薬局から這うようにしてアパートへ戻り、最強らしい店員オススメの解熱剤をポカリで流し込んでから、丸三日。
烏丸は泥のように眠り続け――そして、ついに覚醒した。
「……軽い。頭が、めちゃくちゃ軽い……!」
ベッドから起き上がった烏丸は、自分の体に漲る万全のエネルギーに目を見張った。額に手を当てても熱はない。完全に平熱、36.5度だ。丸一週間の地獄のような高熱から、ついに肉体が完全復活を果たした瞬間だった。
だが、烏丸が次に取った行動は、外へ出ることではなかった。
一週間以上、外界から完全に隔離されていたのだ。まずは今、世間で何が起きているのかを知る必要がある。
烏丸は机の上のスマホを手に取り、Wi-Fi回線を使ってネットの巨大匿名掲示板(ちゃんねる)を覗き込んだ。
画面に並ぶスレッドのタイトルは、どれも常軌を逸していた。
『【速報】人が人を喰ってるマジで終わった』
『自衛隊壊滅、避難所はもう無いから各自生き残れ』
『噛まれた奴が全員バケモノ化する動画置いておく』
恐る恐るスレッドを開くと、そこは純粋な絶望に染まった地獄絵図だった。
「隣人がゾンビになった」
「家族が目の前で喰われた」
「外に出たら即死する」
といった阿鼻叫喚の書き込みが秒単位で乱立し、添付された動画では、血まみれの異形たちが生存者に狂暴に掴みかかり、骨まで貪り食っているリアルな映像が流れていた。
ネットの向こうにあるのは、完全に崩壊し、下手こいたら一瞬で命を落とす凶悪な世界。
その凄惨な現実を突きつけられた瞬間、烏丸の脳裏に、ある強烈な違和感がフラッシュバックした。
(待てよ。三日前のあの記憶……あれは本当に現実か?)
パジャマ姿のまま外に出て、血まみれの人々に満員電車の乗客さながらに道を譲られ、薬局の店員ゾンビにお会計を免除してもらった、あの奇妙な体験。
これだけ世界が凶暴なバケモノで溢れているというのに、あんな都合のいいことが起きるはずがない。
常識的に考えて、40度近い高熱が見せた「都合のいい白昼夢(幻覚)」だったのではないか。もしあれが幻で、外にいるのがネットに書かれているような飢えたバケモノたちなら、三日前と同じノリで外に出た瞬間、自分は一秒で噛み殺されて終わる。
烏丸は、命を守るためにまず、慎重な「検証」を行うことにした。
彼は静かにベランダの窓を薄く開け、スマホのカメラの倍率を最大にして下の通りを覗き込んだ。
焦げ臭い空気の中、肉の腐敗臭が微かに風に乗って漂ってくる。
画面の向こうでは、肌が土気色に変色した「元人間」たちが、不規則な足取りで徘徊していた。
その時、通りの向こうから、生き残った生存者らしき男が血相を変えて走ってきた。
それを見つけた一匹のゾンビが、喉から「ガアァァァッ!」とおぞましい咆哮を上げる。次の瞬間、周囲にいたゾンビたちが、ネットの動画で見た通りの凄まじい瞬発力で男に殺到した。男はあっという間に押し倒され、路上は一瞬で血の海へと変わった。
画面越しにそのガチのホラー現場を目撃し、烏丸の背中にドッと冷や汗が流れた。
「……幻覚じゃねえ。あいつら、マジで本物の凶暴なバケモノだ……」
ゴクリ、と生唾を飲み込む。
では、なぜ自分だけは襲われなかったのか。高熱のせいか、体質のせいか。
体調が万全になった今でも、あの「公認」の有効期限は切れていないのか。
すこし躊躇して、烏丸は自室にあった大きめの「石ころ(ベランダの植木鉢の飾り石)」を手に取ると、身を隠しながら、ゾンビたちの群れから少し離れた路上へと勢いよく放り投げた。
――カツン!
