ゾンビ公認:この人間は食べられません   作:めぇ

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第34話:第二の我が家

 

山道を抜けた大型バスは、再び幹線道路へと戻っていた。

 

窓の外には、夏のまぶしい陽射しを浴びて遠く霞む高層ビル群が、まるで巨大な墓標のように無機質なシルエットとなって広がっている。かつて何百万もの人々が経済の脈動を伝えていたこの地方最大の都市。

そこが、一行の目指すべき次なる目的地だ。

 

一方、その頃。

 

大型バスの行方をじっとりと湿った視線で追跡していた数名の男女は、生い茂る木々が遮る山道の分岐点で立ち尽くしていた。

 

周囲の擦れる葉の音だけが響く静寂のなか、女性リーダーは静かに湿った地面へとしゃがみ込んだ。乾きかけた泥の上にわずかに残る大型車の重厚なタイヤ痕へと鋭い視線を落とす。

 

「……ここまでは間違いない」

 

低く抑えられた声音に、一人の男が周囲の険しい草むらを見回しながら応じた。

「途中までは確かに正確に追えていました。見失うはずがありません」

 

「ですが……」

別の人間が狐につままれたかのような困惑を顔ににじませて、周囲の鬱蒼とした分岐点を見渡した。

 

「消えました。何一つ、痕跡が残っていません」

 

女性リーダーは何も答えなかった。

あれほど巨大な大型バスと、それに従う高級車が跡形もなく消え去るはずはなかった。だが、事実として彼らの残した確かな轍はここで忽然と途切れている。

 

目の前に広がる道は三本。

どれも同じように放置されて久しい、等しい荒れ方の舗装路だった。しかも、昨日からこの地域に降り注いだ雨のせいで古い轍も新しい轍も地面に溶け込み、判別が非常にしづらくなっていた。

 

「……」

 

山風が偽装用の布を小さく揺らす静かな沈黙だけがその場を支配する。

やがて、女性リーダーは地面の泥を軽く払いながらゆっくりと立ち上がった。

 

「今回はここまで」

 

その一切の感情を排した合理的な判断に不満を漏らす者は誰もいなかった。これだけ物資が欠乏した状態で無理には追えないと全員が理解していたからだ。

 

「無理に追えば、こちらが見つかる」

 

女性リーダーは丸めた地図を抱え直すと、凪いだ視線のまま付け加えた。

 

「次を待つ。彼らが物資を求めて動く限り、必ずまた機会はあるわ」

 

その一言だけを残し、彼女は迷いのない足取りで踵を返した。

生きるために執念深く張り巡らせた彼らの追跡は、何一つ得ることのない完全な空振りに終わった。

 

 

 

 

 

 

当の大型バスはそんなことなど知る由もなく、コンクリートの高架道路の下にひっそりと残されていた小さなサービススペースへと吸い込まれるように滑り込んだ。タイヤが白線を踏みしめ、重厚な排気音を落として静かに停車する。

 

「少し休憩にしよう」

 

関口が地図を丁寧に畳みながら声を掛けた。

 

「了解」

 

烏丸は軽く伸びをする。

 

「お腹すいた」

 

その一言が車内に落ちた、まさに次の瞬間だった。

 

プシュー、とバスの後部ドアが静かに開いた。

そして――。

一糸乱れぬ整然とした動きで、衣服を端正に整えた使用人ゾンビたちが次々と降車していく。先ほど研修センターで合流したばかりの面々だった。

 

「……ん?」

関口が怪訝そうに眉を上げる。

 

烏丸は、ポケットから引っ張り出したお菓子の袋を持ったまま不思議そうに首を傾げた。

 

「なんか多くない?」

 

最初にアスファルトの上へと姿を現したのは、煤けてはいるものの真っ白なコック帽を高く被ったひときわ大柄な男だった。

総料理長ゾンビ。

彼は無言のまま、生前の威厳を感じさせる堂々とした態度で腕を組み、自分たちが乗ってきた大型バスの巨体を一度だけ見上げる。そして、顎を引いて短く、深く頷いた。

 

(昼食の準備を行う。若旦那様の御腹を満たすことこそ、我らの最優先事項だ)

 

続いて、その影から滑らかに現れたのは、副料理長ゾンビだった。

彼は静かに、手元の見えない調理道具の段取りを確認するかのように指先を細かく動かし、高架下の限られたスペースの幅を鋭い目付きで測っていく。

(配膳動線、問題なし。一分の遅れもなく、最高の状態で料理をお届けできる)

