守るため他者の感情の核を自らの心から完全に切り離すしかなかったのだ。
(……鈍いんじゃない)
(気付き過ぎるんだ。だから、見ないフリをするしかなかったのか)
胸の奥が焼き切れるような激しい痛みを覚えた。
関口はただ静かに、台の上の重い買い物袋を両手でしっかりと持ち上げる。
「行こう」
「うん」
二人はそれ以上言葉を交わすことなく、冷気と静寂の満ちる店内をあとにした。
*
外は昼間よりも風が少しだけ涼しくなり、街路樹の葉がさらさらと優しく揺れていた。
「またね」烏丸が小さく笑って、去っていく店内のゾンビたちへ手を振る。言葉はないが、それでも数体の店員ゾンビが商品を棚へ並べる手をほんの一瞬だけ止めた。
ただそれだけだったが、そこには確かに見送りがあった。
大型バスへすべての荷物の詰め込みが終わり、烏丸がゆっくりと乗降口へ向かう。
ステップへ片足を掛け、吸い込まれるように車内へと乗り込んだ。
関口も乗り込もうと足を踏み出した、その時だった。
「ヴゥ……」
空気を低く震わせるような、不穏な唸り声が響いた。
ハヤテだった。鋭く耳を真っ直ぐ後方へ向けたまま、硬直したようにその場から動かない。
関口の足が、ピタリと止まる。
ハヤテの視線は、この町の外れ――。
自分たちが大型バスで走ってきた道ではなく、そのさらに奥にそびえ立つ、深く暗い山並みをじっと見つめていた。
ぬるい夕風が吹く。
木々がざわざわと揺れる、静かな夕暮れはなんの異変もないように見える。
一瞬、遠くの鬱蒼とした山肌の隙間で小さな光がきらりと鋭く瞬いた。
レンズの反射光。
望遠鏡か。
あるいは、双眼鏡か。
沈みかけた夕陽の光を偶然受けて放たれた、人工物の反射だった。
距離にして、ほんの一瞬。
だが、シェルターで訓練された目が見間違えるような代物ではなかった。
関口の視線が、刃物のように鋭く細くなる。
同時に、全ての荷物をトランクへ積み終えたはずの執事ゾンビが、一瞬その動きを止めた。
運転席の運転手ゾンビも、最高級のロマネ・コンティを抱いた老紳士ゾンビも同じく。
烏丸に余計な警戒をさせないためか、彼らのうち誰一人として光の放たれた山を見ようとはしない。
それでも。
その場を満たす空気が、僅かに、けれど決定的に刺々しく変わった。
彼ら全員が、今この瞬間に、全く同じ異変を正確に察していた。
「関口さん?」
中々皆が戻らないのを不思議に思った烏丸が、ステップのところまで戻ってきた。
烏丸は何も気付いていない。
いや――。
彼にこのことを気付かせるつもりが、この場にいる誰一人として最初からなかった。
「すぐ乗る。先に座っていてくれ」
「うん。早くね!一緒に開けよう」
烏丸は素直に頷き車内へ入っていった。
だが、ハヤテだけはその場から一歩も動かず、なおも低く喉を鳴らし続けていた。その濁った瞳だけが、獲物を狙う獣のように山を真っ直ぐに睨みつけている。
関口は山並みから決して目を離さないまま、低く、小さく呟いた。
「……ついてきているな」
沈みゆく夕暮れの町に関口の感情のない声と、ハヤテの低い唸り声だけが長く尾を引いていた。
(第31話・『後編』 おわり)
・