大型バスの車体は、初夏の力強い緑がどこまでも連なる山道を静かに、そして滑らかに走り抜けていた。
窓の外を流れる深い緑の隙間からは、規則正しく日差しが差し込んでは消えていく。
スーパーのことがあり、今回は老紳士ゾンビもバスに乗車していた。助手席には執事ゾンビが座り、いつもと変わらず一本のワインを大切そうに抱えた老人ゾンビがその斜め後ろに腰掛け、運転席ではお抱え運転手だったゾンビが、慣れた手つきで大きなハンドルを握っていた。
その後ろの座席では、烏丸が窓硝子に額を預けるようにして、ぼんやりと流れ去る景色に視線を漂わせている。その隣で、関口は膝の上に膝幅ほどもある広大な地図を広げ、指先でいくつもの拠点をなぞりながら、これから向かう大都市への侵入ルートと次なる物資の補給地点について静かに思考を巡らせていた。
車内を支配していたのは、エンジンの低い唸り声と、ハヤテが時折立てる爪の音だけだった。誰もがその穏やかな時間の流れに身を任せていた、その時だった。
老紳士ゾンビが、不意に、何かを思い出したかのようにゆっくりと顔を上げた。その瞳が窓の外の、鬱蒼と茂る山並みのさらに奥へと向けられる。
そのわずかな動きを、助手席の執事ゾンビが見逃さなかった。彼は老紳士ゾンビの意図を汲み取るように静かに頷くと、そのまま視線を運転席の相棒へと向ける。バックミラー越しにその視線を受け取った運転手ゾンビも、ほんの一瞬だけ首を縦に振り、小さく応じた。
彼らはあらかじめの予定のように滑らかにハンドルを切った。大型バスの巨体がこれまでのなだらかな幹線道路を外れ、舗装の途切れた、木々の生い茂る山奥へと続く細い砂利道へと入っていく。
「どこいくの?」
烏丸が不思議そうに首を傾げ、窓の外の急に近くなった枝葉を見つめた。関口も膝の上の地図から顔を上げ、フロントガラスの向こうの、急に狭まり始めた不穏な山道を見据える。
「……寄り道か?」
関口が怪訝そうな声音を漏らすと、老紳士ゾンビは静かに座席から振り返り、元管理官の男に対して品良く小さく一礼した。それから、そっと自分のアロハシャツの胸元へ皺の寄った手を当てる。そのまま、ゆっくりと長い腕を伸ばし、鬱蒼とした山林のさらに深い奥を、確かな意志を込めて指し示した。
「……何かあるのか」
関口が呟く。
烏丸は老紳士ゾンビのその指先をじっと見つめ、何かを少しだけ考えてから、いつもの混じり気のない笑顔を浮かべた。
「じゃあ行こう」
その一言だけで、このバスの進路を決めるには十分すぎるほどの理由だった。
運転手ゾンビはアクセルをわずかに踏み込み、迷うことなく深い山道の中へと大きな車体を進めていく。
ガタガサと下草が車底を擦る音と、タイヤが砂利を踏みしめる音がしばらく続いた。それから三十分ほど鬱蒼とした緑のトンネルを走り抜けると、突如として視界が開け、目の前に頑丈で高い鉄製のフェンスが現れた。
絡みついた太い蔦に半ば覆い隠された、立派な石造りの門柱。その傍らには、長い年月の風雨に晒されてすっかり色褪せた、けれど重厚な金属製の看板がひっそりと佇んでいる。
『〇〇家使用人研修センター』
刻まれた文字は錆が浮き、今ではもう目を凝らさなければほとんど読めなくなっていた。
烏丸は座席から身を乗り出し、驚いたように目を丸くした。
「こんなのあったんだ」
関口も思わず窓に顔を近づけ、その森の中に突如として現れた巨大な遺構を見上げる。
「研修施設……? しかも、個人のものなのか、これは……!?」
関口の驚きに答えるように、老紳士ゾンビは静かに、深く頷いた。鉄門の向こうに広がっていたのは、深い山の斜面を丸ごと切り開いて作られた、想像を絶するほど広大な敷地だった。
何十人もの人間が寝泊まりできるであろう、頑丈なコンクリート造りの宿泊棟。
実践的な訓練を行うための広々とした実習棟。