 

そのすぐ後ろからは、細かな刺繍の入ったエプロンをつけた小柄なパティシエゾンビが、すでに銀色に輝く小さな冷蔵ケースを大事そうに両手で抱えて降りてきていた。ケースの中身はまだ不明だったがその表面には微かな結露が浮いており、内部が完璧に冷やされていることだけは確かだった。

(デザート確保。食後の甘美なひと時は、私が完璧に守り抜く)

(焼き加減良し、湿度も問題なし)

(若旦那様のお口に合いますように)

 

さらに、その後に続いて現れたのは、工具箱を腰に下げた設備管理ゾンビだった。彼は降車するやいなや、迷いのない動きでバスの下部へと潜り込むようにしてその場へ低くしゃがみ込む。

(電源系統問題なし。若旦那様の滞在される空間に、一切の不快な電圧の揺らぎは許されない)

むき出しになった車両の配線を、油のついた指先で軽くトントンと叩く。

(発電機、安定。いつでも稼働できる)

 

自動車整備士ゾンビはバスの反対側へと素早く回り込み、巨体を支える巨大なタイヤの前に膝をついて一つずつその状態を確認していった。

(空気圧正常。トレッド面の摩耗も許容範囲内。これならばどれほど路面が荒れていようとも、問題はない)

そして、カンと一度だけホイールをレンチで叩いて異音がないかを確かめると、無言のまま使い慣れた工具を腰のホルダーへと収めた。

(走行継続可能。若旦那様を乗せたこの車列を、一歩たりとも立ち往生させるわけにはいかない)

 

一方、白衣の襟元を正した獣医ゾンビは、周囲の喧騒には目もくれず真っ先にバスの車内へと残されていた小さな子犬の元へと向かった。

通路の床へ静かにしゃがみ込むと、胸元で揺れる聴診器を細い指先でつまみ子犬の小さな胸へと優しく滑らせるようにして軽く当てる。

(心音良し、呼吸正常、成長順調、若旦那様を護る身体として問題なし)

 

子犬は初めて見る人間の形をした「変なモノ」に対して、微かに身体を強張らせて緊張の気配を見せた。

だが、プロの訓練を受けてきた警察犬候補としての矜持からか、診察が終わるまでじっとその場を動かずに耐えていた。

 

ドッグトレーナーゾンビは、診察を受けるその横で物言わぬ彫刻のように静かに立っていた。

 

そして、かつて訓練場を震わせていたであろう低い声の代わりとなる厳格な動作で短い指示を出す。

(待て)

 

その手のひらの動きを捉えた子犬はほんの一瞬だけ戸惑うように耳を伏せたが、すぐにその場で小さなお尻を床に下ろして座った。玩具のような小さな四肢を踏ん張り、ぴたりと動かなくなる。

その健気な従順さに呼応するようにハヤテが通路の奥からゆっくりと近付いてきた。さらに、護衛を担う寡黙な大型犬のシェパード系ゾンビと、メイドたちに可愛がられているレトリバー系のゾンビ犬の二匹もハヤテの後に従うようにしてその場へ並ぶ。

 

ドッグトレーナーゾンビは何も言わず、今度は軽く片手を水平に上げる。

(整列)

 

その動作一つで、生前からの訓練が染みついた三匹のゾンビ犬と新人の小さな子犬の計四匹が通路に一列に美しく並び立った。

 

「……なんだこれは」

 

その異様なほど統率された光景に、関口が思わず呆気にとられたような声を呟く。

烏丸は子供のように無邪気に笑った。

 

「なんか、訓練始まってる」

 

その犬たちの規律を見届け、真っ白なコック帽を被った総料理長ゾンビが最後にバスを一度だけ鋭く見据えた。

そして、かつて厨房の全員を震え上がらせていた合図の代わりに短く指を鳴らすような鋭い仕草をしてみせる。

(昼食を開始する。若旦那様の御食事に、一分の遅れも許されない)

 

その瞬間だった。

高架下の薄暗いバスの影の下で、新しく加わった使用人ゾンビたちの動きが一斉に信じられないほどの精度で加速した。

 

副料理長ゾンビが、誰よりも素早く折り畳み式の調理台を広げる。

(調理スペース確保。衛生状態、すべて良好)

 