乾いた音が響いた瞬間、群がっていたゾンビたちが一斉に音のした方を振り向き、猛然と突進していった。
音に対する反応速度が異常だった。
身体がプルプル震える。だが結局、外に出て食料を調達しなければ遅かれ早かれ死ぬ。
覚悟をなんとか決める。
「よし、次は肉体での検証だ……」
烏丸は、動きやすい黒のパーカーとジーンズに着替え、スニーカーの紐をきつく結んだ。
万が一、襲われたら全力でダッシュして部屋に逃げ帰る。その覚悟を決め、ナイフの一本も持たずに(下手に武器を持つと敵対行動とみなされるリスクがあるため)、おそるおそる部屋のドアを開けた。
アパートの階段をトボトボと降りていく。心臓がうるさいほど脈打っている。
一歩、また一歩と一階の入り口に近づくと、路地の角から、さっき男を貪り食っていた血まみれのゾンビが一匹、不気味なうめき声を上げながら姿を現した。
ゾンビと、完全に目が合った。
烏丸はいつでも反転して逃げ出せるよう、足の筋肉を極限まで緊張させる。
ゾンビは最初、正面から歩いてくる烏丸を見て「ウア……?」と、獲物を見つけたかのように一瞬だけ体を強張らせた。
しかし、距離が三メートルまで縮まった、その瞬間。
ゾンビの濁った眼球が、驚いたように見開かれ、次の瞬間にはフニャリと表情が和らいだ。
「(あ、三日前に死にかけてたパジャマの兄ちゃんじゃん! すっかり元気になって、よかったなぁ……!)」
ゾンビは、自分の顔についた血を烏丸に見せないように隠すかのように、慌ててフイッと顔を背けた。端に寄り、まるで道で知り合いに会ってスペースを空ける一般人のように、緩やかに、自然に壁際へと体を寄せて道を譲ってくれた。
その様子を見て、烏丸は衝撃を覚え、しばらくそのまま立ち止まった。
ゾンビは通らないの?というように首を傾げたあと、また外へ意識を戻した。
「……え??ほんとに?熱が下がっても、俺、本当にこいつらに襲われないの??」
仮説は100%の真実へと変わった。
自分がなぜ襲われないのかの理由は分からない。だが、この世界において自分だけが「不可視の安全バリア」を持っていることだけは確かだった。
確信を得た烏丸の脳内は、即座に次のフェーズへと移行する。
(よし。生き残れると分かったなら、まずは長期戦の準備だ。ライフラインはいずれ止まる。今のアパートはセキュリティーがガバガバだし、狭くて物資が置けない。まずは、頑丈な『拠点』を確保する)
烏丸が目星をつけたのは、アパートから自転車で十分ほどの場所にある、地元の誰もが知る高級住宅街だった。
そこには、一般の住宅とは明らかに一線を画す、広大な敷地を持つ大豪邸が存在する。
烏丸がその場所に到着すると、そこには圧倒的な光景が広がっていた。
敷地の周りを、高級感のある強固な石造りの高い塀が、文字通り「ずーーーーーーーっと」地平線の先まで続いている。これなら外部からの暴徒の侵入も物理的に防げるし、プライバシーも完璧だ。
「家の人には申し訳ないけど、ここを、どうにかして新しい『家』にする」
重厚な黒鉄の正門の前に立つ。当然、門には頑丈な鍵がかかっており、素手で開けることはできない。
正門の隙間からどうしようかと中を覗き見た。
広大な敷地内(イングリッシュガーデン風の前庭)を見渡すと、そこには複数のゾンビたちが徘徊していた。
元・お抱え運転手や元・庭師、そして揃いのエプロンを着た元・メイドや執事とおぼしきゾンビたちが、敷地内のあちこちでゆっくりとうろついている。その数、およそ十数匹。
ふと、覗いていた烏丸に犬のゾンビが気づいた。全力で尻尾を振って寄ってきた。
その瞬間、庭園に散らばっていたゾンビたちは、決して急に動きを止めたりはせず、なぜかゆっくりと門の方へと濁った視線を向けた。
一瞬だけ身構える烏丸。しかし、ゾンビたちは烏丸の顔を認識した瞬間、ハッとしたように姿勢を正した。
「(おかえりなさいませ……若旦那様! 皆の者、主人のご帰還だぞ!)」
そんな無言の総意が庭中に広がっていくような、どこか丁寧な動きだった。
すぐに元・庭師のゾンビがポケットからマスターキーを取り出し、カチャリと鍵を開けた。すると、近くにいた元・運転手と元・執事のゾンビが二人がかりで重い鉄門を「ギギギ……」と内側からゆっくりと押し開ける。