頑丈な檻が並ぶ立派な犬舎に、何台もの大型車両を収容できる広大な車庫。
さらにその奥には、プロ仕様の調理器具が並ぶ厨房や、車両の整備工場、あるいは地下へと続くワインセラーの入り口までが、すべて一つの完璧な自給自足の施設として造り込まれていたのだ。
「広い……」
烏丸が、圧倒されたようにぽつりと声を漏らす。
関口は窓硝子から手を離し、小さく息を吐いた。
「本当に、資産家だったんだな……」
*
門は半分開いたままだった。
大型バスがゆっくりとタイヤを転がし、広大な敷地へと入っていく。
その時、コンクリート造りの建物の奥から無数の人影が静かに現れた。
胸元にバッジをつけた警備員ゾンビ。
そして、格式高い黒い燕尾服。
染みの浮いた真っ白なコック服。
油の染み込んだ頑丈な整備服。
動きやすそうな作業着。
それぞれ違う制服に身をまとったゾンビたちが、一斉にバスのほうへと顔を向けた。
彼らは誰も牙を剥かず、誰も走らない。ただ静かに、そしてどこか誇らしげに、嬉しそうに烏丸のいる車両へ向かって歩いてくる。
バスの扉が開くと、老紳士ゾンビがゆっくりとステップを降りて前へ出た。
腕には最高級のロマネ・コンティを抱えたまま、かつての責任者としての背筋を美しく伸ばす。
その威厳ある姿が陽の光に晒された瞬間だった。
研修センターのあちこちから集まってきたゾンビたちが、誰に命令されるでもなく、一斉にピシッと直立不動の姿勢を正した。
言葉を失ったその佇まいはまるで「(お帰りなさいませ、若旦那様。お待ちしておりました、大旦那様)」そう、温かく告げているようだった。
最前列へまず現れたのは、煤けてはいるものの真っ白なコック帽を被った大柄な男だった。生前は厨房のすべてを仕切っていたであろう、総料理長ゾンビ。
続いて、その一歩後ろに控える副料理長ゾンビ。
細かな刺繍の入ったエプロンをつけた、小柄なパティシエゾンビ。
さらに、油に汚れた作業服姿のままレンチを握る自動車整備士ゾンビ。
使い込まれた犬用のリードを何本も腰へ巻いた、ベテランのドッグトレーナーゾンビ。
首に聴診器をかけたままの、白衣姿の獣医ゾンビ。
胸元にタストヴァンを光らせた、蝶ネクタイ姿のワインソムリエゾンビ。
そして、重たい工具箱を器用に抱えた設備管理担当のゾンビ。
他にもまだいた。
彼らの動きは、どれも一様にかすかにぎこちない。
だが、その一歩一歩には、プロとしての、そして従者としての迷いが一切なかった。
老紳士ゾンビが、彼らの整列を正面から受け止め、満足そうに軽く一度だけ頷く。
ただそれだけの、言葉の要らない合図だった。
それだけで、集まっていた全員が自然に、まるで今日の仕事に取りかかるかのような流れるような動作で、大型バスへ向かって歩き始めた。
「……命令してる訳じゃないんだよな、あれは」
あまりにも完璧で、あまりにも歪なその美しい光景を前にして、関口は自嘲気味に小さく苦笑する。
「うん」
烏丸も、窓の外の頼もしい従者たちを見つめながら穏やかに笑う。
「なんか、みんな家に帰るだけみたい」
その時だった。
しんと静まり返った施設の奥、蔦に覆われた立派な犬舎の方向から、微かな、本当に小さな鳴き声が風に乗って聞こえてきた。
ハヤテがぴんと耳を立て、声のした方角を鋭く見つめる。大型バスの荷台から降りてきていた、かつて屋敷の番犬だったもう一頭のシェパード系ゾンビ犬もそれに反応して鼻を鳴らし、さらにもう一頭のレトリバー系ゾンビ犬も、濁った目をそちらへ向けた。三匹のゾンビ犬たちが、綺麗に揃って犬舎の暗がりをじっと見つめている。
「……?」
烏丸が、何かに引かれるようにゆっくりと犬舎へ近付いていく。関口も警戒を怠らない歩調でそのすぐ後ろに従った。
コンクリート造りの犬舎の隅、頑丈な鉄格子の並ぶ小さな檻の中。そこに、一匹だけ小さく身体を震わせている犬がいた。