パティシエゾンビが、銀色のケースの温度計を厳しく見つめる。

(冷却維持。デザートの鮮度は完璧だ)

 

総料理長ゾンビが、風向きと周囲の可燃物を無言で見回す。

(火器使用許可確認。煙を出さぬよう、火力を極小に調整せよ)

 

設備管理ゾンビが、バスの配電盤のメーターを素早く指で叩いた。

(電力供給安定。調理器具への負荷、一切なし)

 

自動車整備士ゾンビは、油のついた手を拭いながら相棒たちを援護する。

(待機中、異常なし。いつでも車両は動かせる)

 

ドッグトレーナーゾンビの濁った瞳が、一列に並んだ犬たちの精神を縛るように据わる。

(集中。若旦那様の御食事の邪魔をさせるな)

 

子犬は、その異形たちの凄まじい熱量とプロの規律を前にして小さな身体をぴんと引き締め、ただ無言で烏丸の足元に座り続けていた。

 

「すごいな……」

 

関口が、感嘆を通り越したような声音で小さく息を吐く。

「完全に分業されてる。あのシェルターの防衛システムですら、ここまで淀みなくは動かないぞ」

 

「うん」

 

烏丸は誇らしげに、自分のことのように嬉しそうに何度も頷く。

 

やがて高架下のコンクリートの片隅には、塵一つなく磨き上げられた即席の簡易調理スペースが完璧に整えられていた。

誰も声を荒げたり慌ててはいない。誰も数センチの無駄な動きすらしていない。そこは無機質な高架下だというのに、場所など物ともしない生前と何一つ変わらないプロフェッショナルとしての誇り高い「仕事」の時間がただ当然のように流れていた。

 

 

 

 

 

 

食事を終えた関口は、高架下の暗がりに散っていく職人たちの背中から視線を戻し、再び手元の地図へと鋭い目を落とした。

 

「……少し確認する」

 

関口が地図を畳みながら言う。

 

「もうすぐ街だから?」

「そうだ」

 

烏丸が窓の外を眺めたまま応じると、関口はほんの少しだけ保護者としての厳しさを滲ませて言葉を重ねた。

 

「大都市へ入れば、しばらく気は抜けないからな」

 

関口は肩にかけていた暗視双眼鏡へとそっと手を伸ばした。かつてコストゴの山のような物資の中から、その優れた性能に目を付けて調達しておいた軍用の高性能モデルだった。

 

大型バスの遮光カーテンをわずかに引き開け、関口はレンズの位置を慎重に合わせる。

 

フロントガラスの遥か先。陽炎の向こうに白く霞んでいるのは、この地方最大の都市へと侵入する幹線道路の入り口だった。

左右を強固なフェンスで囲まれた十四階建てのビル。その平らなコンクリートの屋上を、関口の鋭い目がじっと見据える。

 

(……やはり、いるな)

 

土嚢の陰に身を隠すようにして腹ばいになっている人間の影があった。ライフルの銃身らしき金属光沢が、夏の強い光を反射してきらりと瞬く。

 

「……見張りがいる」

 

関口は双眼鏡の倍率を落とすことなく、低く呟いた。

 

あの廃水族館にいたような、生存者たちとは違う。明確にシフトを組み、侵入者を警戒して防衛ラインを構築している「組織された」人間社会の気配がビルの屋上から生々しく漂っていた。

 

(軍人も混じってるな…)

「都市には入らない」

 

即決だった。元管理官の論理的な思考はこれ以上の前進を危険と判断し、瞬時に次のルートを探し始めていた。

 

その判断をすぐ後ろの座席で聞いていた老紳士ゾンビが、大切そうに抱えていたワインのボトルを一度だけ座席へ置き立ち上がる。そして関口が広げていた地図の一点を指先で静かに指し示した。

 

そこは幹線道路から大きく外れた、鬱蒼とした森の奥深くの場所だった。

地図には何も標されていない。

 

「……また、個人所有の場所か?」

 

関口が漏らすと、老紳士ゾンビは静かに、深く頷いた。

その瞬間、すっと傍で控えていた秘書ゾンビが持ち歩いていた鞄から重厚な革張りの分厚いファイルを取り出した。

 

音もなく開かれたそのページには、美しいフォントで『保有資産(物件)一覧』と記されている。

 

・邸宅

・別荘

・保養所

・ワインセラー

・美術品倉庫

・研修施設

 