それだけではなかった。
門が開くのと同時に、前庭にいた元・メイドたちが、玄関へと続く綺麗に整えられた一本道の両脇にサッと並び、まるで一流ホテルのスタッフがVIPを迎えるかのような綺麗な花道を作り出したのだ。
「え、え…。あ、どうも。すいません……」
烏丸が恐縮しながら軽く会釈をして敷地内に入ると、犬のゾンビが大興奮で烏丸にまとわりつく。
両脇のゾンビたちは深々とお辞儀をし、ある者は「(どうぞ、ごゆっくりお寛ぎください……)」と言いたげな優しい目で、またある者は「(お体の具合はもうよろしいのですか?)」と心配そうな顔で、烏丸を邸宅の玄関へと静かに誘導してくれた。
犬ゾンビ(首輪には「ハヤテ」と刻印してあった)と玄関で別れ、こわごわと中へ入る。
中は、信じられないほど静かだった。
埃一つない大理石の廊下を怯えながら進み、一番奥にある広大なリビングの扉を開ける。
そこには、この豪邸の元々の持ち主――上品な三つ揃えのスーツを着た、老紳士のゾンビが高級ソファに背筋を伸ばして座っていた。
「うわっ……」
烏丸は思わず息を呑み、逃げ出そうと後ずさりする。
老紳士ゾンビは、入ってきた烏丸へとゆっくりと濁った視線を向けた。だが、そこに狂暴な飢えの色はない。それどころか、若くして終末世界を彷徨う烏丸を哀れむような、自身の愛孫に向けるような深い慈愛の目を向けた。
老紳士ゾンビはゆっくりと片手を挙げ、手の平を上にして、この広大なリビング、いや、邸宅全体を優しく指し示した。
(いやあ、若い尊い命なのに大変な世界になってしまったね。私の家でよければ、どうぞ自由に使いなさい……)
それは、言葉を超えた「正式な譲渡」の意思表示だった。驚く烏丸の前で、老紳士ゾンビは満足そうに小さく頷くと高級ソファからゆっくりと立ち上がった。
そして老紳士ゾンビは鍵を差し出した。
震える手だった。
だが、その動作には不思議な品格があった。
まるで孫へ遺産を託す祖父のように。
そしてお気に入りの高級ワイン『ロマネ・コンティ』のボトルをそっと小脇に抱えた。
そして。景観を、いや、自分の体がこれ以上腐敗し、この美しい邸宅を汚してしまわないようにと、自ら地下にある「温度と湿度が完璧に管理された高級ワインセラー」へと、優雅な足取りで階段を降りていった。
セキュリティー万全の冷暗所に入り、お気に入りのワインを抱きしめながら、老紳士は烏丸に向けて「(私はここで眠るよ。君は上の広い部屋で、自由に生きなさい……)」と言いたげに微笑み、自ら内側から重いガラス扉を閉めて、静かにフリーズ(保存)されたのだった。
あまりのジェントルマン精神に烏丸が言葉もなく圧倒されていると、リビングの入り口に、前庭から付いてきたメイドや執事のゾンビたちが静かに整列していた。
彼らは、新しい主人となった烏丸に向けて、揃って深々と一礼する。伝統ある屋敷のプライドか、それぞれの胸ポケットから「退職届」を差し出すような仕草を見せた。
「(新しい旦那様、お仕えできて光栄でした。ですが、私たちもこのままだと、いずれ腐敗してこの美しい家を汚してしまいます……。ですので、本日をもってお暇を頂きます……)」
ゾンビたちは、家を清潔に保ちたいという究極のプロ意識から、自ら志願して「屋敷の外」へと出ていく選択をしたのだ。
彼らはトボトボと、しかしどこか誇らしげな背中で玄関を出ていくと、ずーーーーーーーっと続く長い塀の外側へと整列し始めた。元・お抱え運転手は正門の前に直立不動で立ち、元・メイドたちは塀の隙間を埋めるように等間隔で配置につき、そのまま街の暴徒や他の凶暴なゾンビを見張る「最強の私設警備隊」へとシフトしていく。
塀の外では、元・使用人たちが静かに持ち場についていた。
正門。
外壁。
見張り台代わりの植え込み。
誰に命じられたわけでもなく、彼らは黙々と警備を続けている。
一方その頃。
当の新しい主人は。
「……風呂入ろ」
豪邸の浴室を見つけていた。
世界が滅んで十日以上。
烏丸が最初に考えたのは、人類の未来でも食料問題でもなく。久しぶりのまともな入浴だった。
こうして。
終末世界最強クラスの安全拠点を手に入れた男の最初の仕事は、風呂だった。
(第4話・完)