生きている。
ゾンビになっていない。完全に血の通った、生身の命だった。
黒と茶色の混ざった艶やかな毛並みに、まだ身体の割には大きな耳。一歳にも満たないであろう、その犬はまだ幼かった。見知らぬ人間と、その後ろに佇むゾンビたちを前にして、身体を硬くして激しく警戒しながらも、決して無駄な声を上げて吠えようとはしない。ただじっと、湿った瞳で烏丸の姿を見つめていた。
「子犬……」
関口が思わず息を呑む。
この世界で、生身の幼い命が五体満足で生き残っていること自体が奇跡に近いことだった。
鉄扉の横に掲げられた色褪せたプレートには、かろうじて『警察犬・災害救助犬候補』の文字が残されている。関口がそっと手を伸ばし、錆びついた檻のラッチを開放した。
カチャリ、と静かな金属音が響く。
だが、子犬はすぐには外へ出てこなかった。
細い鼻をひくつかせ、檻の隙間から周囲の状況を何度も、何度も冷静に確認していく。
自分が安全に逃げられる道。
目の前に立つ生きている人間。
その背後に控える、動く死体たち。
そして、山から吹き降ろす風の匂いと向き。
それらすべてを幼いなりに慎重に観察し終えてから、子犬は最後にもう一度だけ烏丸の目を真っ直ぐに見つめた。
そして、張り詰めた緊張を解くようにそっと一歩だけ、自ら烏丸の方へと近付いた。
ハヤテも他のゾンビ犬たちも、一定の距離を保ったまま近付こうとはしなかった。
彼らはただ静かに、その小さな命の決断を見守っている。
「賢いな……」
関口が感心したように呟く。
その言葉に応えるように、腰に何本ものリードを巻いたドッグトレーナーゾンビが、ゆっくりと頷いた。
その頷きは、『もう護衛対象を決めました』そう報告しているようにも見えた。
この子は、厳しい選考を勝ち抜いたエリートの警察犬候補だった。世界が滅びる前から、この深い山奥の施設で、ただ人間を“護る”ためだけに、その血統と本能を磨かれ続けてきた犬だった。
だからこそ、誰に教えられるでもなく理解していた。
子犬は恐る恐る烏丸の足元まで歩み寄ると、その靴のすぐそばで、すとんと静かに背筋を伸ばして座り込んだ。
この人が、自分の護衛対象。
幼い身体に刻まれた護衛犬としての本能が、そう判断していた。
烏丸はそんな犬の血統の重みなど何も知らないまま、嬉しそうにその場にしゃがみ込み小さな頭を優しく撫でた。
「よろしくね」
撫でられた子犬は甘えるように烏丸の手のひらに頭を押し付け、その短い尻尾を嬉しそうに小さく一度だけ振った。
それを見届けたハヤテをはじめとする三匹のゾンビ犬たちが、まるで新しい家族を自分たちの群れに迎え入れるかのように、音もなく静かに子犬の周りへと近付いてきた。ハヤテがその小さな鼻先と子犬の耳を優しく突き、子犬もそれを受け入れる。
人間と、ゾンビ犬と、生身の子犬。そこに、言葉のない歪で温かい輪が出来上がっていた。
この場所がかつて持っていた、あらゆるプロを育てるという役目は世界が滅んだあの日をもって完全に終わっていた。
そして、今日から。
ここにいた指導員として赴任していた優秀な使用人たちも。
過保護なまでに獰猛な犬たちも。
そして、未来の警察犬だった小さな命も。
みんな揃って、[[rb:若旦那 > 烏丸]]のいる我が家へ帰る旅に加わった。
バスがゆっくりと山を下り始める。
窓の外では、研修センターの建物が少しずつ遠ざかっていく。
子犬は一度だけその景色を見つめ、それから何も迷うことなく烏丸の足元へ戻って座った。
その姿を見て、ドッグトレーナーゾンビが静かに頷いた。
大型バスは、そのまま山道を引き返していった。
(第33話・完)
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