上質な紙にどこまでも整然と並ぶ、膨大な資産のリスト。

世界が滅びる前にこの老紳士の一族がどれほどの富を築き、この国の土地をどれだけ私有していたのか。

ページを見るに物件はまだまだ続いているようだった。

 

その圧倒的な現実を前にして、関口はただ絶句するしかなかった。

 

 

 

 

 

 

大型バスはエンジンの回転数を静かに落としながら深い山道をゆっくりと登り、木々の間にひっそりと佇む一軒の別荘の前で静かに停止した。

 

 

長い年月放置されていた建物だった。

白い外壁には太い蔦が這うようにして複雑に絡みつき、かつて美しく整えられていたであろう庭はすでに膝の高さまで雑草が伸び放題になっている。大きな窓ガラスはどれも砂埃で白く煤けており、広々としたウッドデッキには幾重にも重なった落ち葉が厚く積もっていた。

 

「別荘?」

 

烏丸が大型バスの窓に張り付くようにして、不思議そうに外の景色へと顔を覗かせる。

 

「そうみたいだな」

 

関口もその隣から、手入れの途絶えた庭の様子を冷静に見渡した。

 

「……かなり大きい。ただの避暑用の小屋という規模じゃないな」

 

そこは、鬱蒼とした森に優しく囲まれたおそろしく静かな場所だった。

人の気配はない。外を徘徊するゾンビの姿すらここにはなかった。

耳を澄ませても、聞こえてくるのは山から吹き降ろす風に揺れるさやさやとした葉擦れの音だけだった。

 

 

バスが完全に停まると、それまで車内の最前列に陣取っていた老紳士ゾンビがスッと静かに腰を上げた。

それを無言の合図にしたかのように、助手席の執事ゾンビも流れるような動作で立ち上がる。

 

さらに、その後ろに控えていたメイドゾンビたち。真っ白なコック帽を直した総料理長に、副料理長、そして小さなケースを抱えたパティシエ。工具箱の重みを確かめる設備管理担当に、レンチを握り直す自動車整備士。犬たちの手綱を握るドッグトレーナーに、白衣の襟を正した獣医。胸元にタストヴァンを光らせたソムリエ、そしてバッジを付けた警備員までが。

その他新しく加わった職人ゾンビたちを含む全員が、一切の音を立てないまま、一斉に席を立った。

 

その一糸乱れぬ気配の切り替わりに、烏丸もつられて立ち上がる。

 

「手伝う?」

 

そう言って、烏丸も外へ降りようとした、まさにその時だった。

二人の進路を遮るようにして一人のメイドゾンビがすっと素早い動きで目の前へ回り込み、そっと両手を胸の前で広げてみせた。決して力ずくではない。けれど、そこには「どうぞ、そのままで」と無言で伝えるような、おそろしく丁寧で柔らかな制止の圧があった。

 

進路を塞がれた烏丸は、足を止めて不思議そうに首を傾げる。

 

続いて関口も、周囲の安全を確保するために自分が代わりに外へ出ようと立ち上がる。

すると今度は、燕尾服のシワを完璧に正した執事ゾンビが静かに一歩前へ立ちはだかった。生前と何一つ変わらぬ極上の所作で深く美しく一礼し、スッと長い片手を伸ばしてバスのすぐ傍らの別の方向を示した。

 

 

そこにはいつの間に車内の荷台から運び出したのか、塵一つなく磨き上げられた折り畳み式のアウトドアテーブルと、人数分の頑丈なキャンプチェア。さらにその上には、夏の強い陽射しを遮るための大きなパラソルまでが完璧な配置で設置されていた。

 

「……」

 

関口はその差し出された執事ゾンビの手のひらをじっと見つめ、すぐに諦めた。

執事ゾンビは、元管理官の男に対して、もう一度だけ丁寧に、最大級の敬意を込めて一礼した。

(どうぞ全てが整うまで、こちらでお静かにお寛ぎくださいませ)

言葉にならないその圧倒的なプロの眼差しが、そう告げているようだった。

 

「……邪魔らしい」

 

苦笑しながら関口が言う。

老紳士ゾンビから家族として完全に認められた関口に対して、使用人ゾンビたちは「お世話をすべき対象」として最優先の過保護を発揮する烏丸の次に関口を認識し始めていた。つまり、これからの肉体労働の場において彼ら二人の手伝いなどは一ミリも必要とされていなかった。

 

「そうなんだ」

 

烏丸は怒るでもなく、その丁重な拒絶に対して素直に納得した。

 

「じゃあ待ってよう」

 

二人はそれ以上逆らうことなく、大人しく用意された椅子へと腰掛けた。

それを見届けると使用人ゾンビたちは若旦那様たちが大人しく安全圏に収まってくれたことに、心底満足そうに深く頷きバスを降りた。

 

すると今度は、テーブルの真ん中へ、小さな冷蔵ケースを大げさでなく大事そうに両手で抱えたパティシエゾンビが音もなく現れた。

中から滑らかな手つきで取り出されたのは、美しい装飾の施された焼き菓子の缶と、無骨な小型のガスコンロだった。

彼は一切の躊躇もない慣れた手つきで、カチリと静かにコンクリートの上で湯を沸かし始める。

その横からは副料理長ゾンビがすっと滑り込み、シミ一つない純白のテーブルクロスを風に煽られぬよう見事な手際で広げた。

 

「……準備いいな」

 

関口が、その無言の神速の連携に思わず感嘆を漏らすように呟いた。烏丸はテーブルに置かれた出来立ての焼き菓子を一つ指先で受け取ると、

 

「いただきます」

 

そう言って、小さく笑った。

ほろりと口の中で崩れる焼き菓子の甘い香りが、鬱蒼とした森を吹き抜ける初夏の柔らかな風へと溶けていく。

 

いつの間にか、ハヤテたち三匹のゾンビ犬は強い日差しを避けるようにして涼しい木陰で静かに伏せていた。小さな子犬だけは、ここが一番安心できる場所だと分かっているように烏丸の足元へちょこんと座り込んでいる。

 

その様子を死んだ濁った瞳でじっと見つめていたドッグトレーナーゾンビが、音もなくこちらへ近付いてきた。

子犬の真正面へと静かに立ち塞がる。

 

「(……)」

 

声は出さない。ただ手のひらを低く、水平に軽く上げる。

子犬は以前植え付けられたその動作を、幼いなりに瞬時に理解した。玩具のような小さな四肢を踏ん張り、ぴたりと床へ伏せる。

 

(待て)

 

(良し)

 

(集中が切れていない)

(優秀だ)

 

そこには声の振動など存在しない。それでも、確かに伝わっていた。

それを見たハヤテも、寡黙なシェパードも人懐っこいレトリバーも、示し合わせたかのように三匹そろって同時にその場へ深く伏せた。子犬はそんな偉大な先輩犬たちの様子を大きな耳を揺らしながらちらりと見て、真似をするようにしてもう一度自らの姿勢を美しく整え直す。

 

ドッグトレーナーゾンビは、その姿勢を正面から受け止め満足そうに一度だけ深く頷いた。

 

子犬はすべてのトレーニングが終わると、何事もなかったかのように再び烏丸の足元へともぐり込み静かに背筋を伸ばして伏せた。

烏丸は穏やかな時間のなかで再び焼き菓子を口へ運ぶ。

 

「美味しい」

 

その混じり気のない一言だけでパティシエゾンビは生前のプライドをすべて満たされたかのように、満足そうに小さく誇らしげに胸を張った。

そして全ての配膳を終えると彼らも別荘へと消えて行った。

 

 

 

木漏れ日が揺れるテーブルの上には、これ以上ないほどに穏やかで贅沢な時間が流れていた。

 

 

 

 

 

だが、その頃。

美しく調和したパラソルの日陰からほんの少しだけ離れた別荘の向こう側。

 

若旦那様(烏丸)にも、旦那様(関口)にも、誰にも気付かれないままかつて資産家の一族を支えた最強の職人集団による、一秒の無駄も許されない静かな戦争が幕を開けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

執事ゾンビが薄暗い玄関ホールへと立ち、かつて主人が所有していた建物全体を一度だけ鋭く見渡した。

そして老紳士ゾンビへ向き直る。

 

(若旦那様と旦那様は外でお待ち頂いています)

(大旦那様、ご指示を)

 

老紳士ゾンビは、秘書ゾンビから受け取った別荘の見取り図をゆっくりと広げた。

皺だらけの指先が、いくつかの場所を順番になぞっていく。

執事ゾンビはその動きを一つ残らず読み取ると、すぐさま使用人たちへ視線を走らせた。

 

(客間を先に)

(厨房、発電、風呂は同時進行)

 

そして、胸元で静かに両手を打つ。

 

パン。

 

しんと静まり返った別荘へ、小さく乾いた音だけが響いた。

それは、この屋敷を再び「我が家」に戻すための開始の合図だった。

 

音が家中に響き渡るやいなや、メイドゾンビたちが一斉に四方へと散っていった。

料理人たちは厨房へ。

設備管理担当は地下設備へ。

整備士は発電機のある車庫へ。

ドッグトレーナーと獣医は犬舎と庭へ。

それぞれが一切迷うことなく、自分の持ち場へ駆け出していった。

 

 

 

一階、二階、奥の客室、書斎、食堂、廊下。

何年もの間、固く閉じ付いていた窓がメイドゾンビによって次々と開け放たれていく。

 

(開かない)

(そっち押さえて)

(蝶番が完全に錆びてる)

(整備担当)

 

彼女たちの張り詰めた意志を察して、レンチを握った自動車整備士ゾンビが即座に階段を駆け上ってきた。隙間にさっと油を差し、固着した金属をハンマーで軽く叩く。

 

ガタン。

 

長い眠りから目覚めるように窓が開く。

 

(次)

おもてなしのプロたちは感謝の言葉を交わす暇すら惜しむように、すでに次の客室へと走っていた。

 

その頃、外の玄関前では、胸元にバッジを付けた警備員ゾンビが周囲を鋭い目で見回しながら巡回を続けていた。

(侵入経路確認)

(ほころびあり、修繕)

敷地を囲む重厚な門、裏口、勝手口、崩れかけた塀、そして山の奥へと続く不穏な獣道。

危険が若旦那様を脅かさぬよう、一つ一つを冷徹に確認していく。

 

地下の薄暗い空間では、設備管理担当ゾンビが懐中電灯の細い光を片手に、這い回る古い配管の奥を覗き込んでいた。

(給水……生きている)

さらに奥の暗がりへと進み、壁際の巨大なタンクを見上げる。

(ボイラー確認)

頑固に固まった錆びたバルブを、泥のついた手で慎重に回していく。

 

ゴボッ。

 

長い眠りから無理やり目覚めさせられたかのように、別荘の配管全体が大きく震えた。

(水圧、問題なし)

 

地上では、さらに別の設備担当ゾンビが裏手の給電小屋へと向かっていた。

(発電機始動)

力強くスターターの紐を引き絞る。

 

ドドドドド……。

 

床を揺らす低い振動音が響き、長い間電気を失っていた別荘の照明が一つ、また一つと、柔らかな灯りを静かに点灯させていった。設備担当ゾンビは満足げに腕を組んだ。

(停電は許されない)

 

広大な車庫の奥では、整備士ゾンビが金属製の工具箱をガシャリと開いていた。

(車庫使用可能)

(オイル保管庫確認)

(ジャッキ位置変更)

大都市への突入を控えた大型バスがいつでも完璧な整備を受けられるよう、そのための作業動線までをこの一瞬で整え始める。

 

一階の厨房では、真っ白なコック帽を被った総料理長ゾンビが、重い木製の扉をゆっくりと押し開けた。

そこにあったのは、静まり返った厨房、積もった埃、天井の蜘蛛の巣、そして錆びついた鍋。

彼はそれらを一瞥し、静かに頷いた。

(掃除するか)

 

その短い一言だけで、副料理長ゾンビが真っ直ぐ棚へと向かって洗剤を手に取り、パティシエゾンビが素早い手つきで冷蔵設備のコンプレッサーを確認する。

(冷蔵庫、生存)

(清掃開始します)

(すべての調理器具、煮沸消毒)

瞬く間に、死に絶えていた厨房へ生前の圧倒的な活気が戻っていく。

 

さらに裏庭では、ドッグトレーナーゾンビが木製の犬舎の状態を厳しく見ていた。

(犬舎使用可能)

(水飲み場、取替)

(排水の詰まり、なし)

(周囲を取り囲む柵、修繕必要)

一つずつ、ハヤテたちや新しく加わった子犬が一分の不快もなく気持ちよく過ごせる場所かどうか。

ただそれだけを基準にして確認を重ねていた。

 

そのすぐ横では、白衣姿の獣医ゾンビが建物の一室へと足を踏み入れていた。

埃を被った古い診察台、スチール製の薬棚、古い消毒設備。

(医務室)

彼は静かに頷き、その濁った目を細めた。

(使用可能…だが、一部取替必須)

若旦那様に万が一のことがあっても即座に対応できるよう、棚から必要な器具だけを無駄なく選び始めた。

 

うめき声すら最低限の静寂。

それなのに、全員の動きが恐ろしいほどの精度で噛み合っていた。

 

「あれを持ってきてくれ」と言う必要もない。

「次はこれをやってくれ」と言う必要もない。

全員が、全員の仕事のすべてを、その止まった脳の底で完全に理解していた。

何十年も同じ資産家の一族のために汗を流し、一緒に働いてきた者だけが持つ完璧な阿吽の呼吸だった。

 

一時間後。

 

美しく掃き清められた別荘の玄関で、執事ゾンビが静かにみだれのない燕尾服の服装を整えた。その佇まいを背後から見守っていた老紳士ゾンビが、満足そうに一度だけ大旦那としての気品ある頷きを返す。

 

執事ゾンビは無言のまま玄関を出て、木漏れ日の揺れる大型バスの横へと歩み寄った。

コンコン。

静かな森の空気を壊さぬよう、控えめに車の扉を叩く。

 

カーテンの隙間から、烏丸が顔を出した。

 

「終わった?」

 

執事ゾンビは、いつもの極上の角度で深く一礼した。その表情はおそろしく穏やかだった。

まるで(若旦那様、旦那様。全てのご案内ができます)そう、静かに伝えているようだった。

 

「行こうか」

 

烏丸が椅子から立ち上がる。

隣でコーヒーカップをテーブルへ置いた関口も、その後ろへ続いた。

 

二人は大型バスのステップを降りる。

 

そして、定位置から広がる別荘の全景を目にした瞬間、揃って足を止めた。

 

「「…………」」

 

烏丸は何も言わなかった。

関口も何も言わない。

 

二人とも、

ただ、

目の前の別荘を見ていた。

つい一時間前まで、そこにあったのは蔦に覆われた薄汚れた廃墟だったはずだ。

 

膝まで雑草だらけだった庭。

厚い砂埃で曇っていた窓。

冷気とカビの臭いが満ちていた薄暗い室内。

そのすべてが、まるで長年丁寧な手入れを受けながら人が住み続けていたかのような姿へと美しく整えられていた。

 

窓は塵一つなく磨き上げられて陽の光を反射し、庭木は景観を損ねぬよう最低限の範囲で綺麗に剪定されている。

玄関へと続く石畳はチリ一つなく掃き清められ、開け放たれた室内の奥からは温かみのある柔らかな灯りが優しく溢れ出ていた。

 

 

関口と烏丸は、その異次元の職人たちの仕事跡を前にして、しばらくの間完全に言葉を失っていた。

外の世界の崩壊など嘘のようだと思えるほどの調和を前にして、関口は額に手を当てやっとのことで小さく呟いた。

 

「……おかしい」

 

 

 

 

 

 

日が落ちる頃には、別荘全体が静かな灯りに包まれていた。

 

窓から溢れる温かな灯りは、周囲を取り囲む深い木々によって完全に遮られ、外の暗闇からはその存在をほとんど察知できない。深い山の中、ただ瀬戸際を渡るような夜の虫の声だけが、しっとりと辺りを包み込んでいた。

 

ふいに関口が手元のコーヒーカップを置き、静かに立ち上がる。

「少し見てくる」

 

烏丸が顔を上げる。

「どこ?」

 

「この施設、見張り台代わりに使えるような高所があるかもしれない。都市を俯瞰できる場所を探しておきたいんだ」

 

その会話を聞いた瞬間、すぐ傍らに控えていた設備管理担当ゾンビが小さく頷いた。そのまま何も言わずに先導を始めるようにして音もなく歩き出す。

 

「あるらしい」

 

関口は、彼らの先回りに苦笑した。

 

「行こう」

 

烏丸も自然な動作で立ち上がった。足元からは小さな子犬がすぐに後ろへ付き従い、木陰で伏せていたハヤテたち三匹のゾンビ犬も、主人の気配を察して静かについてくる。

 

別荘の裏手から、さらに月明かりの届かない山道を少しだけ登った先のことだった。

太い木々の合間に、ひっそりと組まれた小さな木製の階段が続いていた。それを一段ずつ踏みしめて登った先には、一本の巨大な大木へ寄り添うようにして建てられた、小さな木造の[[rb:見張り小屋 > ツリーハウス]]が佇んでいた。かつて狩猟や山林管理のために使われていたのだろう。簡素ではあるが、風雨に耐え抜いてきた堅牢な造りだった。

 

設備管理担当ゾンビが、錆びついたドアノブへ手を掛け、静かに扉を開ける。懐中電灯の光が差し込んだ狭い室内には、塵一つ、埃一つ落ちていなかった。お菓子休憩をしていたあのわずかな一時間の間に、一体いつの間に掃除を済ませたのか、床板の隅々にいたるまで美しく磨き上げられていた。

 

「……相変わらず、仕事が早いな」

 

思わず関口が感嘆を漏らすように呟くと、設備管理担当ゾンビは、自分の職務を果たしたプロの誇りを滲ませるように、少しだけ誇らしげに胸を張った。

 

関口は背負ってきた荷物から、大きな暗視双眼鏡を取り出した。

それを備え付けの堅牢な三脚へと素早く固定し、レンズの向きを静かに夜の街へと向けた。

 

「……」

 

レンズの先、大都市はまだ遥か遠くにある。肉眼で見つめる限りは、ただの巨大な黒い影の塊にしか見えない。

しかし、高性能なナイトビジョンの緑色の視界の中では、世界は全く違った生々しさを持って浮かび上がっていた。

 

聳え立つ高層ビル。闇を横たわる無機質な道路。あちこちの窓にぽつぽつと灯る、生々しい電気の明かり。

そこをゆっくりと移動していく、生きている人間の人影。屋上のコンクリートの上を、規則正しく巡回する監視員たちの足取り。彼らが手元から放つ、懐中電灯の細い光の筋。そして、主要な防衛ラインの要所に、強固に設けられたいくつもの見張り所。

 

「……やはり」

 

関口はファインダーを見つめたまま、静かに肺の底の息を吐き出した。

 

「人はいる。生きている人間たちの強固な社会が、あそこに残っている」

 

烏丸がその言葉に促されるように、横から身を乗り出してレンズの先を覗き込んだ。

 

「多い?」

「ああ」

 

関口は、烏丸の横顔を見つめ、ほんの少しだけ間を置いてから答えた。

 

「俺たちがいたシェルターの比じゃない。思っていた以上にな」

 

烏丸は双眼鏡から目を離し、緑色に明滅する遠い街の灯りを、ぼんやりと遠い目で見つめた。

 

「そう」

 

呟いたその一言には、なんの感情の起伏も交じっていなかった。あそこへ行きたいとも、行きたくないとも言わない。ただ静かに受け流すかのような、諦めを含んだ静寂だった。

 

関口はそんな烏丸の横顔からそっと視線を外し、今度は逆の方向──つまり、あの巨大な街の側から、自分たちがいるこの山林がどう見えるかを、レンズを回して慎重に確認し始めた。

 

生い茂る木々の密度。山の尾根の重なり。なだらかな稜線の傾き。

視界を完全に遮断している、深い深い森の壁。

別荘のある場所は、大都市の側からは完全に生い茂る緑の中に埋もれていた。

 

「……よし」

 

これなら、夜間にどれほど家の中に明かりを点けて暮らそうとも、この距離と地形から見つけることはまず不可能だ。関口は双眼鏡を三脚から外し、静かにケースへと畳んだ。

 

「ここなら、あいつらには絶対に見つからない」

 

烏丸の唇の端に、ふわりと小さな笑みが浮かんだ。

 

「じゃあ、安心だね」

 

「ああ」

関口も、烏丸の安堵に父性を滲ませるようにして深く頷いた。

 

「しばらくは、あの都市へ突入することはやめて、ここを拠点にしよう」

「うん」

 

二人のやり取りに合わせるように、足元で丸くなっていた子犬が嬉しそうに小さな尻尾をトントンと床へ振った。

少し離れた木々の暗がりでは、ハヤテをはじめとする三匹のゾンビ犬たちが静かに山の深い闇を見つめて周囲を警戒している。

 

 

そして、遥か眼下の別荘の方向からはメイドたちが手際よく食器を片付ける微かな心地よい音と、若旦那様たちのために過保護に全てを整え終えた使用人たちの、穏やかな気配だけが風に乗って聞こえていた。

 

 

 

深い山奥の古い別荘には、いま彼らにとっての新しい「我が家」が静かに、けれど確かに一つ増えていた。

 

 

(第34話・完)

 

 

 

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